9 / 21
3 海(2)
しおりを挟む
「私自身この名をそれほど愛しているわけでもないわ。それでも敢えて言うけど、うちは『赤い風船』なのよ……壁が真っ青なんて」
戸口にもたれかかって樹理が呻く。かなり落ち込んでいる。
香雅里は懸命に言葉を探すも、何も思いつかないままその絵に近づく。
刷毛を振り下ろし、一気にひいた躍動感があふれている。ところどころの塗り残しは、波の泡にも空に浮かぶ雲のようにも、ウミネコの腹のようにも見える。
腕を伸ばしてみると、高い位置には届かなかった。
やっぱりあの人背が高いんだ、と確認。下の方は結構粗い。しゃがんで描いたんだろうか。海を広いなを口ずさみながら? 床すれすれの位置を塗るときはどんな姿勢だったんだろう、としゃがみこむと、床に滴ったペンキの跡を見つけてしまった。
「嬉しそう、香雅里」
突然、上から声をかけられて、香雅里は慌てて樹理を見る。
慌てすぎて、笑みを消し損ねた。
「すっごーーーーく嬉しそうよ」
「そ、そう? そんなことないよ。やっぱり有島さんって非常識なんだなって思ってたところだよ。床とか、ほら。迷惑だよね」
香雅里が焦って指摘すると、樹理もしゃがみこむ。黒ずんだ木目に鮮やかに滴ったペンキ跡を見つけて、「こんなところまで」と呟いた。
「許せない。あの絵描き」
「おっす。おはようございまーーす」
まさにそのとき、のんびりとした声が食堂に響いた。樹理はびくりと肩を震わせ、香雅里は息を止めてしまった。
「麦茶もらいにきましたー」
顔を上げてみれば、くわえ煙草の有島がオープンカウンターの向こうに進みかけ、肩越しに振り返った姿勢でいた。その目が香雅里をとらえて、にわかに生気を帯びる。
「かがりちゃんだっけか。おはよう」
しゃべった拍子に煙草を落としかけ、指でつまむ。
身体の大きさに見合う、大きな手。長い指。暗い色合いの赤い長袖シャツが似合っている。と思ったところで、挨拶を返さなければと気づいたものの、頭の中が真っ白で言葉が出てこなかった。
ようやくひねり出したのは、樹理の視線も意識して少しだけ非難がましいセリフ。
「有島さん、この壁は……」
「んー。オーナーさんには滞在費がわりに受け取ってもらったから」
「オーナーさんってうちの父親に? このラクガキを売りつけたって意味かな?」
樹理が小声ながらも非難をめいっぱいこめた耳打ちを香雅里にする。絶対に聞こえる音量で。
有島と樹里に挟まれた立場の香雅里は、返答に詰まる。
カウンターの上にあった灰皿に煙草を押し付けていた有島は、のーんびりとした調子で言った。
「聞こえてるよー。俺らの滞在費は町から出てるけど、それだけじゃなんだなってことで、有島隆弘からのスペシャルプレゼント」
「嬉しくないわ……」
開き直ったのか、面と向かいはしないものの、樹理はさらにはっきりと有島に聞かせる音量で呟いた。
「そぉ?」
有島は愉快そうに答え、早くもポケットから煙草を取り出して、銀のジッポで火をつけている。
下を向くと長めの前髪が頬骨のあたりまでかかっていて、少し間違えると火がついてしまいそうだった。
「コレ、寝ぼけて描いたんですか?」
香雅里の問いに、顔を上げた有島は悪びれなく頷いた。
「うん」
煙草を指にはさんで口から離し、香雅里を見て続ける。
「どう、天才の仕事?」
何を言われたのか咄嗟にはわからず、理解できたときには勢いよく立ち上がっていた。
「いいえ、全然。子どものラクガキです」
「言うねぇ」
有島は煙草をくわえ直すと、長卓と窓際のテーブルの間を抜けて自分の描いた絵のもとへと歩み寄ってきた。スピードこそ感じさせなかったが、大股なのですぐにたどりつく。
「どのへんがダメだ」
香雅里には一切視線を向けぬまま、絵を見つめて言った。
「ダメとは言ってないですけど」
「ラクガキに見えるんだよな」
おっとりしているくせに、真剣さが透けている。
負けられない、と香雅里も絵を見上げた。
勢いがあったせいか、青の飛沫がところどころ散っている。刷毛は迷いなく壁を進んだようだ。気持ち良いくらい、ぐいぐいと進んでいる。見ていると、自分の手の中に刷毛があるような気がしてくる。今にも、腕を伸ばして、ぐいっと力強く青を塗りたくなる。思ったそばから、身体が動いた。
空を掴んだ手が、海を描く。
一塗り。
返して塗るにはペンキが足りない。
一度バケツに刷毛を突っ込んで、床に滴っても気にしないでもう一塗り。
それだけの動作によほどの緊張を強いられたのか、息を止めてしまっていたらしい。肩で大きく息を吐いた瞬間に、自分の手の中には何もないことを思い出した。
そのことが不思議で、「海」を見た。
たったいま自分が描いたと錯覚してしまいそうなほど、壁の青は力に満ち溢れている。
「これを鼻歌まじりで描いたとは、どうしても思えない……」
空の手に視線を落として香雅里が呟くと、有島がおっとりした声で答えた。
「あー、それは当たってるな。そこは、そう、力が必要だった。いまやったみたいに」
有島の口から煙草が落ちる。
まだしゃがみこんでいた樹理が悲鳴を上げて拾い上げていたが、有島の耳には届いた気配はない。
