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銀棚の狩人

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 車窓から突き刺さる、中天へ助走し始めた灼熱の陽……エアコンが効いてはいるが微かに蒸す電車の中、座席前のつり革にぶら下がり、憂鬱が詰まったショルダーバッグの重みに疲れた僕のうつろな視界で緑に光るそいつが鎌を構え、揺れる網棚の上を左から右へゆっくり……ゆっくりと移動して行く……
 カマキリ…… 
 最後に見たのは……いつ、どこで見たのか、本当に見たのかさえはっきりせず、小学生の頃だったかと19年間の記憶を漁る僕のことなど気にせず、そいつは銀色の足場の上を、まさしく狩人のごとく獲物を求めて一歩一歩進み、逆三角形の顔を動かして辺りを見回して、きらりとした複眼が僕の視線にぶつかると、くりりり……と首を傾げた。
 はっとして僕は息を呑んだが、そいつは気に留める風も無く顔を戻すとそのまま横切って歩き続け、足場が途切れる端に達すると鎌で空を探り、道が続いていないと悟るやこちらへ引き返して来た。
 僕は左右に目を走らせ、他の乗客を見た。車内はクール・ビズのサラリーマンや夏制服の学生が半分、どことなく似通った半袖ファッションの女性陣が半分の割合で70パーセントの込み具合だったが、ほとんどはカマキリに気付かず、あるいは無視を決め込んでいるようだった。そうしているうちにそいつは僕の前に差し掛かり、またこちらを向いて、くりり……くりり……と首を傾げ、戻した。
 いったい、どうするべきか――僕は、手を伸ばせば届く距離で静止した相手を見つめた。
 つかむか、シカトするか――
 額やこめかみから、じわじわにじむ汗……高揚とためらいの相克とともに渦巻く選択肢……望めば、きっとつかめる――それなのに……そんな僕を見限るようにカマキリは動き出し、ずっと向こう――もう一方の端へ進んで行った。
 まただ……いつも――いつもそうだ……
 ピンとした緑の背を見つめ、己の不甲斐なさに目をすぼめる……毎度のこと……何もしないまま流され、そんな自分を軽蔑する……なぜ、手を伸ばさなかったのか。しっかりとつかみ、抜けるような初夏に解き放ってやらなかったのか……揺られながら目で追っていると、彼方の端まで行き着いたカマキリはそこでも道が断ち切られていると知り、元来た道をストイックな足取りでしっかりと引き返して来た。
 今度逃したら――
 不意にアナウンス――下りるべき駅にじき到着する知らせ。肌を伝い、落ちる汗……容赦なく駅へ流れ込んでいく電車、それに逆らって歩む命――あと60センチ……30センチ……15センチ……10……
 来た――
 駅到着のアナウンスが響き、ドアが開いて乗客たちがどっと移動し始めたとき、僕は無我夢中で右手を伸ばした。繊細、しかし確固たる指を――つかまれたカマキリは抗って肢を踏ん張り、鎌で切りつけた。手に走る痛み――小さな格闘を押し流そうとする乗客たち――焦りながら左手で胴体を包み、右手で慎重に肢を外す――そしてついにカマキリが棚から離れると胸に抱え、僕は流れに飲まれず電車を降りてホームの階段を小走りにのぼり、改札を通って駅を出て、まぶしく青い空の下、手に鎌と牙による痛みを感じながら駅のそば――フェンスで隔てられる小さな空き地に走り込んだ。ネコジャラシが茂る、砂利が敷かれた空間――奥まで踏み入った僕はしゃがんでそこに放した。急ぎ逃げる素振りは無く、マイペースに動き出すカマキリ……微風がネコジャラシを奏で、汗ばんだ肌を涼やかに撫でる……と、カマキリが僕を見て、くりり……と首を傾げる。その仕草に久しく忘れていた微笑を返し、僕は立ち上がった。手を見ると、あちこち少し皮がむけて赤くなっている。僕はこぶしを作るともう一度カマキリを見、右手の甲で額の汗を拭って元来た方へ歩き始めた。早晩消えるだろう傷。でも忘れたくはない。この手に鮮やかな傷を付けたあいつのことを――
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