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第一章
十五話 そして、お父様が来た
ディートリッヒが去ったあと、部屋は不自然なほど静かだった。
扉が閉まる音すら、遠い。
私は、しばらく俯いたまま動かなかった。
肩を震わせていたのは、泣いていたからではない。
ようやく、終わった。
ベッドの上に置かれた一枚の紙。
婚約解消承諾書。
彼の署名は、はっきりとそこにあった。
迷いも、躊躇も感じさせない筆跡。
「……ふふ」
喉から、小さな笑いが零れた。
あんなにも欲しかったものが、こんな形で手に入るなんて。
ディートリッヒは、最後まで勘違いしていた。
私が、泣いていると。
私が、縋ると。
私が、彼を愛していると。
違う。
もう、そんな気持ちは微塵もない。
私は震える指で承諾書を持ち上げ、ゆっくりと折りたたむ。
その動作一つで、胸の奥に溜まっていた澱が、すっと引いていくのを感じた。
「提出するかどうかは……よく考えろ、ですって」
彼の言葉を思い出し、鼻で笑う。
考えるまでもない。
私はベッドから出て、身支度を整えた。
腫れの残る足首。
動かせば、もちろん痛い。
だけど、私は何かに背中を押されるように部屋を出た。
馬車に乗り込む。
身体がまだ熱を持っているからか、視界が揺れる。
けれど、不思議と意識は冴えていた。
鞄に入っている婚約解消承諾書が、国の重要書類を運んでいるかのように思え、緊張している自分がいる。
教会の受付に行く。
「提出ですね」
淡々とした声。
書類を提出しようとしたとき、婚約指輪が鈍い光を放った気がした。
『愛してる。結婚しよう』
私はその場で指輪を外し、承諾書を差し出す。
神父は一瞬、書類に目を走らせ、静かに受け取った。
「確かに。正式に受理します」
その一言で、すべてが終わった。
詰まっていた息が解放される。
……あっけない。
四年。
尽くして、支えて、信じて、裏切られ続けた時間が。
たった一枚の紙で、終わった。
教会を出ると、外の光が眩しかった。
思わず目を細める。
私、やっと自由になったんだ。
◇◇◇
一方、そのころディートリッヒは──
苛立ちを含んだ息を吐きながら、玄関ホールを行ったり来たりしていた。
(イリスが帰ってこない……)
脅しに使っていた婚約解消承諾書にサインをされて、きっと途方に暮れているはずだ。拗ねてホテルに籠もっているのだろう。怒っても、結局は俺のもとに帰ってきていたと、自分に言い聞かせる。
(迎えに行くべきか?いや……そこまでしてやる必要はない。泣きながら戻ってきたときに、俺が許してやればいい)
帰ってこないイリスにやきもきしていた。
そうこうしていると、屋敷の正門前に一台の馬車が止まる。
(帰ってきた!)
胸が浮き立つのを感じて、ディートリッヒは思わず口角が上がりそうになる。
慌てて、それを押し殺した。
見覚えのある家紋が見えた。
(シュタール男爵家の紋章?)
イリスの実家の馬車だ。
(訪問すると連絡は受けていない。どうしたんだ?)
馬車から男性が降りてきた。
イリスの父、シュタール男爵だった。
「久しぶりですな、ヴァルデンベルク卿」
人好きのする穏やかな声で話しかけられる。
ディートリッヒは少し緊張していたが、男爵の声を聞いて息を吐き出せた。
(たまたま近くに用事があったのだろう。先触れを寄越すのが常識だが、イリスの父親だ。多少の無礼くらいは大目に見よう)
「お久しぶりです。シュタール卿」
ディートリッヒは友好の握手を交わし、社交的な笑顔を心がけた。
「今日はどうされたのですか?突然おいでになるので、驚きましたよ」
「ははは、急いでいたもので、先触れも出せずに申し訳なかった」
男爵の雰囲気は和やかだった。
だからディートリッヒは気付かなかった。
その目が、少しも笑っていないことに。
「イリスはいますかな?」
「申し訳ありません。イリスは外出しております」
「ああ、そうなのか。急ぎの話があるものですから、居場所を伺っても?」
ディートリッヒはドキッとした。
(イリスはホテルに居るが、足を怪我している。そのことを追及されるのは面倒だな……。ここは俺が迎えに行って、イリスと話を合わせるべきだろう)
「それでしたら、私が迎えに──」
「お父様?」
ディートリッヒの言葉を、イリスの声が遮った。
外門に馬車が止まっており、そこからイリスが降りてくる。
待っていたイリスの帰宅に、ディートリッヒは柄にもなく嬉しくなり、胸を高鳴らせていた。
だが、そんな心踊る感情を持っていたのは、ディートリッヒだけだったと、彼はこのあと痛感するのであった。
