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呪いの血
しおりを挟む「残念だけど、諦めて」
投げ捨てられたのはひどく温度の下がった台詞だった。本当に血の繋がった父親かと疑うほどに、そっけないかかわりをする男は、母が関わる時だけ、饒舌になる。
◆
セテンス・フィヴナーは幼年期からこの世の不条理を経験していた。
それは、雨露を凌げないとか、食事が取れないとか、清潔な衣服が調達できないとか、決してそんなことではない。むしろ生活面では、格段に恵まれていたと言っていい。
稼ぎ頭の父は、衣食住に加え子供たちの学にも惜しみなくカネを投入し、家庭教師やら、学園の教員やら、――学友やら、その他大勢も――何かと名の知れた父を誉めそやし、長子であるセテンスのこともちやほやした。
それなのに。
生まれながらの勝ち組、と称されるべきはずのセテンスの瞳は今日も今日とて、深淵を移していた。ここまで生活を整えてくれる父。本来であれば、子どもながらに尊敬すべき存在である。しかし、彼が父に向けるのはただ一つ。
畏怖、であった。
——金払いが良いことと愛情が深いこと、それらは決して同義ではないのだ。
齢六歳にして彼はすでにその持論に辿り着いていた。
優秀な使用人たちも、流行りのおもちゃも、貴族であったって年に一度食べられるかどうかの珍しい果物でさえ、手配する父は、その実狡猾だ。
なぜ父はそこに金を割くのか。
彼が本当に愛している、そのたった一人のため、だけなのだ。
「セテンス」
セテンスが、庭師自慢のバラ園に出ると決まって、声をかけにきてくれるこの人物。父の関心を惹きつけて止まないその女性は、
「お母様」
少年はガバリと顔を上げる。
翳り切った無垢さは既に汚い感情に塗り上げられてしまった。本来な親子の語らいに、計算など必要ない。それなのに、経験しきった不条理のせいで、セテンスの思考は無意識のうちに父の帰宅時間を逆算し、あとどのくらい一緒にいられるかカウントダウンを始めていた。
セテンスのいるガゼボに入りその隣に腰掛けた母は、そっと彼の背に手を当てた。セテンスと二人きりになると暖かな手をこうしてセテンスの頭や額、背のいずれかに伸ばし優しく撫で上げてくれる。最初は母の癖かと思ったが、まだ物の判断も付かない年齢の時に幼いセテンスが何度も母に強請ったらしい。それからはこの関わりが当たり前になったのだと聞いた。
ブルーグレイの髪色は結い上げられ白い頸を晒している。涼やかな瞳は初対面の人に構えさせる威圧感をわずかに秘めているものの、常に穏やかに凪いでいた。
あぁ、いつもの母だ。と撫で上げられた背の感覚も手伝ってセテンスはほっと身体の力を抜き、ゆったりと母に寄りかかった。決して軽くはないその上体を母は穏やかな顔をして受け止めた。
薄く小さな唇が微笑みの形に変わり小さな笑い声がセテンスの耳を柔らかく打った。柔らかい掌だ背からセテンスの頭へと移りゆく。母は甘える子どもに応えるようにもう一度だけひと撫でしてくれた。三人の子供を産んだはずなのにスタイルの崩れなどなく、その若さを保ち続けている母は父の気持ちをも捉えて離さない。
どちらも無言のまま穏やかな時が流れる。少なくともセテンスにとって言葉は必要なかった。目を細め、ホワホワとした満足感を噛み締める。そう、この時間こそ彼にとって至福の時間だった。あと数時間で父が戻ったその後には決して味わうことのできない時間である。
幼い頃から過剰なほどのレッスン講師を付けられているのも。
おもちゃや果物を食す名目など理由をつけて部屋に下がらせるのも。
中等学部からは全寮制の学校に突っ込もうとしているのも。
全て父がこの母を独占したいがための行動に他ならない。
「少し風が冷たくなってきましたね。中に入りましょうか」
母にそう促されるまで、セテンスはそのまま幸せを享受していた。
◆
その日の夕刻帰宅した父に呼び出されたセテンスはわずかに体を硬くする。椅子に座るよう勧めた父はセテンスの前に膝をつき、視線の高さを合わせた。一見穏やかな表情だが、その実、父の瞳は光を宿していない。
きっと使用人から今日の話を聞いたのだろう。父にかかると使用人たちはまるでお喋り雀のように口が軽くなる。セテンスが眉間に皺を寄せる。そんな息子を見て父はやれやれ、とでも言いたげにため息と共に口を開いた。
「セテンス、もう少し大人になりなさい。もうそろそろ、目に余る」
まるで絵本の読み聞かせをするように言い聞かせる柔らかな声音も。
「何度も伝えているはずだ。きちんとお前だけの、唯一を見つけたほうがいいと。もちろん、ゼーテ以外の」
まるで子どもが粗相をしたことを窘めるその、瞳も。
完全に大人気ない嫉妬に塗まみれていた。
◆
父の部屋を辞したセテンスに投げかけられたのは、鈴の鳴るような愛らしい声音である。
「兄様は、要領が悪いのね」
フィヴナー家の長女であり、セテンスの二歳下のスィシュカが告げたのは、わかりやすい棘が含まれた言葉であった。
「うるさい」
フイと顔を背けその横を通り過ぎようとするセテンスをスィシュカはせせら笑った。妹のはずなのに、時折酷く狡猾な表情を浮かべるこの娘にセテンスは父に向けるそれと似た苦手意識を持っていた。
「どうやって母様との時間を確保するか?そんなの簡単よ。お父様におねだりすればいいの」
