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第三章
第一九二話 気付かれない波紋
しおりを挟むゼクシィはオプシー入港前にマルローと通信した際、気になる話を聞かされた。
『申し訳ありません。こうして貴船を再びオプシーにお迎えできるというのに』
「別に第一じゃなくても構いませんわよ。むしろ外海に出易くていいかしら。でも、何かありまして? 声が上擦ってますが?」
『……ここだけの話とさせてください。実は昨日、ある船から明日に予定していた入港を延期すると連絡がありまして』
「それはどうでも……ん? どうしてマルローさんにそんな連絡が?」
一昨日の未明、オプシーに向けて大陸東岸沖を航行していた船舶が大型海獣に遭遇した。
事件・事故や不測の事態に見舞われ、船舶の運航予定が変わることはよくあるのだが、そうした場合は海難分室に事態を報告することが義務付けられている。
マルローが受けた通信は海難報告とは別口で為された相談だった。
『その大型を仕留めたのでオプシーで捌いて欲しいという、貴船とまったく同じ要望だったのです!』
「……大型を狩るのが流行ってるのかしら? なるほど。それで第一が埋まるんですね?」
『ええ。彼らが仕留めたのはダイオウイカです。普段は深海に棲息しているので滅多に出回りません』
「それにしても、よく出合頭に仕留めたものですわね」
『手負いだったから楽勝だと言っておりました。そんなはずは無いのですが……』
ダイオウイカは出現頻度こそ多くないものの、天敵に追われるなどして突然浮上して来ることがある。
船舶と遭遇する時は大抵気が立っており、ほぼ確実に攻撃してくる厄介な性質を持つ。巨大なイカ下足に絡み付かれたら沈没は免れない。
『我々としましては貴船の時と同じように歓待する所存です。それにしても……トティアスは広い。まだ見ぬ強者があちらこちらに居るのかもしれませんな』
「承知しました。出来るだけご迷惑にならぬよう配慮しますわ。それで、その船の船名はなんと言いますの?」
『ご理解いただきありがとうございます。当該船舶は貨物船ブラック・ホェールズです』
「……黒鯨?」
『どうかなさいましたか?』
「うふふっ。いいえ。偶々かしら」
自分たち以外にも単独で大型海獣を狩る強者がいて、その船名が妙に意味深な響きであったことが気になったものの、ゼクシィもまさかその船がノーマン公爵の乗艦だとは夢にも思わなかった。
翌日、ビクトリア号は予定通りオプシー港の第二桟橋に着桟した。
「ようこそオプシーへ! 再びお会いできて良かったです!」
「わざわざご足労いただいてしまってすみません。ありがとうございます」
入港してすぐにマルローが訪船して来た。普通はマルローのような大商会の主が個船の相手をする事など無いのだが、そこは彼の商人としての勘が働いた結果だ。
「なんのなんの! 近衛艦隊に背を追われた末に撃退した貨物船と伝説になっております! もはやクジラ狩りは過去のことになってしまいましたな! はははっ!」
「景気がよろしいようで、何よりですわね」
「うほんっ。それでその……、レモンの件ではとんだご迷惑を。申し訳ありませんでした」
「うふっ。なんのことかしら? マルローさんのレモンが無かったら義姉が暴れて大変でしたわ」
「……はて? 義姉君が……レモン?」
「うふふっ。切っ掛けがあれば人の好みは変わるものですのね」
マルローの商勘がギャンギャン喚く。こういう予期せぬ話題転換には裏の意図があるものだが、なかなか答えに辿り着かない。おそらくは傾奇姫関連のマル秘情報に違いないのだ。儲かる匂いしかしない。
「……そうですか。レモンがご迷惑でなかったなら幸いです」
「ええ、美味しく頂きましたわ。義姉が」
「そうですか。随分と好物がお変わりのようで」
きっと発想の転換が必要なのだ。あの密航者の件はとりあえず忘れていいようだから、それを盾に取るまでもなく自分が喜んで飛び付くほどの何かがある。
ヒントは、傾奇姫はレモンが好き。
(以前は肉が好きだったのは間違いない。食べ物の好みが変わる? 肉からレモンへ……レモン、レモン。レモンは黄色。レモンは果物だが酸っぱ……あっ……まさか? ……そういう事か?)