戸口にもたれかかって樹理が呻く。かなり落ち込んでいる。
香雅里は懸命に言葉を探すも、何も思いつかないままその絵に近づく。
刷毛を振り下ろし、一気にひいた躍動感があふれている。ところどころの塗り残しは、波の泡にも空に浮かぶ雲のようにも、ウミネコの腹のようにも見える。
腕を伸ばしてみると、高い位置には届かなかった。
やっぱりあの人背が高いんだ、と確認。下の方は結構粗い。しゃがんで描いたんだろうか。海を広いなを口ずさみながら? 床すれすれの位置を塗るときはどんな姿勢だったんだろう、としゃがみこむと、床に滴ったペンキの跡を見つけてしまった。
「嬉しそう、香雅里」
突然、上から声をかけられて、香雅里は慌てて樹理を見る。
慌てすぎて、笑みを消し損ねた。
「すっごーーーーく嬉しそうよ」
「そ、そう? そんなことないよ。やっぱり有島さんって非常識なんだなって思ってたところだよ。床とか、ほら。迷惑だよね」
香雅里が焦って指摘すると、樹理もしゃがみこむ。黒ずんだ木目に鮮やかに滴ったペンキ跡を見つけて、「こんなところまで」と呟いた。
「許せない。あの絵描き」
「おっす。おはようございまーーす」
まさにそのとき、のんびりとした声が食堂に響いた。樹理はびくりと肩を震わせ、香雅里は息を止めてしまった。
「麦茶もらいにきましたー」
顔を上げてみれば、くわえ煙草の有島がオープンカウンターの向こうに進みかけ、肩越しに振り返った姿勢でいた。その目が香雅里をとらえて、にわかに生気を帯びる。
「かがりちゃんだっけか。おはよう」
しゃべった拍子に煙草を落としかけ、指でつまむ。
身体の大きさに見合う、大きな手。長い指。暗い色合いの赤い長袖シャツが似合っている。と思ったところで、挨拶を返さなければと気づいたものの、頭の中が真っ白で言葉が出てこなかった。
ようやくひねり出したのは、樹理の視線も意識して少しだけ非難がましいセリフ。
「有島さん、この壁は……」
「んー。オーナーさんには滞在費がわりに受け取ってもらったから」
「オーナーさんってうちの父親に? このラクガキを売りつけたって意味かな?」
樹理が小声ながらも非難をめいっぱいこめた耳打ちを香雅里にする。絶対に聞こえる音量で。
有島と樹里に挟まれた立場の香雅里は、返答に詰まる。
カウンターの上にあった灰皿に煙草を押し付けていた有島は、のーんびりとした調子で言った。
「聞こえてるよー。俺らの滞在費は町から出てるけど、それだけじゃなんだなってことで、有島隆弘からのスペシャルプレゼント」
「嬉しくないわ……」
開き直ったのか、面と向かいはしないものの、樹理はさらにはっきりと有島に聞かせる音量で呟いた。
「そぉ?」
有島は愉快そうに答え、早くもポケットから煙草を取り出して、銀のジッポで火をつけている。
下を向くと長めの前髪が頬骨のあたりまでかかっていて、少し間違えると火がついてしまいそうだった。
「コレ、寝ぼけて描いたんですか?」
香雅里の問いに、顔を上げた有島は悪びれなく頷いた。
「うん」
煙草を指にはさんで口から離し、香雅里を見て続ける。
「どう、天才の仕事?」
何を言われたのか咄嗟にはわからず、理解できたときには勢いよく立ち上がっていた。
「いいえ、全然。子どものラクガキです」
「言うねぇ」
有島は煙草をくわえ直すと、長卓と窓際のテーブルの間を抜けて自分の描いた絵のもとへと歩み寄ってきた。スピードこそ感じさせなかったが、大股なのですぐにたどりつく。
「どのへんがダメだ」
香雅里には一切視線を向けぬまま、絵を見つめて言った。
「ダメとは言ってないですけど」
「ラクガキに見えるんだよな」
おっとりしているくせに、真剣さが透けている。
負けられない、と香雅里も絵を見上げた。
勢いがあったせいか、青の飛沫がところどころ散っている。刷毛は迷いなく壁を進んだようだ。気持ち良いくらい、ぐいぐいと進んでいる。見ていると、自分の手の中に刷毛があるような気がしてくる。今にも、腕を伸ばして、ぐいっと力強く青を塗りたくなる。思ったそばから、身体が動いた。
空を掴んだ手が、海を描く。
一塗り。
返して塗るにはペンキが足りない。
一度バケツに刷毛を突っ込んで、床に滴っても気にしないでもう一塗り。
それだけの動作によほどの緊張を強いられたのか、息を止めてしまっていたらしい。肩で大きく息を吐いた瞬間に、自分の手の中には何もないことを思い出した。
そのことが不思議で、「海」を見た。
たったいま自分が描いたと錯覚してしまいそうなほど、壁の青は力に満ち溢れている。
「これを鼻歌まじりで描いたとは、どうしても思えない……」
空の手に視線を落として香雅里が呟くと、有島がおっとりした声で答えた。
「あー、それは当たってるな。そこは、そう、力が必要だった。いまやったみたいに」
有島の口から煙草が落ちる。
まだしゃがみこんでいた樹理が悲鳴を上げて拾い上げていたが、有島の耳には届いた気配はない。
1
あなたにおすすめの小説
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる