息絶える瞬間の詩のように

有沢真尋

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3 海(3)

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 腕を振り上げる。
 左から右、真一文字に切り上げるようにめいっぱい動かす。足がたたらを踏んだ。
 そこから一度身体をひき、自分がいま描いた線を確かめるように見つめる。そしてまた踏み込むと、今度は両手で切りつけるように描く。

 このとき、有島の手もまた空だった。
 それでも、まさしくその瞬間息吹を吹き込まれたように、絵が鮮やかさを増した。
 有島はゆっくりと一歩後退すると、肩で大きく息をし、梓を見下ろした。

「こんなかんじだな」
 言ったところで、踏みつぶされかけた樹理が非難がましく小さな手で足を押しのける。
 お、と有島は楽しげな声をあげた。
 そのやりとりを見ながら、香雅里は記憶をたどっていた。
「海は広いな、は」
 視線をくれた有島の顔に答えを探しそうになって、思い直して壁を向く。

 全身を使って描ける範囲は、今やったように全力で叩きつけるように、殴りこむような勢いで描いている。中段もおそらく腰を落として切りつけている。とすると、残っているのは床に片膝をつき、楽しげに仕上げている部分だ。
 実際に、香雅里はしゃがみこんでみた。壁に左半身をつけて、のぞきこむように右手で描いたような気がする。きままに刷毛をざかざか動かして、そんな時には鼻歌のひとつでも歌いたくなりそうだ。

「このへん、超粗い」
 指でなぞりながら香雅里が言うと、同じくしゃがみこんだ有島が「そうそう」と頷く。
「いい気分でなぁ、なんで海って広いんだろなぁって思ったら、歌いたくなった」
 なんの会話をしているのか、樹理は伺うように二人を交互に見ていたが、二人が見つめている壁の箇所に自分も顔を寄せてみる。
 気がついたら三人で肉薄していて、誰かが動いた拍子にそこここで頭と頭がぶつかった。

「いたっ」
 我に返ったように、樹理が威勢よく叫んで立ち上がった。仁王立ちだった。
「事故だ、事故」
「なんなのその言い草は……! そうよ、大体あなたコレ! 吸殻! あたしがここにいなかったらうちは火事よ火事! 少しは世間様に疎まれる喫煙者の自覚を持って、もう少しマナーに敏感になったらどう!」
 有島は顔をしかめ、片耳を片手でおさえていた。
 内容も声量も耳に痛いせいと思われる。
「あぁ、もう、腹立だしいっ」
 言い捨てて、樹理は灰皿に向けて歩き出す。
 残された有島はその雄々しい後姿を見送ってしまっていたが。
 まだ呆然としている香雅里に視線を流すと、絞った声で囁いてきた。

「夢ん中にいるような顔してる」
 樹理のあの猛攻撃をほぼ同じ距離でくらったにもかかわらず、香雅里はその声ではじめて現実に引き戻された。
 まるで、跳ね飛ばされて気を失って、気がついたら天井を眺めていたような感覚だ。
 それでも、なんとかあたりを眺め回す。

 窓から差し込む光。流れる風。壁の海。
 それらを見て取ってから、不意にひりりと顔の半分に痛みを感じて頬に手をあてた。あててから気づいて、凝固する。痛みじゃない、これは視線だと。

「この間、絵見せてもらわなかったな」
 見てる。
 有島が見てると意識したら、急に顔が熱くなり始めた。
「この間って……だって未完成だったし」
「未完成でも別にいいんだけど」
「なんで」
「ん?」
 限界。
 顔の熱さに耐え切れなくなって、香雅里は一息で立ち上がる。これ以上この人の傍にはいられない、という強い意志のもと。

「何が、なんで、なんだ?」
 動じた様子もない有島の声。
 心臓が急に痛み始める。
 痛いのは鼓動のせい。
 香雅里は息を吸い込み、振り返らず吐き出した。

「なんで『音無しの底』の有島隆弘が、こんな絵を描くの!」
 なんで私はこんないちゃもんをつけているのだろう、というのは香雅里自身にも不可解だった。
 本人がそうなのだから、言われた方もよくわからないはずだ。
 議論する余裕はない。
 香雅里は事の成り行きについて行き損ねている樹理のもとまで駆け寄り、その顔を見て闇雲に叫んだ。

「ごめん、帰る!」
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