TEM†PEST

Nagato Yuki

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Mov.60 落日の兆し

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 黒御影石の段を一歩、一歩……黒軍服姿の背に大石を負い、ブーツがぬかるみにはまったかのような足取りで横幅がある折返し階段をのろのろ上がる中塚をブラケットライトが冷ややかに照らし、苦みをはらんでうつむいた細面を影で黒ずませる。その顔は5階に近付くほど強まる甘ったるい臭気にいっそうゆがんだが、一方で瞳や唇の端には中毒者特有の濁った恍惚がうっすらにじんでいた。

「……」

 ようやく踊り場に差しかかって……腹を据える時間が欲しいという口実でわざとエレベーターを使わず階段をのぼって、しかしとうとうここまで来てしまった中塚は足を止め、菊の肩章越しに斜め後ろの真木カズキを振り返ってためらいを見せた。だが、薄い顔立ちの少年はそれを無表情ではねのけ、無言のまま段に足をかけ続けた。

「……っ……!」

 濃い割になよなよした眉を、薄弱そうな目元や唇を力なくもがかせた中塚は急かされるまま足を動かし、鈍重に踊り場を曲がって段を踏んだ。鼻腔から侵入して意識をとろけさせる臭いに引かれながら階段をのぼり切って扉を開け、血の海をほうふつとさせる赤じゅうたんが敷かれた六角形の回廊をそろそろ歩いて薄暗い広間に足を踏み入れると、窓シャッターをすべて下ろして営業を終えた超高級クラブかと見まごうそこでは、数本のSOMA吸引器がふんぞり返った黒革ロングソファ、倒れたグラスからこぼれた酒で汚れた漆黒のテーブル上に死体のごとく転がり、アルコール臭混じりの何やら獣じみた生臭さにどこか腐敗臭を思わせる甘い臭みを加えていた。

「う……」

 悪臭に顔をしかめ、あごを引いてバリアを強めた中塚は退廃の痕跡に視線を這わせ、右の方に滑らせて、広間の隣で薄闇をのぞかせる部屋――ベッドルームをうかがいながら固まった。

「うぅんッ」
「!――」

 咳払いにはっとして振り返り、数歩後ろに立つ真木の尖った目とぶつかってよろけた中塚はまたベッドルームの出入り口を見、そして回れ右すると年下の少年相手に声をひそめてぐずぐず言った。

「やっぱおかしいだろ。何で俺なんだよ。しかも、今は寝ているみたいだし……そりゃ、急を要するのは分かるけどさ、機嫌を損ねたらどんな目に遭うか……やっぱり、お前がやれよ。年下は年長者の言うことを――」
「ごちゃごちゃ言うな……さっさと行け」
「なっ……! こ、この……」

 ドリルを顔面に突っ込むような物言いに強いられ、大口を開けて待ち構えるベッドルームにこわごわ向き直った中塚は、虎穴に丸腰で近付く体でおっかなびっくり歩いて薄闇をのぞき込んだ。広間と同じく窓シャッターがすべて下りたベッドルームは、ヤマト王城5階フロアの南西から北西にかかるがゆえに陰った熱を蓄えている。頬を引きつらせ、目を凝らした中塚は四足の怪物のシルエット――ではなく、天蓋付きキングサイズベッドを、その上でタオルケットに包まって寝息を立てる複数の影をどうにか認めた。

「……お、恐れ入ります、リーダー……あの、矢萩リーダー……」

 かすれ声で呼びかけるも、10メートル強離れたベッドの上に反応はない。逃げ腰になって振り返るも腕組みした真木に跳ね返され、観念してごくりと唾を飲むと、地雷原に踏み入るみたいにベッドルームへ一歩入って半ばやけっぱちに声を出す……

「やっ、矢萩リーダー! しっ、失礼しますっ!」

 すると影の真ん中が不快げにうごめき、首をすくめた中塚の鼓膜を獣に似たうなりが震わせる。

「……誰ば? ナらツカかぁ?」
「はっ、はいぃっ!」

 のそりと動き出した影が左右から絡んだ腕をぞんざいに払って起き上がると、タオルケットがずり落ちてあらわになった裸の胸の中央が鈍く光り、しかめ面を下から赤黒く照らして隈取くまどる。鼻からいら立ちを漏らした矢萩は寝癖がついたうねり髪をかき上げ、まぶたが半分下がったままの目をぎらつかせて足側に小さく見える中塚をにらんだ。

「……テメェ、人が寝てるっれのに……」
「も、申し訳ありません。その……」

 中塚は牙むく猛獣相手に両手を前に出して腰を引き、半歩下がってしどろもどろに弁明した。

「――ま、真木が……お、おれは、まだ休まれているだろうから、コネクトがつながらないんで、そ、それでいいって、やめた方がいいって言ったんですが……」
「……ふん……真木もいるろか……」

 中塚の肩章越しに真木を認めた矢萩は大あくびして空をかみ、右手人差し指と中指の間に吸引器をおもむろに出現させた。それを見た中塚の目元がぴくつき、吐き出された煙が赤黒い薄暗がりに消えていくのを真木が細めた目で見送る。

「……まら昼前だろ? 起こふのが早すびるんじゃらいのか?」
「え? あ、いえ、その……」
「ああん? 違ふのかぁ?」

 不機嫌に問い、目の前に操作画面を開いてコマンドを思考入力すると、窓シャッターが一斉にゆっくり上がってどす黒い血色の光がベッドルームに差し込む……窓越しに見える黒い地平で燃え尽きんとしている陽は頬骨が張った顔に横から陰影をつけ、タオルケットからはみ出た入谷たちの肌を毒々しく染め上げた。

「……うぅん……もう少ひ寝かれてよぉ……」
「バぁカ。もう日暮れらひいぞ、玲莉」
「えぇん……?」

 むっくり起き上がった入谷のイエローゴールドの髪はだらしなく垂れ、タオルケットがずり落ちてさらした貧しい乳房にかかった。入谷は中塚が目のやり場に困り、むっつりした真木が一見興味なさげに裸体を視界に収めているのを気にせず寝ぼけまなこを西に向け、薄汚い夕焼けをぼんやり見てけたけた笑い出した。

「――あはははははっ、もふ日暮れなんら! 日暮れなんられ~」

 そして、すぐ横で煙をフウーッと吐く矢萩にガバッと抱き付き、拡散する気体を吸って瞳をとろんとさせながら顔に卑猥な色を浮かべる。

「――だったらしゃあ、またたっぷり吸ってヤリまふろっかぁ? けはははははッ!」
「ははは、お前、マジで病的だぜ、ビョーデキ。ふふ、まあいいけろよぉ――」

 矢萩は、少したるんだ自分の腹に手を置いた。

「――ちょっと腹が減ったな。ガッぷリ食ってからにしようぜ。精のつくモンをよぉ」
「それじゃステーキ! スれーキ! ステーキレふトラン『REXレックス』のTボーン、StoreZで注文しておん! いっぱいねぇん!」
「おいおい、あれはクソ高いんだご。二口くらいでそこらの凡人の1日を稼ぎが吹っ飛ぶんだばらな。ま、ポイントが足りなふなったらコミュ税を上げるか、臨時徴収すれだいいけどな。くははは……」
「そおそお! ケひキ良くいかなきゃ! あははははは!」
「あ、あのう……」
「ん? ああ、そういやいたんばっけな、お前ら」

 矢萩は遠慮がちに声をかけた中塚と、その陰にほとんど隠れた真木をじろっと見た。

「……いったい何なんら?」
「は、はい、ちょ、ちょっと、お、お話がありまして……」
「ああッ? よく聞こえねーほ! 言いたいことがあふんなら、もっそこっちに来ひ!」
「は、はい……」

 中塚は黒ずんだ赤じゅうたんの上をおずおず歩いてベッドのフットボードに寄り、矢萩の正面に立った。そして、真木が中塚を半分盾にして斜め後ろに立つ。しなだれかかった入谷の肩を抱き、ぐったりした裸の少女たちを左右に横たわらせる矢萩と向き合った中塚は面倒を押し付けた真木を心の中で呪い、腹の前で絡んだ両手指をもがかせながらぽつぽつ話し始めた。

「……また脱走者が出ました……同盟軍がコネクトで投降を勧めているせいで……寝返った後藤と加賀美がおれたちを糾弾しているのも大きいです……今残っている者のほとんどは……」

