15 / 27
第三章
二話 峠越え その三
しおりを挟む
*
淑が泣いたり怒ったりしたせいか、少し遅く山の中腹についた。とはいえもうこのあたりは西方の気候らしく、雨風を凌ぐような森はもうない。ただ背の低い木々と岩場があるだけだ。
これは夜、寒くなりそうだ……
張弦は風よけになりそうな岩場のくぼみをみつけると、そこを今夜の寝床と決めた。淑はといえば、さっき泣いたからか、黙ってせっせと火を起こしている。張弦がとなりに座ると、まだ赤い顔をして恥ずかしそうに言う。
「さきほどは失礼しました」
「いいんだ、疲れたんだろう」
そういって張弦は淑が起こしてくれた火を使って湯を沸かす。まだ義姉上が作った胡餅が残っている。小麦粉を練っただけのものだが義姉のものは塩加減がちょうど良い。これと淑の薬草茶で間に合うだろう。
淑が手慣れた様子で自ら調合したらしい薬草茶を入れてくれる。朝と夜とは味が違う。朝は薄荷が入っていてすっきりとした味わいで、夜は優しい花の匂いがし、眠りを誘う。
それが終わると、淑は日栄が野営用に使っていたという西方の軽いが温かい布を使って寝床を作る。それもふたりぶんきっちりとだ。泣くほど疲れていたはずなのに、いつもどおり完璧にこなす様子にむしろ感心する。
「お前はもっと自信を持っていいぞ」
つい張弦は言った。
「いつもがんばりすぎだ、少し肩の力を抜け」
淑が目を丸くする。
「しかし、兄上たちは……」
「俺達が龍武にいた頃、おまえはせいぜい七歳だったはず、同じようにする必要はないんだ」
淑は小さく身を縮める。ふと、張弦は思う。
こいつには、たとえ俺が許しても自分に自信を持てない何かがあるのでは……
「疲れただろう、今日はもう寝ろ」
そう言いながら、張弦は淑を寝床に促す。そして自分も隣に横になり、淑に聞く。
「お前は本当に俺以外の前で泣いたことがないんだな」
淑がこくりとうなずく。
「山人の前では?」
「山人は師です」
「陛下、いや父親は、母親は?」
火に照らされた淑の顔が途端に暗くなる。
淑がしぼり出すように言った。
「父上はわたくしが嫌いでした……私の顔が母上に似ているから。このような顔が国を傾けると言われました」
とたんに淑の顔に、林皇后の顔が重なった。雪のように白く、唇は紅をさしてもいないのに薄い桃色で、綺麗な弧を描いている。そして、まるで猫のように誰にも媚びぬとばかりの薄茶色の瞳がこちらを見ている。張弦は慌ててその幻想を振り払う。
そうか……
張弦はやっと気づいた。目の前にはただ怯えた少年しかいない。それなのに皆この少年の向こうにあの后の顔を思い出す。そして、この少年もまた自分の顔を見るたびに母の罪をそして自分の罪を思い出す。しかし、淑はまだ何か言いたげな顔をしている。張弦は手を伸ばすとそのほおをなでた。
「俺はお前の兄だ、全部話してしまえ」
また淑の雪のように白い頬につーっと涙がつたわった。
「それだけは言えません。あまりに重い罪です」
そう言うと淑は下を向く。しかし、張弦はあきらめることができなかった。
「無理にとは言わぬ、だがもうすぐ旅が終わる、兄として、友としてもう少しだけ知っておきたい」
淑の肩がふるえた。そして、ついに顔を上げると、あの薄桃色の唇を開いた。
「あの頃、父は戦で、ほとんど私達のいるところには来ることはありませんでした」
「そして……母はそばに常にほめそやすひとがいないとだめなひとだったのでございます」
ああ……
張弦はやっと意味がわかった。今思えば、龍武はまともな宮廷がなかった。後宮の出入りも管理されていなかっただろう。となれば淑がみたものは子供にとってあまりにもおぞましい母の罪だ。思わず張弦は淑を掻き抱いた。
「全部忘れろ、それはお前の罪ではない」
張弦は自分の布を淑にかける。そしてもう一度抱きしめる淑も張弦にしがみつく。張弦はその小柄さとは裏腹に温かい淑の背を撫でながらつぶやく。
「お前は温かい、優しく人を見る目を持っている、そんなお前は母とは違う、ひとの罪を背負うな」
しかし淑は答えなかった。ただただ泣いているようだった。
淑が泣いたり怒ったりしたせいか、少し遅く山の中腹についた。とはいえもうこのあたりは西方の気候らしく、雨風を凌ぐような森はもうない。ただ背の低い木々と岩場があるだけだ。
これは夜、寒くなりそうだ……
張弦は風よけになりそうな岩場のくぼみをみつけると、そこを今夜の寝床と決めた。淑はといえば、さっき泣いたからか、黙ってせっせと火を起こしている。張弦がとなりに座ると、まだ赤い顔をして恥ずかしそうに言う。
「さきほどは失礼しました」
「いいんだ、疲れたんだろう」
