カナリアを食べた猫

端本 やこ

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第2章 猫にかつおぶし

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「追いつけて良かった。あの、これどうもありがとう。それとさっきも、助けてくれて。逸登君がいてくれなかったら私どうなってたことか。あ、違う。そうじゃなくて、ごめんなさいだ。消防の皆さんに迷惑かけちゃった。高所恐怖症は子どものころのトラウマで」

 早口でまくし立てていると分かっている。
 色々伝えたいことはあるのに、頭で整理するだけの余裕がない。

「落ち着いて」

 往来の妨げになっていることすら気にしていなかった。逸登君に自販機の脇に誘導されて、自分の必死さが恥ずかしい。

「そうだ。何か飲む?」
「詩乃さん」
「コーヒーでいいかな?」
「お水飲んで」
「私は平気」
「しーのさん」

 窺うような目付きの逸登君は、多分私を見透かしている。
 焦りも恥ずかしさも全部。
 逸登君がポケットを探る間に、首に戻った社員証ホルダーを押し当て電子マネー決済で済ませた。

「ごめん。折角だけど、俺、今、制服だから」
「あ、そっか。うん」

 ペットボトルの蓋を開けようとして、逸登君のメモを握りしめていることに気が付いた。
 大事な連絡先が消えてはたまらない。あまつえ、本人の目の前だ。水を小脇に挟んで、掌で伸ばす。

「気にしないで」
「でも」
「ただの紙だよ、そんなの」

 貸してと、ボトルを抜きとられてしまった。
 蓋の開いたボトルを受け取って、水を一口含む。凝視する逸登君に心配をかけまいと、少しだけ頑張ってぐびぐびと喉を潤した。

「走らせちゃったね」
「全然! 追いかけたのは私の勝手だし」

 ありがとうと伝えるだけならば、それこそメモの連絡先があれば十分な話だ。全力で追いかけたのは、直接伝えたいと思ったから──ううん。それだけじゃない。
 会いたいと願っていたからだった。

「詩乃さんスマホ持ってる?」
「え? あ、うん」

 上着のポケットを探って取り出すと、「ただの紙よりね」と笑ってくれた。
 入力されたばかりの連絡先は、登録を確認してから大事にポケットに戻した。もちろん、大切な「ただの紙」も一緒に。

「体調どう? 早退できたりとか」
「もう大丈夫。今日頑張れば明日は休みだから……っていうか、その、ご心配をおかけしまして」
「後で迎えに来ていいかな」

 理解が遅れた私の前で、逸登君がこめかみをぽりぽりと掻く。

「同僚のこと本気で嫌そうにしてたってクマに聞いて思い出したんだ。前に駅で会った人だって。違う?」

 逸登君の問いかけは確信めいたものがある。
 清水さんとの会話をくまちゃんが聞いていることは分かっていたのに、逸登君の耳に入るところまで予測していなかった。
 情けない。

「あの人が私をからかうのは趣味みたいなものだと思う」

 逸登君が関わりたくないことは知っている。無理に話さなくていいと言ったのは、他でもない逸登君自身だったのだから。
 こんな話をしたいんじゃないのに。
 ボトルを握りしめて視線をコンクリートに落とした。

「やっぱあの時の」

 逸登君の声色が剣を帯びたように感じて、叱られた子どものように反射で頷いてしまった。

「詩乃さん、終わるの何時?」

 有無を言わせない口調に、素直に答えてしまってから少し慌てた。

「でも、本当にもう大丈夫。逸登君もお仕事あるんだし、これ以上迷惑かけるわけには」
「俺が嫌なだけ。詩乃さんがアイツに揶揄われるのも、送られるのも」

 驚いた顔をしているだろうと思う。もしかしたら、ものすごく間抜けな顔になっているかも。
 嬉しい本心は口に出すのはおろか、顔にすら上手く出ないのが私だから。
 可愛くない。そう解ってはいるけれど、表情筋が都合よく空気を読むわけもなかった。

「あ。それこそ詩乃さんの迷惑にならなければ、だけど」
「ならない!」

 勢いあまって逸登君の言葉に被せてしまった。
 必死感がダサい……恥を上塗りした気分だ。

「よかった。ゆっくり話ができたらと思ってたから」

 逸登君の口調が元に戻ったことにほっとした。

「私も」
「後で色々聞かせてくれたら嬉しい。前にあの人が言ってたこととか、トラウマのこととか」

 清水さんのことなんて話したくもないし、秀治のことだって聞かせたくない。
 けど、興味を持ってくれたのは嬉しい。

「面白い話じゃないよ」

 視線が重なって、顔を見合わせ笑ってしまった。

「それじゃ、もし時間が変わったりしたら連絡して」
「うん。わかった」

 軽く手を挙げて立ち去る逸登君に、小さく手を振って応えた。
 逸登君が角を曲がるまで見送って、事務所へ足を向けた。

 道すがら、ポケットに入れたメモを取り出した。往生際悪く、癖ついた折り線に指を這わせる。
 ただの紙だけど、ただの紙じゃない。
 愚図ついていた私が一歩を踏み出すきっかけをくれた。
 紙の皺を辿っていたはずの指が、いつの間にか逸登君の名前をなぞる。
 私にとってはお守りみたいに神聖でご利益のある紙切れだ。首に下げた社員証入れに大切に納めた。

 ただの社員証がゴールドメダルになったような気がした。
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