至極簡単なことよ、とでも言いたげに鼻を鳴らす彼女は、得意げにつげてみせる。
どうにかして感情を抑え込むセテンスが、どちらかと言うと母寄りの事勿れ主義といった性格を受け継いでいるのに対し、母譲りの凪いだ瞳を受け持つ彼女は、父に次ぐ抜け目のなさを持ちあわせていた。
母と過ごす時間が父に次いで長いのはこのスィシュカである。
スィシュカはとびっきり難しいものを父にねだって、それが用意できなければ母の時間を譲り受けると言ういわば交渉術で勝負に出たのだ。
強請ったものが父に用意できるものであれば、しかし父がそれを手配するまでは母の時間を享受出来るし、用意できないものであれば、それを理由に交渉した時間分、父から母を奪える。
そういう時父は決まって、苦虫を噛み潰したような顔で長女を眺め、「お前はほんとにいい性格してるね」とぶつくさ文句を言うのだ。
あいにくセテンスはスィシュカのように、交渉術に長けてもいないし、父に言い負かされてしまうことが常であった。そんなの自分にできっこない。だって彼は既に一度敗北しているのだ。
セテンスが忘れられないのは、ある雷の夜、母に共寝をねだった時のことだった。
その日は、崖崩れが起きて足止め状態とかどうとかで父の帰りが翌日になることを把握した上で、ただの雑音に感謝しながら、セテンスはひどく惨めに見えるように震えて見せた。優しい母は、もちろんセテンスを柔らかな布団の中に迎え入れてくれ、セテンスはいそいそとベッドに潜り込んだ。寝具に移った甘やかな母の匂いを鼻いっぱいに吸い込む。温かい母に抱きしめられてしまえば、途端に安心して、睡魔が襲ってきた。
きっとその夜の間だけの、それでも最高の思い出になるはずの幸福は、それから程なくしてあっけなく壊された。
うっとりと眠りについたのが日が変わる少し前のこと。それから日が変わって一刻も立たない頃、セテンスは優しく背を撫で上げられる感触に意識を浮上させた。
明らかに母とは異なるその掌の大きさに、違和感を感じて開眼したその瞬間。セテンスは血の気が弾くほどに恐怖した。
セテンスの隣でうっそりと微笑んでいるのは父である。
「セテンス、それはダメ。この父の心がとっても狭いの、良い子のセテンスはちゃぁんと知っているだろう?」
刹那、屋敷中に爆音を轟かせた稲光に照らされた父の横顔はゾッとするほど美麗で、そして、酷く恐ろしいものだった。
夢の世界から戻らない母を残し、セテンスは有無を言わさず抱き上げられ、自室へと強制送還される。セテンスを抱え上げるその手も。ゆったりとした歩調で運ばれるこの感覚も。父の胸から響く穏やかな心音も。決してセテンスに恐怖や不快感を与える要素は一つだってない。
程なくしてセテンスの部屋につき、寝台に大切に降ろされる。優しく毛布をかけられて、数回頬を撫でられる。
「大丈夫。うるさいのはもう、止むよ」
その一言が告げられた瞬間、
ぴたりと稲光が止んだ、気がした。
絶対に偶然だ。だって、そんなのあり得ない。
頭ではそうわかっているはずなのに。まるで父が天に命令し、天がそれを受け入れたかのようで。
そんなバカなことを考えてしまうほどき、セテンスは父に畏怖を抱いた。抱いてしまったのだ。あぁ、この男には何をしたって絶対に敵わない。そう、思ってしまった。
年端も行かぬ少年にとってその屈辱は如何程であったろう。その経験は彼の心に大きな傷を残した。
程なくして就寝の挨拶をした父がそっと部屋を出る。そのまま母の元へ行くことは分かりきっていた。
多分、自分がもっと愚鈍で、もっと無垢であったのなら、ただの優しい、母への愛情表現が強すぎる父として受け止めていただろう。しかし父譲りの視野の広さを得ているセテンスは既に気が付いてしまっていた。
遠くない将来、セテンスやスィシュカが手を離れる頃。
父は母を完全に奪い去ってしまうだろう、と。
翌日、いつもは朝一番に目覚める母が昼過ぎまで寝室から出てこず、そして、酷く気怠げな表情をなんとか隠そうとして失敗していることに二人の聡い子供たちはしっかりと気がついていた。
「ふふ、お父様、馬車を乗り捨てて単騎で戻ってこられたのですって」
昼食後、屋敷内の図書室で本を広げたセテンスの前に陣取ったスィシュカは面白くてたまらないと言った様子で開口一番にそう告げた。
本来ありえない距離だ。それもあの土砂降りの稲光の中。臆病な性質を持つ馬の機嫌をとりながら一心不乱に屋敷に戻ることなど並大抵のことでは無い。しかし、あの父ならやりそうだとセテンスは考える。同じことを思っていたのか呆れた顔のスィシュカは首をすくめて言葉を続ける。
「少し怖いと思ってしまうけれど。でも、私たちにもそういう血が流れているってことよね?……ねえ、確かにお父様は強引だったり大人気なかったりするけれど」
珍しく言い淀んだスィシュカはそこまで言いかけ、言葉を切った。がちり、と固まったセテンスに、頬を染めたスィシュカが気がつくことはなく。ニコニコと言葉を続けた。
「そこまで強い愛を捧げられる相手と出会えて、人生を共にできるってなんだか素敵だと思わない?」
ポツリと自分に言い聞かせるようにそう告げたスィシュカに、セテンスは黙りこくる。
彼女の言葉は、それから長い間、セテンスの心の隅にべったり張り付く事になった。
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