そういって張弦は淑が起こしてくれた火を使って湯を沸かす。まだ義姉上が作った胡餅が残っている。小麦粉を練っただけのものだが義姉のものは塩加減がちょうど良い。これと淑の薬草茶で間に合うだろう。
淑が手慣れた様子で自ら調合したらしい薬草茶を入れてくれる。朝と夜とは味が違う。朝は薄荷が入っていてすっきりとした味わいで、夜は優しい花の匂いがし、眠りを誘う。
それが終わると、淑は日栄が野営用に使っていたという西方の軽いが温かい布を使って寝床を作る。それもふたりぶんきっちりとだ。泣くほど疲れていたはずなのに、いつもどおり完璧にこなす様子にむしろ感心する。
「お前はもっと自信を持っていいぞ」
つい張弦は言った。
「いつもがんばりすぎだ、少し肩の力を抜け」
淑が目を丸くする。
「しかし、兄上たちは……」
「俺達が龍武にいた頃、おまえはせいぜい七歳だったはず、同じようにする必要はないんだ」
淑は小さく身を縮める。ふと、張弦は思う。
こいつには、たとえ俺が許しても自分に自信を持てない何かがあるのでは……
「疲れただろう、今日はもう寝ろ」
そう言いながら、張弦は淑を寝床に促す。そして自分も隣に横になり、淑に聞く。
「お前は本当に俺以外の前で泣いたことがないんだな」
淑がこくりとうなずく。
「山人の前では?」
「山人は師です」
「陛下、いや父親は、母親は?」
火に照らされた淑の顔が途端に暗くなる。
淑がしぼり出すように言った。
「父上はわたくしが嫌いでした……私の顔が母上に似ているから。このような顔が国を傾けると言われました」
とたんに淑の顔に、林皇后の顔が重なった。雪のように白く、唇は紅をさしてもいないのに薄い桃色で、綺麗な弧を描いている。そして、まるで猫のように誰にも媚びぬとばかりの薄茶色の瞳がこちらを見ている。張弦は慌ててその幻想を振り払う。
そうか……
張弦はやっと気づいた。目の前にはただ怯えた少年しかいない。それなのに皆この少年の向こうにあの后の顔を思い出す。そして、この少年もまた自分の顔を見るたびに母の罪をそして自分の罪を思い出す。しかし、淑はまだ何か言いたげな顔をしている。張弦は手を伸ばすとそのほおをなでた。
「俺はお前の兄だ、全部話してしまえ」
また淑の雪のように白い頬につーっと涙がつたわった。
「それだけは言えません。あまりに重い罪です」
そう言うと淑は下を向く。しかし、張弦はあきらめることができなかった。
「無理にとは言わぬ、だがもうすぐ旅が終わる、兄として、友としてもう少しだけ知っておきたい」
淑の肩がふるえた。そして、ついに顔を上げると、あの薄桃色の唇を開いた。
「あの頃、父は戦で、ほとんど私達のいるところには来ることはありませんでした」
「そして……母はそばに常にほめそやすひとがいないとだめなひとだったのでございます」
ああ……
張弦はやっと意味がわかった。今思えば、龍武はまともな宮廷がなかった。後宮の出入りも管理されていなかっただろう。となれば淑がみたものは子供にとってあまりにもおぞましい母の罪だ。思わず張弦は淑を掻き抱いた。
「全部忘れろ、それはお前の罪ではない」
張弦は自分の布を淑にかける。そしてもう一度抱きしめる淑も張弦にしがみつく。張弦はその小柄さとは裏腹に温かい淑の背を撫でながらつぶやく。
「お前は温かい、優しく人を見る目を持っている、そんなお前は母とは違う、ひとの罪を背負うな」
しかし淑は答えなかった。ただただ泣いているようだった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。
黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。
この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。
戦場帰りの俺が隠居しようとしたら、最強の美少女たちに囲まれて逃げ場がなくなった件
さん
ファンタジー
戦場で命を削り、帝国最強部隊を率いた男――ラル。
数々の激戦を生き抜き、任務を終えた彼は、
今は辺境の地に建てられた静かな屋敷で、
わずかな安寧を求めて暮らしている……はずだった。
彼のそばには、かつて命を懸けて彼を支えた、最強の少女たち。
それぞれの立場で戦い、支え、尽くしてきた――ただ、すべてはラルのために。
今では彼の屋敷に集い、仕え、そして溺愛している。
「ラルさまさえいれば、わたくしは他に何もいりませんわ!」
「ラル様…私だけを見ていてください。誰よりも、ずっとずっと……」
「ねぇラル君、その人の名前……まだ覚えてるの?」
「ラル、そんなに気にしなくていいよ!ミアがいるから大丈夫だよねっ!」
命がけの戦場より、ヒロインたちの“甘くて圧が強い愛情”のほうが数倍キケン!?
