傾国の皇子は西方を夢見る[完結!]

小野露葉

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第三章

二話 峠越え その一

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 ぼろぼろとくずれる土の中から飛び出た石を掴み、ぐいと体を引き上げる。さらに、もう一歩、足場を確認してから、さらに手を伸ばす。その時、目の前に大きな手が現れた。淑は安心してその大きな手をつかむ。その途端、その手の主の胸に飛び込むほどの勢いで、淑は崖の上に引き上げられる。腕の中の淑を手の主がぽんと叩く。

「よくがんばったな」

 張弦だ。あの筆で書いたような太い眉の下の大きな瞳が微笑んでいる。淑も嬉しくなって微笑み返す。

「お前はここを登ってきたんだぞ」

 そう言われ、淑はまわりを見渡した。

「うわあ……」

 淑は思わず声をあげた。そこは今まで見た景色とは全く違うものであった。山を途中ですっぱりと縦に切ったかのような崖がいくつもいくつも連なる。そのひとつに自分たちは立っているのだ。

「ここが峠の最高地点だ。あとは下るだけで自然に天涼に着くはずだ」

 そう言いながら、張弦は地図を広げる。それはふたりのために日栄が書いてくれた地図だ。この峠を超えていけば関所を通らず、龍武の手前で一番大きな町、天涼に着くという。

 四日前、淑は隠れ里を出発した。

「ここに残ってもいいのよ」

 張弦の義姉鈴杏リンシンは心配そうに言った。

 しかし、淑は首を振った。苑国の第三皇子である淑は一度命を狙われている。そのようなものがいたら、あの平和な隠れ里が一瞬にして崩壊してしまうかもしれない。自分は龍武に行かねばならない。そして何より、張弦が一緒に来てくれるというのが一番心強かった。この四日間で、すっかり日に焼けた張弦は、ますますたくましく見える。何より、険しい山越えで何度も助けられた太い腕がまくりあげられた袖からのぞいている。淑はそれをつい見つめる。

「なんだ?」

「いえ、その……」

 淑は思わず赤くなった。

「お前、大丈夫か」

「大丈夫ですっ……!」

 そういうと、淑はぱたぱたと駆け下りるように走り出した。

「もう少し先に行けば水場があるはず、そこまで行きましょう」

「もう頭の中に入っているのか、やはりすごい記憶力だな」

「何度も見ましたから!」

 淑は張弦の顔も見ずに答える。

 いつかこの旅は終わる……

 張弦は常に自分を守ってくれる。何の得にもならない旅についてきてくれる。気がつけば淑はそんな張弦をずっと会っていない兄よりも頼りにしている。しかし淑は本来なら張弦の仇の子である。淑の母親の嘘が張弦の兄を死に追いやったのだ。本来なら自分は母親の嘘がばれた時一緒に罪を賜るはずだった。それなのに自分はまだ生きている。

 ふと隠れ里にいる彼の家族を思い起こした。

 彼らもまた私のせいで家族を失ったのに家族のように接してくれた……

 張弦が何も言わなかったせいだろう。

 義姉、鈴杏リンシンは今回の旅のために決して豊かではないだろう食材を使って、干し野菜や日持ちのする胡餅を作り持たせてくれ、妹のように可愛い鈴花リンファは泣きながら見送ってくれ日栄は病み上がりなのに一晩中かけて素晴らしい地図をつくってくれた。彼の愛犬の小毛シャオマオは自分もついていくとばかりに追いかけてきて淑や張弦を困らせた。

 日栄を看病したのは道士の弟子として自然に行ったことである。しかしどこかに罪の意識があるのは確かだ。

 いつかわたしは彼らから離れねばなるまい。そしてこの身の罪を償わねばなるまい。

 ……そのためにはあのたくましい腕から離れねばなるまい。

 淑はきゅっと唇を噛み締めた。

 このままずっと張弦と旅を続けられたらどんなに良いだろう……
 そしてあの隠れ里に帰るのだ。なんの罪も背負わずに……

 ふとそんなことを考えるうちに、淑は水場を見つけた。岩場の間から水が流れている。

「すごいな、本当にこんなところに水場があるとは」

 後ろから来た張弦がそう言うと、先に水を口に含む。

「あっ」

 淑は思わず声をあげた。水場といっても、中には毒になる硫黄などが含まれていることもある。いくら日栄が調べた水場とはいえ日が経てば変わる。それを心配したのだ。しかし、張弦は笑って言った。

「心配するな、これなら大丈夫そうだ」

 そうか……

 淑は気づいた。張弦は先に毒味をしてくれたのだ。別に毒見役でもないのに。途端に淑の中で何かが切れた。淑は思わずしゃがみ込む。

「どうした?疲れたのか?」

 知らぬ間に、淑の口から言葉がこぼれでた。

「わたくしはいつまで皇子でいればよいのでしょう」

 自分でも何を言っているのかわからなかった。ただ気がつけば淑はまた張弦の前で泣いていた。
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