オプシーでは不思議な男の噂が絶えなかった。出歩く際にはいつもフードを被るビクトリア号の男性乗組員をマルローは独自に調査していた。
沈んだ曳船乗組員の家庭を何故か訪問して回り、船舶管理会社を買収して四人の社員はアルローに移住。
船主だったゴルド・ケッベルは何故か屋敷を売り払って没落し、クーレの造船所で職工から再出発。
レギオン奴隷を史上最安値で買い叩き、さらには高級遊女を含む七人をタダで身請け。スラムの養生処にも深く関わっている。
関係者の誰もが口を噤み多くを語らないが、それらすべてに黒髪黒目の男が絡んでいる。
(そして、傾奇姫の想い人でもある……)
もしそうだとしたら、これは商機だ。しかし、この情報は生き物。機を逃せば無価値になる。
マルローは勝負を掛けることにした。
「いやぁ、何はともあれ、おめでたい事です。お祝いの品をお贈りせねばなりませんなぁ」
「うふふっ! ありがとうございます。きっと義姉も喜びますわ」
マルローは内心で飛び上がらんばかりに喜んだ。
(大正解だ! 傾奇姫は男を変えて退路を絶った。本気で東を切った。いや、これから切るか? ちょうどいい。オプシーへの東の影響力が落ち込んでいる今しかない!)
ビクトリア・アジュメイルは現状を変えに来るだろう。
今、語られているのは東方貿易の今後。アルローが本気でイーシュタルにそっぽを向くなら、その目をオプシーに向けさせることも可能だ。
アルローも帝国という市場そのものを無視はできないからこそ生まれる商機。ここに食い込むことができるなら、商人組合も大きく変革する。
商売で最も重要なものは何か。当然、商品だ。
「ふーむ。何をお贈りすべきでしょうなぁ。アルローで手に入るものでは面白味に欠けます。貴国では最近どのような品が余っておるのでしょう? それらとは違うものをお贈りしたいのですが」
「そうですねぇ。例えば……塩。なかなか美しいのです」
「ふむふむ」(マーメイド・ラグーンのアレか)
「例えば、ガラスの代替品。養生処でご覧になったでしょう?」
「むむっ」(代替品? アレはガラスではない?)
「例えば、真水。一年後くらいでしょうか」
「……」(ま、真水? え?)
「例えば、コンテナ。馬車で運べる箱ですわね。良く冷えますのよ」
「こん……」(こんてなって何? 馬車で運ぶ? 冷える?)
「例えば、アルローへの旅行券。マルローさんも是非遊びにいらしてね」
「旅行券?」(旅行……え? アルローへ?)
マルローは腹の探り合いを諦めた。時間の無駄だ。すべてを呑むしかないが、きっとそれでようやくギリギリ着いていける。
「何をすればいいですか?」
「うふふっ! 港を広げてくださいな。そうねぇ、漁港の五倍の更地を確保してください。桟橋は不要ですが、ターミナルの建設は必須ですわ」
「今サインしますので、詳細を文書で頂けますか?」
「話が早くて助かるかしらぁ。さすがはマルローさんね!」
この後になって、マルローは気付くことになる。自分が、否、商人組合そのものが傾奇姫にロックオンされていた事を。
帝国商人たちのデスマーチが始まった。
アルローでは既にあらゆる業界で始まっていた鬼の如き激務と人手不足の波が、オプシーに襲い掛かる。
そして、この変化に着いて来られない支配階級が、帝国には潜在的に多くいるのだ。
**********
皇帝トティアニクス・ゼト・ムーアはアルロー方面からの情報が入らないことを不審に思いつつも、教会経由で齎された情報を耳にして、現状維持に舵を切った。
最近の情報部の体たらく。イーシュタル家による情報の占有及び人材の抱え込み。それらを暗澹たる思いと共に諦めていた皇帝は、その目を曇らせた。
皇帝は過去を見ていた。決して目を背けてはならない忌まわしい過去を。それが神聖ムーア帝国皇帝の在り方であり、違えることの許されない道だった。
そのために必要なものは既に有り、皇帝はその一万年の実績に全幅の信頼を置いていたのだ。
過去を見て今を生きる存在に、未来からやって来る大波は気付けない。それはそもそも、このトティアスには生じるはずのない変化だったからだ。
致命的だったのは、皇帝の周りには信頼に足る友人がいなかったことであろう。
人間の意志は脆く崩れやすい。受け継がれる意志もやがては劣化する。
変わらぬものなど何一つ無い世界で、それでも変わりたくない、変わらせたくないと願うなら――、
