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ミットシュルディガーは笑えない
しおりを挟む暗い部屋の中で、チクタクと時計の音だけが鮮明に聞こえた。さっきまでの衝動がすっかり消えてしまったように、恐ろしいまでの沈黙を抱えた部屋は、なんだか私を拒絶しているようにも思える。
ポタリ、と水の落ちる音がした。
(あぁ、そうね。このままじゃダメ。)
のそりと起き上がって、シャワールームに向かう。着ていた服を脱ぐと、さっきまでの自分が死んでしまったような感覚になった。脱衣所に乱雑に置かれた服と、自分の脱いだ服とを、まとめて洗濯機に放り込む。
シャワールームに一歩踏み入れると、ひたりと足が濡れた。それは、さっきまで彼がシャワーを浴びていたせいだった。ふと、汚れた液晶画面に表示された時間へ目を向ける。
(…30分、そろそろ帰ってくるかな。)
先にシャワーを浴びた彼は、コンビニに向かうといって出ていった。それから間もなく30分だったから、きっと帰ってくる頃だ。
今日は、私たちにとって特別な夜だった。
「早く、支度をしなくちゃ。」
しんとした部屋に小さく響いた声は、まるで異物のようだった。
***
きっかけは単純だった。
ぐっすりと眠れなかったのだ。
たったそれだけでと、そう言っていいのは同じ立場にいる人間だけ。それだけ、のことはもっと深く複雑であった。確かに言葉にしてしまえば、本当に単純でなんだかおかしい。
息をするだけで精いっぱいだった。
***
「あれ、もう帰ってきてたの。」
シャワーを終えると、テーブルにはすでに缶ビールが並んでいた。彼が私の声に振り向く。
「だって、すぐそこだよ。」
彼はそう言うと、クスクスと楽しそうに笑った。それもそうだね、と私もつられて笑う。今日の彼はなんだか機嫌がいいようだった。いつだって穏やかだったが、今日は特別。
どうやらおつまみも一緒に買ってきたようで、机の上がいっぱいになっていた。ついには机に乗りきらず、床に転がるポテトチップスまである。
まったく、コンビニに行くといつも無駄遣いをするんだから。
「ほら、はやく。」
彼は、そう言って座るように促した。その顔があまりに無邪気であったから、小言はやめておいた。それに今日くらい、こんな日があったっていいのかもしれない。
二人でお酒を飲もうといったのは私だった。
彼の横に座ると、なんだかそわそわとした。久しぶりの二人きりだったからかもしれない。妙に緊張してしまう。
緊張をごまかすように、缶ビールに手を伸ばした。
「あ、貸して。」
缶ビールを手に取った瞬間、彼は私にそう言った。そういえば、缶がうまく開けられないフリをしていたっけ。二人でお酒を飲むのも随分久しぶりだったから、そんな下らない嘘も忘れていた。
私が覚えていないようなことを、この人は覚えていてくれているのだ。そんなことで愛情を感じてしまう自分が情けない。
軽快な音を立てて、プルタブが上がる。
彼は、私に缶を手渡すと小さく乾杯をした。
手際良く、お惣菜の蓋やお菓子の袋を開けていく彼はなんだか子どものようだ。小さい頃、初めて夜更かしをした時の胸の高鳴りを私は思い出していた。
***
私は、酷く馬鹿な人間だった。
物事を簡単に捉えすぎたのだ。
本当に愚かしい。
どんな言葉で罵っても足りない。
***
しばらくボーッとしていると、彼は突然私の口に小さな白い球根のようなものを放り込んだ。
「食べたいもの、本当にそれでよかったの?」
彼はそう言いながら、続いて自分の口にも放り込む。
噛むと、独特の癖と香りが広がった。
「おばあちゃんの家でよく食べたから。」
「だからって、今食べたいものがらっきょうだなんて渋いね。」
彼はそう言って笑った。そうだね、と私も笑う。
小さい頃、これがどうも苦手だった。たまねぎの辛みをギュッと詰めたような味だったから、子どもには難しい食べ物だったのだ。
それでも祖母が健康にいいから、と言って食べさせたがるので、鼻をつまみながら食べたのを覚えている。
正直、祖父母と特別仲が良かったわけでもないし、かといって仲が悪かったわけでもない。だから、何気ない食事のワンシーンが特別な思い出かと言われれば、そうでもなかった。ただ、必要以上にいい子でいようとする自分を証明してしまう、ひとつではあった。
あの頃から私は、身内の前だと言うのにもっと愛されようといい子のふりをしていた。好き嫌いはしないし、いつもニコニコして、わがままも言わない。そんな子どもを心がけた。
両親からは十分に愛されていたし、祖父母も優しかったから、何が不満だったのかは今となっては思いつかない。
きっと根底にあるのは、正体のわからない薄暗い何かであった。それが大人になった今、少しずつ芽を出していく。
