尽くしてきた婚約者に裏切られたので、婚約を解消しました〜彼が愛に気づいたのは、すべてを失ったあとでした〜

ともどーも

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第二章

三十四話 愛ではない

 心臓が壊れそうなほど脈打つ。
 ディートリッヒの目は普通ではない。
 暗く、濁っていて、なのに異様な熱だけが宿っている。
 
 ここで刺激したら危ない。
 本能がそう告げていた。
 私は一歩も動かず、息を整える。
 
 後ろ手でそっと指を動かした。
 掌の奥に、淡い光を集める。
 ライトの魔法。
 小さく、小さく、指先の陰で点滅させる。
 
 誰でもいい。
 気づいて。
 そう願いながら。
 
「……どうしてここにいるのですか」
「迎えに来た」
 ディートリッヒは笑った。
「愛してる、イリス」

 一歩、一歩と私に向かってくる。

「全部なくなった」
 ディートリッヒが笑う。
「屋敷も、領地も、金も」
 その目が私を捕らえる。

「お前がいれば、全部取り戻せる」
 ディートリッヒが笑う。
 
「お前は俺のものだ」
 吐き気がした。
「違います」
「違わない」
「違います」
 私の指先では、なおも小さな光が点滅している。
 
 気づいて。
 お願い。

 ディートリッヒの視線は動かない。
 まるで獲物を見つめる獣のように、
 ただ、私だけを見ている。 
 
「俺は全部捨ててきた」
 低い声だった。
「お前のために」
「違います」
 私ははっきりと言った。
「なるべくしてなったことです」
 
 一瞬だけ、ディートリッヒの目が揺れた。
 けれど次の瞬間には、歪んだ笑みに変わる。
「そうだとしても、お前がいれば、やり直せる」
「いいえ、無理です」
「黙れ」
 ぴしゃりと言われた。
「俺は間違っていない」
「間違っています」
「黙れ!」
 ディートリッヒの声が荒れた。
 私は息を詰めたが、それでも目を逸らさなかった。

「あなたはいつも遅い。気がつくのが」
「遅くない。俺はお前への愛に気がついたのだから」
「いいえ。あなたは私を愛していません」
「愛してる!」
「違います!」
 叫び返した瞬間、ディートリッヒの手が伸びた。
 
 来る。
 
 私は後ろ手に溜めていた光を、一気に解放した。
 眩しい閃光が部屋を白く染める。
「っ!」
 ディートリッヒが目を押さえた。
 
 今だ。
 逃げないと──
 
 けれど、踏み出した瞬間。
 がむしゃらに振るわれた腕が、私の頬を強く打った。
 
「きゃっ!」
 視界がぐらりと傾く。
 後頭部がバルコニーの手すりにぶつかった。
 鈍い痛み。
 目の前がちかちかする。
 立てない。
 逃げないといけないのに、身体が思うように動かない。
 ディートリッヒもまた、しばらく目を押さえたまま呻いていた。
 けれど、やがてゆっくりと顔を上げる。
 その目が、私を捉えた。
 
「……拒むのか」
 低い、低い声だった。

 私はなんとか立ち上がる。
 背中が手すりに当たる。 

「何もかも失ったのに」
 ディートリッヒが近づく。
「それでも、お前だけは手に入ると思っていたのに」
「来ないで……」
「いやだ」
 
 次の瞬間、両手が首にかかった。
「っ……!」
 
 息ができない。
 ディートリッヒは私の首を絞めながら、狂ったように笑った。
「わかったよ、イリス」
 耳元で囁く。
「来世で一緒になろう」
 ぞっとした。
「来世こそ、お前を大切にする。誓うよ」
 力が強まる。
 視界が滲む。
 身体が手すりに押しつけられ、半分が外へ出る。
 
 苦しい。
 
 残っていた力を全部振り絞る。
 私は膝を持ち上げ、ディートリッヒの股間を思いきり蹴り上げた。
 
「がっ……!」
 
 手が離れる。
 空気が肺に流れ込む。
 けれど次の瞬間、体が後ろへ傾いた。
 手すりが背中から消える。

 落ちる。
 
 視界が反転する。
 夜空。
 庭。
 
(死ぬ)

 その瞬間、浮かんだのは──クロード様の笑顔だった。
 どうして。
 どうして、あのとき。
 好きだと言えなかったんだろう。 

 会いたい。
 
 次の瞬間。 
 衝撃は来なかった。
「っ、危ない……!」
 代わりに、強い腕が私を受け止めていた。
 
「……クロード様?」
 霞む視界の中で、見えたのは── 
「兄さんじゃなくてごめんね」
 キャメロットだった。
 
 その声を聞いた途端、張り詰めていたものが一気に緩みそうになる。
 けれど、すぐ上から──
「貴様ァァァッ!」
 雷のような怒声だった。
 
 見上げる。
 バルコニーには、股間を押さえてうずくまるディートリッヒの前に、お父様が立っていた。
 その顔は、見たことがないほど怒りに満ちていた。
 
「娘に何をした」
 
 低い声。
 静かなのに、空気が震えるようだった。
 ディートリッヒが顔を上げる。
「……俺たちの愛を邪魔するな」
 ディートリッヒが笑う。
「イリスは俺のものだ」
 
 お父様の拳が、ディートリッヒの顔面にめり込んだ。 
 ディートリッヒの身体が、バルコニーの手すりにぶつかる。
「が……っ」
「俺たちの愛だと?」
 お父様が一歩踏み込む。
「笑わせるな」
 その声には、侮蔑しかなかった。
 
「命を奪おうとしておいて、愛を語るな」
 さらに一歩。
「本当に好きなら」
 お父様の声が響く。
 
「相手の幸せを願うものだ」
 
 私ははっと息を呑んだ。
 胸の奥に、別の言葉がよみがえる。
 
 ──幸せに。
 
 あの港で、クロード様が言おうとして、言えなかった言葉。

 ディートリッヒの顔が歪む。
「……違う」
「違わん」
 お父様は冷たく言い切った。
「貴様のそれは、愛ではない。執着だ」
 そのまま、お父様は再びディートリッヒを殴りつけた。
 
 もう一度。
 そして、もう一度。
 
 やがて、ディートリッヒは完全に動かなくなった。
 そのとき、駆けつけてきた屋敷の騎士たちが部屋へなだれ込む。
「旦那様!それ以上は」
「離さんか!くそっ……おい、こいつを縛れ」
 お父様が騎士に命ずる。
「はっ!」
 騎士たちがすぐさまディートリッヒを取り押さえる。
 私はキャメロットに支えられたまま、その光景を見上げていた。
 
 息が苦しい。
 首が痛い。
 頭もまだくらくらする。
 
 でも、それ以上に。
 胸の奥が、どうしようもなく熱かった。
 
 クロード様。
 あなたは、私を縛らなかった。
 ただ、待つと言ってくれた。
 私の幸せを願ってくれた。
 それが、どれほど大きな愛だったのか。
 今なら、分かる。
 
「イリス」
 お母様が駆け寄ってきて、私を抱きしめた。
「無事でよかった……!」
「お母様……」
 そこでようやく、張り詰めていたものが切れた。
 涙が溢れる。
 
 怖かった。
 本当に、怖かった。
 けれど私は、生きている。
 
 キャメロットがそっと背中を撫でた。
「大丈夫」
 優しい声だった。
「もう終わったわ」
 ディートリッヒは捕まった。
 もう二度と、私の前には現れないだろう。

 私は海の向こうにいる彼を思い浮かべた。
 会いたい。
 今なら、ちゃんと伝えられる気がする。

 ──クロード様に。
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