その役目は、人間に託されてはならないのだ。
それが、初代皇帝の遺した深謀であり、今世皇帝の誤算だった。
**********
州都イースの中心部に聳える城の如き大豪邸。
背の低い木造建築ばかりの街並みにあって、その豪奢な建物だけが重厚な石造りで固められている。
屋内の各所には美術品や金属製の置物が並べられており、すべてのフロアに敷き詰められた羊毛の絨毯、光魔堰の灯りを跳ね返す金色の天井が、その圧倒的な財力を誇示していた。
家人は少ないが、邸内で働く人間は多くいる。そのほとんどがうら若き女性であり、彼女たちの瞳には深い諦観が浮かんでいる。
地下の一画。暗い石畳みの通路の両側には鉄格子の牢屋が延々と並ぶ。
牢内に囚われている者たちは地下に響く音と悲鳴、他の牢から聞こえる嘆きの声に身を竦め、蹲るばかり。全員が首に封魔魔堰を装着されていた。
悲鳴の発生源は地下牢の通路を抜けた先にある密室だ。
鉄鎖に吊るされているのは若い女性だった。鞭打たれ襤褸に成り果てたメイド服が血に染まっている。
「……」
「ふん、つまらん。気絶したか」
彼女には不始末を仕出かしたとか、反抗的であったとか、邸宅を内偵していたとか、そのような事実は一切無い。昨日まで主の言いつけを守り、真面目に働いていた、ただのメイドだ。
主の実利と趣味に付き合わされた結果だった。
もちろん好き好んででは無く、牢に繋がれてしまった母親のために、背く事も逃げる事も出来なかっただけだ。
悪趣味な拷問部屋には女性の他に二人の男が居た。切長の目尻が吊り上がった容貌は共通しており、男たちが血縁関係にあることを示している。
イバラの棘付きの鞭を持ち暴力に興じていた方の男はつまらなそうに、白目を剥いて意識を失った女性を見ているが、出入口の鉄扉の前に立つ方は苛立ちを露わにしていた。
「兄者! どうするのです!? あのじゃじゃ馬は本気ですよ!?」
「お前が先走ったのだろう? 大人しく婿に行けば良かったのだ」
「あんな魔力だけの貧乳女なんか!」
「封魔魔堰を着ければ暴れん。四肢を切り落として達磨にすれば、それなりに愉しめると思うがな?」
「兄者の好みはわかりませんが、私は嫌です」
イーシュタル公爵家の長男と三男。
シュキ・イーシュタルとキムドゥ・イーシュタル。
「好機だと思ったのです! 兄者だって黒蛇を貸してくれたではありませんか!」
「私は戦力と知恵を貸しただけだ。差配したのはお前だろう」
「とにかく! 我々をアルローから排除しようという意図は明白です!」
キムドゥの言う通り、アルローがイーシュタル家との関係を本気で清算しようとしている事は確かだった。
首長のアウルムはバランス感覚に優れた人物であり、内心はどうであれ、ビクトリアの好きにさせる事は無いと予想していたのだが。
(あの女……ひょっとして私と同じか?)
イーシュタル公爵は病床にあった。ありがちな話だが、シュキが長期間に渡り微毒を盛り続けた結果である。
なかなかに忍耐のいる作業だったが、父の役割はレギオン関連法の改正案に対する拒否権行使で終わっていた。他の十賢者を敵に回したことは確実であり、もう役に立ちそうにない。
(あと一つだけ残っていたな。さっさと委任状にサインすればいいものを)
名ばかりとはいえ、十賢者の拒否権は名前に付いてくる。死期を悟れば自ずとサインするだろうが、どうにも生き汚い。
レギオン奴隷が売り出されると知って、病体に鞭打ち自ら買い付けに行くのだから、父の趣向も相当なものだ。
「キムドゥ。お前はドゥームの葬儀でも手配しておけ」
「兄者!」
「ここからは私の手番だ。お前の出る幕は無い」
これは自分とビクトリア・アジュメイルとの戦だ。
(くくっ……いいだろう。認めよう。親殺し同士、存分にやり合おうではないか)
見るべきものを見ず、聞くべき言葉を聞かず、シュキは大いに見誤った。
本当に注視しすべき者は身近に居り、本来なら気付けたはずの変化を見落とした。
(仕掛けるなら大陸から離れているほどいい。黒蛇の出番だが……今のままではダメだな)
『バシィンッ!』
まずは手駒の梃入れから始めることに決めて、女性に鞭を一撃入れてから、シュキは拷問部屋を立ち去った。
「あ、兄者! はぁ、面倒な……どうすんだコレ?」
女性が既に死んでいた事にも、シュキは気付かなかった。
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