扉が閉まる音すら、遠い。
私は、しばらく俯いたまま動かなかった。
肩を震わせていたのは、泣いていたからではない。
ようやく、終わった。
ベッドの上に置かれた一枚の紙。
婚約解消承諾書。
彼の署名は、はっきりとそこにあった。
迷いも、躊躇も感じさせない筆跡。
「……ふふ」
喉から、小さな笑いが零れた。
あんなにも欲しかったものが、こんな形で手に入るなんて。
ディートリッヒは、最後まで勘違いしていた。
私が、泣いていると。
私が、縋ると。
私が、彼を愛していると。
違う。
もう、そんな気持ちは微塵もない。
私は震える指で承諾書を持ち上げ、ゆっくりと折りたたむ。
その動作一つで、胸の奥に溜まっていた澱が、すっと引いていくのを感じた。
「提出するかどうかは……よく考えろ、ですって」
彼の言葉を思い出し、鼻で笑う。
考えるまでもない。
私はベッドから出て、身支度を整えた。
腫れの残る足首。
動かせば、もちろん痛い。
だけど、私は何かに背中を押されるように部屋を出た。
馬車に乗り込む。
身体がまだ熱を持っているからか、視界が揺れる。
けれど、不思議と意識は冴えていた。
鞄に入っている婚約解消承諾書が、国の重要書類を運んでいるかのように思え、緊張している自分がいる。
教会の受付に行く。
「提出ですね」
淡々とした声。
書類を提出しようとしたとき、婚約指輪が鈍い光を放った気がした。
『愛してる。結婚しよう』
私はその場で指輪を外し、承諾書を差し出す。
神父は一瞬、書類に目を走らせ、静かに受け取った。
「確かに。正式に受理します」
その一言で、すべてが終わった。
詰まっていた息が解放される。
……あっけない。
四年。
尽くして、支えて、信じて、裏切られ続けた時間が。
たった一枚の紙で、終わった。
教会を出ると、外の光が眩しかった。
思わず目を細める。
私、やっと自由になったんだ。
◇◇◇
一方、そのころディートリッヒは──
苛立ちを含んだ息を吐きながら、玄関ホールを行ったり来たりしていた。
(イリスが帰ってこない……)
脅しに使っていた婚約解消承諾書にサインをされて、きっと途方に暮れているはずだ。拗ねてホテルに籠もっているのだろう。怒っても、結局は俺のもとに帰ってきていたと、自分に言い聞かせる。
(迎えに行くべきか?いや……そこまでしてやる必要はない。泣きながら戻ってきたときに、俺が許してやればいい)
帰ってこないイリスにやきもきしていた。
そうこうしていると、屋敷の正門前に一台の馬車が止まる。
(帰ってきた!)
胸が浮き立つのを感じて、ディートリッヒは思わず口角が上がりそうになる。
慌てて、それを押し殺した。
見覚えのある家紋が見えた。
(シュタール男爵家の紋章?)
イリスの実家の馬車だ。
(訪問すると連絡は受けていない。どうしたんだ?)
馬車から男性が降りてきた。
イリスの父、シュタール男爵だった。
「久しぶりですな、ヴァルデンベルク卿」
人好きのする穏やかな声で話しかけられる。
ディートリッヒは少し緊張していたが、男爵の声を聞いて息を吐き出せた。
(たまたま近くに用事があったのだろう。先触れを寄越すのが常識だが、イリスの父親だ。多少の無礼くらいは大目に見よう)
「お久しぶりです。シュタール卿」
ディートリッヒは友好の握手を交わし、社交的な笑顔を心がけた。
「今日はどうされたのですか?突然おいでになるので、驚きましたよ」
「ははは、急いでいたもので、先触れも出せずに申し訳なかった」
男爵の雰囲気は和やかだった。
だからディートリッヒは気付かなかった。
その目が、少しも笑っていないことに。
「イリスはいますかな?」
「申し訳ありません。イリスは外出しております」
「ああ、そうなのか。急ぎの話があるものですから、居場所を伺っても?」
ディートリッヒはドキッとした。
(イリスはホテルに居るが、足を怪我している。そのことを追及されるのは面倒だな……。ここは俺が迎えに行って、イリスと話を合わせるべきだろう)
「それでしたら、私が迎えに──」
「お父様?」
ディートリッヒの言葉を、イリスの声が遮った。
外門に馬車が止まっており、そこからイリスが降りてくる。
待っていたイリスの帰宅に、ディートリッヒは柄にもなく嬉しくなり、胸を高鳴らせていた。
だが、そんな心踊る感情を持っていたのは、ディートリッヒだけだったと、彼はこのあと痛感するのであった。
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