あんなに苦手で、必死に食べられるふりをしていたものはもう、問題なく食べられるようになっていた。これが食べたくなったのは、子どもの頃の私がもういないことを、確かめたかったからかもしれない。
「私達って大人になっちゃったんだね。」
私は、ぽつりと呟いた。大人になった時には、大人になりたかった頃の気持ちなんて簡単に消えてしまう。
子どもだった頃に懸命に生きていた世界も、過去のなんとなく悲しい思い出になってしまうのだ。
「まだ、子どもなのかもしれないけど。」
私の言葉を十分に飲み込んだのち、彼は寂しそうに言った。
確かにその通りだ。きっと外側から見れば私たちは大人だったが、本当はいつから大人なのかなんて、きっと誰にもわからなかった。
重なっていく歳だけが、大人の証だ。
「家族のこと話すなんて、珍しいね。」
彼は、少し遠慮がちに私に向けて言った。
「そうだね。」
確かに私は、家族という括りがどうにも苦手で、今までなんとなく避けていた。愛されていることもむず痒かった。もしかしたら、愛情を受け取ることが他人よりも下手だったのかもしれない。だけど。
「多分、憧れてたの。」
そう言って、部屋の端にまるまったバスタオルに目をやる。
彼は、そっと私の肩に手を回した。そして自分の方へ抱き寄せ、私の頭を優しく撫でた。それは今までのどんな瞬間より優しくて、涙腺が緩む。
私、何やってるんだろう。
やっと憧れていたものに近づけたのに。
そればかりが浮かんできて、自分を責めることしか出来ない。
今この瞬間。私の頭を撫でるこの人が、味方であることだけが救いだった。
「明日になったら」
「誰も知らない、遠くへ行こう。」
ぽつりと呟いたそれに、彼は優しく微笑んだ。
***
随分、長いこと泣いていた。
夜は寝れないし、自由に動けない。
身体はボロボロだった。休みたかった。
このままじゃ壊れそうだったのだ。
そんな自分勝手な理由で、手元にあったタオルを水で濡らした。ポタポタと水がまだ滴るそれを、うまく絞れないままそっと顔に乗せる。
きっと、私は暗い顔をしていた。
彼は黙って見ていた。
それでも動くそれが、段々と怖くなってきた。きっと、じっと待っていれば動かなくなったのだろうが、
待っている余裕なんて私にはもうなかった。
はやく、はやく。
はやく終わらせたい。
ついには、台所から包丁を取り出した。
***
今日は特別な夜だ。
やっと、二人きりになれた。もう肉塊になったそれは、私たちの時間を邪魔しなかった。
お酒を飲むことも久しぶりだったし、好きなものを好きなだけ食べることも久しぶりだった。
12人との晩餐を描いた、有名な宗教画が頭に浮かぶ。きっと、もし神様がいたなら。
自分勝手な私も、それを見ているだけだった彼も、ゆるしてくれないだろう。
それなら逃げてしまおうと思ったのだ。
朝になったら、タオルにくるんだそれをトランクに積んで、綺麗な海が見える場所までドライブをしよう。
重たい荷物は捨ててしまおう。
地獄に落ちる時は、二人一緒が良かった。
二人でベッドに転がって、しばらく見つめ合った。部屋を暗くしてしまうのが、もったいなくてそのまま口づけをする。
こうやって彼が私に優しく触れることも、随分なかった。だから今日は、私が持っている中で一番可愛い下着を身につけた。
可愛いと言って頭を撫でる彼が愛しかった。
それが最後だと本当はわかっていたから。
***
何度も何度も。
そうして、ふと我に帰って包丁をカランと落とした。真っ赤になったシャツのまま、泣き出した私に彼が向けたのは、哀れみの目だった。それはもはや、恋人に向けるような目ではなかった。
彼には止めることができなかったのだから、彼だって可哀想なのに。
でもそれは、完全な終わりを意味していた。
彼が肉塊になったそれをバスタオルに包む横で、ひとしきり泣いた。
そして、私は彼に縋り付いた。
今日の、今日の夜だけ。
最後だから。
私の恋人でいてね。
***
目が覚めると、部屋はしんとしていた。
昨日洗濯機に放り込んだ服は、赤く濡れた私の服だけになっていて、昨日の夜、確かに転がっていたゴミはどこにもなかった。
部屋の端に転がったバスタオルはそのままだった。
そっと近寄って、抱き上げる。
重さは、きっとそのままだった。持った時の感触もにおいも、もう私が知っているものとは違うものだったが。
私はそれを、なるべく優しく抱きしめた。私が知っている愛情の全てを、その手に込めた。
今更謝ったところで、誰も救われなかった。
「早く、支度をしなくちゃ。」
サイレンと、ドアを叩く音がする。
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