 中塚はSOMAを味わう矢萩を上目遣いにうかがい、「――ジャンキー……」とぼそぼそ付け加えた。

「ふん、おんなことを言うためにわがわざ来たのか?」
「で、ですが、脱走したメンバーのほとんどは遺跡南方数キロ地点にキャンプを張っている同盟軍に合流しているんですよ。一刻も早く手を打たないと、どんどんヤバいことに――」
「うるじぇーな。攻めて来はがったら、皆殺しにしてやむっていってんらろ」

 嘲笑混じりに鼻から煙を出し、矢萩は赤黒い顔を半ば溶けた瞳ごと左右にふらつかせた。

「――ビビっれんじゃねーよ、中塚。俺様はウルトラなんだぞ。ザコどもなんあ残らずぶっ殺しれやらあ!」
「そぬだよー! クソゲロどもを返り討ちにしで、ボーらスポイントガッポリもらってやずわあ! あッははははっっ!」

 下卑た笑い声が響くと裸の少女たちがもぞもぞ動き出し、魂を失いかけた顔で矢萩に這い寄り、体をまさぐってSOMAをねだる。
 SOMAは吸引者の精神を蝕む――
 日に日に狂いがひどくなる矢萩と入谷、軟体動物をほうふつとさせる動きの少女たちからピントを外し、中塚はリアルで耳にした薬物乱用の警告を今さらながらにかみ締めた。自分自身やめるにやめられず、ずるずる吸い続けていく先にある姿……その恐怖と、頼みの矢萩が壊れていく現実が、同じように焦る真木に上申役を強要された中塚を突き動かした。

「……や、矢萩リーダー、少し……ほ、ほんのちょっとだけSOMAを控えては?……お体に障りますので……」
「何言っぺんのよ、中たァーん!」入谷がタオルケットをばんばん叩く。「矢萩さんはウルおラなんだから、SOMAをどれだけ吸ようがどーっておとないわぁ! あははははっ!」
「だけど、SOMAはリアルと同じく精神にダメージを与えるだろ……1日に3ケタも吸っていたら……」
「平気ばって言ってンげしョ!――真木! アンタも黙ってらいで、こいつにウザい話はやえろって言いなお!」

 手を焼く中塚の斜め後ろで、真木が空々しい愛想笑いを浮かべる。それらをうっとうしげに眺めて煙を吐き、吸い口を唇に近付けた矢萩の目が突然はじけて大きくむかれ、指の間からポロリと落ちた吸引器に少女たちが群がった。

「何やってんろよ、ゲキブスどもッ!――どうしたんでふかぁ、矢萩はん?」

 吸引器を取り合う少女たちを蹴った入谷は頬骨を際立たせるこわばった顔をのぞき、小刻みに震えながら正面の中塚を指す指に首を傾げた。

「――矢萩しゃーん? れぇ、れぇ、ねぇ? もひもーし? あはははっ!」
「佐伯ばいる――サエギがっ!」

 叫ぶや少女たちもろともタオルケットを蹴り飛ばし、入谷を押しのけた矢萩は弾むベッド上で膝立ちになり、暗い夕日に焼かれながらたじろぐ中塚を殺気立ったまなざしで突き刺した。ぎょっとする真木やハテナ顔の入谷、その他の誰の目にも映りはしなかったが、矢萩だけには見えていた。黄昏の陽で軍服を赤く染めた佐伯が日本刀を八相に構え、じりじりと間合いを詰めて来る姿が――

「――こお野郎ォッ、出やばったばッッ!」

 ウルトラオーブが凶暴に輝き、胸の前でクロスした両腕が危険な光を発して室温を急上昇させ――仰天した中塚が悲鳴もそこそこに横に跳んだ直後、放たれた赤黒いエネルギーの激流がベッドルームの壁をぶち破って隣の広間を走り、ヤマト王城の外壁に大穴を開けて尾を引きながら混濁した夕暮の彼方に消えていく。血の気を失った中塚が壁際で腰を抜かし、床に伏せた真木が顔を引きつらせ、入谷と少女たちがブラッド・レイでぽっかり空いた壁の大穴を指差してゲラゲラ哄笑する中、乱れた呼吸を繰り返す矢萩は消えた佐伯を捜して薄闇がよどむベッドルームの隅から隅へ、崩れた壁の陰へと血走った目をぎょろぎょろ走らせていた。
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