カナリアを食べた猫

端本 やこ

文字の大きさ
11 / 31
第2章 猫にかつおぶし

3

しおりを挟む
「追いつけて良かった。あの、これどうもありがとう。それとさっきも、助けてくれて。逸登君がいてくれなかったら私どうなってたことか。あ、違う。そうじゃなくて、ごめんなさいだ。消防の皆さんに迷惑かけちゃった。高所恐怖症は子どものころのトラウマで」

 早口でまくし立てていると分かっている。
 色々伝えたいことはあるのに、頭で整理するだけの余裕がない。

「落ち着いて」

 往来の妨げになっていることすら気にしていなかった。逸登君に自販機の脇に誘導されて、自分の必死さが恥ずかしい。

「そうだ。何か飲む?」
「詩乃さん」
「コーヒーでいいかな?」
「お水飲んで」
「私は平気」
「しーのさん」

 窺うような目付きの逸登君は、多分私を見透かしている。
 焦りも恥ずかしさも全部。
 逸登君がポケットを探る間に、首に戻った社員証ホルダーを押し当て電子マネー決済で済ませた。

「ごめん。折角だけど、俺、今、制服だから」
「あ、そっか。うん」

 ペットボトルの蓋を開けようとして、逸登君のメモを握りしめていることに気が付いた。
 大事な連絡先が消えてはたまらない。あまつえ、本人の目の前だ。水を小脇に挟んで、掌で伸ばす。

「気にしないで」
「でも」
「ただの紙だよ、そんなの」

 貸してと、ボトルを抜きとられてしまった。
 蓋の開いたボトルを受け取って、水を一口含む。凝視する逸登君に心配をかけまいと、少しだけ頑張ってぐびぐびと喉を潤した。

「走らせちゃったね」
「全然! 追いかけたのは私の勝手だし」

 ありがとうと伝えるだけならば、それこそメモの連絡先があれば十分な話だ。全力で追いかけたのは、直接伝えたいと思ったから──ううん。それだけじゃない。
 会いたいと願っていたからだった。

「詩乃さんスマホ持ってる?」
「え? あ、うん」

 上着のポケットを探って取り出すと、「ただの紙よりね」と笑ってくれた。
 入力されたばかりの連絡先は、登録を確認してから大事にポケットに戻した。もちろん、大切な「ただの紙」も一緒に。

「体調どう? 早退できたりとか」
「もう大丈夫。今日頑張れば明日は休みだから……っていうか、その、ご心配をおかけしまして」
「後で迎えに来ていいかな」

 理解が遅れた私の前で、逸登君がこめかみをぽりぽりと掻く。

「同僚のこと本気で嫌そうにしてたってクマに聞いて思い出したんだ。前に駅で会った人だって。違う?」

 逸登君の問いかけは確信めいたものがある。
 清水さんとの会話をくまちゃんが聞いていることは分かっていたのに、逸登君の耳に入るところまで予測していなかった。
 情けない。

「あの人が私をからかうのは趣味みたいなものだと思う」

 逸登君が関わりたくないことは知っている。無理に話さなくていいと言ったのは、他でもない逸登君自身だったのだから。
 こんな話をしたいんじゃないのに。
 ボトルを握りしめて視線をコンクリートに落とした。

「やっぱあの時の」

 逸登君の声色が剣を帯びたように感じて、叱られた子どものように反射で頷いてしまった。

「詩乃さん、終わるの何時?」

 有無を言わせない口調に、素直に答えてしまってから少し慌てた。

「でも、本当にもう大丈夫。逸登君もお仕事あるんだし、これ以上迷惑かけるわけには」
「俺が嫌なだけ。詩乃さんがアイツに揶揄われるのも、送られるのも」

 驚いた顔をしているだろうと思う。もしかしたら、ものすごく間抜けな顔になっているかも。
 嬉しい本心は口に出すのはおろか、顔にすら上手く出ないのが私だから。
 可愛くない。そう解ってはいるけれど、表情筋が都合よく空気を読むわけもなかった。

「あ。それこそ詩乃さんの迷惑にならなければ、だけど」
「ならない!」

 勢いあまって逸登君の言葉に被せてしまった。
 必死感がダサい……恥を上塗りした気分だ。

「よかった。ゆっくり話ができたらと思ってたから」

 逸登君の口調が元に戻ったことにほっとした。

「私も」
「後で色々聞かせてくれたら嬉しい。前にあの人が言ってたこととか、トラウマのこととか」

 清水さんのことなんて話したくもないし、秀治のことだって聞かせたくない。
 けど、興味を持ってくれたのは嬉しい。

「面白い話じゃないよ」

 視線が重なって、顔を見合わせ笑ってしまった。

「それじゃ、もし時間が変わったりしたら連絡して」
「うん。わかった」

 軽く手を挙げて立ち去る逸登君に、小さく手を振って応えた。
 逸登君が角を曲がるまで見送って、事務所へ足を向けた。

 道すがら、ポケットに入れたメモを取り出した。往生際悪く、癖ついた折り線に指を這わせる。
 ただの紙だけど、ただの紙じゃない。
 愚図ついていた私が一歩を踏み出すきっかけをくれた。
 紙の皺を辿っていたはずの指が、いつの間にか逸登君の名前をなぞる。
 私にとってはお守りみたいに神聖でご利益のある紙切れだ。首に下げた社員証入れに大切に納めた。

 ただの社員証がゴールドメダルになったような気がした。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

【完結済】25億で極道に売られた女。姐になります!

satomi
恋愛
昼夜問わずに働く18才の主人公南ユキ。 働けども働けどもその収入は両親に搾取されるだけ…。睡眠時間だって2時間程度しかないのに、それでもまだ働き口を増やせと言う両親。 早朝のバイトで頭は朦朧としていたけれど、そんな時にうちにやってきたのは白虎商事CEOの白川大雄さん。ポーンっと25億で私を買っていった。 そんな大雄さん、白虎商事のCEOとは別に白虎組組長の顔を持っていて、私に『姐』になれとのこと。 大丈夫なのかなぁ?

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

苺の誘惑 ~御曹司副社長の甘い計略~

泉南佳那
恋愛
来栖エリカ26歳✖️芹澤宗太27歳 売れないタレントのエリカのもとに 破格のギャラの依頼が…… ちょっと怪しげな黒の高級国産車に乗せられて ついた先は、巷で話題のニュースポット サニーヒルズビレッジ! そこでエリカを待ちうけていたのは 極上イケメン御曹司の副社長。 彼からの依頼はなんと『偽装恋人』! そして、これから2カ月あまり サニーヒルズレジデンスの彼の家で ルームシェアをしてほしいというものだった! 一緒に暮らすうちに、エリカは本気で彼に恋をしてしまい とうとう苦しい胸の内を告げることに…… *** ラグジュアリーな再開発都市を舞台に繰り広げられる 御曹司と売れないタレントの恋 はたして、その結末は⁉︎

黒瀬部長は部下を溺愛したい

桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。 人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど! 好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。 部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。 スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。

処理中です...