順番待ちの寝床争奪戦、過去の恋の追及、圧バトル修羅場――
ラルの平穏な日常は、最強で一途な彼女たちに包囲されて崩壊寸前。
これは――
【過去の傷を背負い静かに生きようとする男】と
【彼を神のように慕う最強少女たち】が織りなす、
“甘くて逃げ場のない生活”の物語。
――戦場よりも生き延びるのが難しいのは、愛されすぎる日常だった。
※表紙のキャラはエリスのイメージ画です。
《完結》当て馬悪役令息のツッコミ属性が強すぎて、物語の仕事を全くしないんですが?!
犬丸大福
ファンタジー
ユーディリア・エアトルは母親からの折檻を受け、そのまま意識を失った。
そして夢をみた。
日本で暮らし、平々凡々な日々の中、友人が命を捧げるんじゃないかと思うほどハマっている漫画の推しの顔。
その顔を見て目が覚めた。
なんと自分はこのまま行けば破滅まっしぐらな友人の最推し、当て馬悪役令息であるエミリオ・エアトルの双子の妹ユーディリア・エアトルである事に気がついたのだった。
数ある作品の中から、読んでいただきありがとうございます。
幼少期、最初はツラい状況が続きます。
作者都合のゆるふわご都合設定です。
日曜日以外、1日1話更新目指してます。
エール、お気に入り登録、いいね、コメント、しおり、とても励みになります。
お楽しみ頂けたら幸いです。
***************
2024年6月25日 お気に入り登録100人達成 ありがとうございます!
100人になるまで見捨てずに居て下さった99人の皆様にも感謝を!!
2024年9月9日 お気に入り登録200人達成 感謝感謝でございます!
200人になるまで見捨てずに居て下さった皆様にもこれからも見守っていただける物語を!!
2025年1月6日 お気に入り登録300人達成 感涙に咽び泣いております!
ここまで見捨てずに読んで下さった皆様、頑張って書ききる所存でございます!これからもどうぞよろしくお願いいたします!
2025年3月17日 お気に入り登録400人達成 驚愕し若干焦っております!
こんなにも多くの方に呼んでいただけるとか、本当に感謝感謝でございます。こんなにも長くなった物語でも、ここまで見捨てずに居てくださる皆様、ありがとうございます!!
2025年6月10日 お気に入り登録500人達成 ひょえぇぇ?!
なんですと?!完結してからも登録してくださる方が?!ありがとうございます、ありがとうございます!!
こんなに多くの方にお読み頂けて幸せでございます。
どうしよう、欲が出て来た?
…ショートショートとか書いてみようかな?
2025年7月8日 お気に入り登録600人達成?! うそぉん?!
欲が…欲が…ック!……うん。減った…皆様ごめんなさい、欲は出しちゃいけないらしい…
2025年9月21日 お気に入り登録700人達成?!
どうしよう、どうしよう、何をどう感謝してお返ししたら良いのだろう…
追放された俺のスキル【整理整頓】が覚醒!もふもふフェンリルと訳あり令嬢と辺境で最強ギルドはじめます
黒崎隼人
ファンタジー
「お前の【整理整頓】なんてゴミスキル、もういらない」――勇者パーティーの雑用係だったカイは、ダンジョンの最深部で無一文で追放された。死を覚悟したその時、彼のスキルは真の能力に覚醒する。鑑定、無限収納、状態異常回復、スキル強化……森羅万象を“整理”するその力は、まさに規格外の万能チートだった! 呪われたもふもふ聖獣と、没落寸前の騎士令嬢。心優しき仲間と出会ったカイは、辺境の街で小さなギルド『クローゼット』を立ち上げる。一方、カイという“本当の勇者”を失ったパーティーは崩壊寸前に。これは、地味なスキル一つで世界を“整理整頓”していく、一人の青年の爽快成り上がり英雄譚!
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる