カナリアを食べた猫

端本 やこ

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第2章 猫にかつおぶし

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 全身に纏わりつく空気の流れ、耳を掠める風の音、頼りない足場の浮遊感。
 畏れがパニックを通り越して、意識が薄らぐ。

「直ぐ終わるよ」

 安心させようとする逸登君の声が風の音に混じる。
 同じ籠に乗っているのに遠くに聞こえた気がして不安が煽られる。
 下はもちろん、遠くも近くも見ていられない。かといって視界を塞ぐのすら躊躇われる状況下、首を曲げることすらままならない。
 目を泳がせて逸登君の存在を探る。

「大丈夫。ここに居る」

 逸登君の優しい顔が視界を占領した。瞬きをすると、頷いて返してくれた。
 私を支える逸登君の腕の力強さに気が付いて、針で小さな穴を空けられた風船のように細く長く息を吐く。
 ずっと呼吸することも忘れていた。

「よく頑張ったね」

 到着を告げた後、逸登君が静かに囁いた。
 私だけに向けられた優しい声色は、一瞬で仕事の口調に変わった。

 終わった……。

 ぼんやりとしているうちに救急隊に受け渡される。地に足を着けても宙に漂っているような感覚だ。想定の怪我人より症状は重いかもしれない。
 救急車の中で血圧を測られ、簡単な呼吸法を教えられた通りに実践した、、、と思う。
 胃痛は残れど、突き上げる吐き気は収まった。動悸と体の震えも止まり、水を口にすると唇に染みた。極度の乾燥で割れたのか、自分で噛み締めたか覚えがない。
 じんじんする痛みから、感覚が戻ってきたことを知って安堵した。

「猫ちゃん、気分どう? 軽いパニック症状だって聞いたんだけど」

 同じ社の人間として清水さんに連絡が入るのは当たり前だけど……。
 今、一番会いたくない相手の登場で、頭に血が上る。

「ご心配をおかけしました」
「それはいいんだけど、苦手ならそう言ってくれてれば」
「連絡漏れはそちらのミスです」

 ビルのテナントに向けて避難訓練の通知は届いていたはずで、アトウッド宛で一括りにされていたに違いない。情報共有がされなかったのはショップ側の不手際だ。
 事務所を空にしてスクール業務に差し支えている。
 店長兼エリア統括の立場の清水さんにあってはならないことだ。
 にもかかわらず、相変わらず「ごめんごめん」とヘラヘラした調子で手を伸ばしてきた。
 パシッと乾いた音が立ったのは、反射で叩き退けたからだった。

「えー。猫ちゃんマジおこなの?」
「当たり前です」
「ははっ。今日はもう早退しなよ」
「いえ」
「真面目だなぁ。送ってくから心配ないって」
「必要ありません」
「なんで? 俺のせいなら猶更、最後まで世話焼くって」
「いい加減にしてください!」

 どこまでも苛立たせる口調が気に食わない。
 清水さんが居てはゆっくりできないと判断して、ふらつく脚を踏ん張った。
 無理はしないでというくまちゃんの制止は、仕事があるからと振り切った。くまちゃんは清水さんを一瞥したけれど、何も言わなかった。
 消火訓練は任せると清水さんを追いやり、一人で救急車を降りた。

***

 事務所に戻り、受付カウンターに設置しているアロマディフューザーにオイルをセットした。鎮静効果のあるベルガモットとネロリを選んだ。通常は消費期限の近いオイルや季節に合わせた効能で選ぶけれど、感情の昂ぶりをコントロールするのを優先させた。
 別の訓練に参加していた同僚たちが戻る頃には幾分落ち着いた。

「貸会議室の片付け行ってくるね」

 講義が終わる時間になったのをいいことに席を立つ。
 読み通り、少しの時間で回復したけれど、あまりの疲労感でもうしばらく一人きりでいたい気分だった。

 外に出ると、避難訓練の撤収作業が行われている。
 道路脇に並ぶ数々の消防車を目で追った。
 制服じゃ誰が誰だか分からない。なんとなく逸登君の姿を探したけれど、見つけられず終いだった。

 講師と生徒を見送り、一人で会議室を片付ける。アトウッドのロゴが入った紙袋に備品を詰め込み、資料をまとめた重いファイルを抱える。
 チェックアウト時、首に掛けているはずの身分証明がないことに気が付いた。
 そうだ、健次君に預けたんだった。
 あとで紗也に連絡しようと決めて、会議室の返却手続きを完了した。

「猫間さん、おかえりなさい」
「ただいま」
「会えました?」

 投げ掛けに答えられずキョトンとすると、同僚が「それ」とデスクを指した。

「渡せば分かるって言われたんですけど」
「え、あ、うん。ありがとう」

 重たい荷物を降ろして見れば、預けた社員証に重ねてメモが一枚添えられている。
 健次君、わざわざ届けてくれたんだ。
 忙しい間を縫って返却に来てくれたはずで、申し訳なさが先に立つ。やっぱり紗也に連絡してお礼言わないとな。
 紗也と健次君のそっくりな顔を思い描きつつ、メモを手に取った。

 ──体調はどうですか? 心配なので連絡ください。

 右上がりに走り書きされた文字に息を飲んだ。
 気遣いの言葉の下に記された名前と、連絡先は個人のものに違いない。
 昼間、一度死んだ心に血が通った気がした。
 心配をかけたからと、私から連絡をするのに気兼ねない理由をくれているのも優しさに感じる。彼のさりげなさに感動すら覚える。

「この人来たのって?」
「ほぼ入れ違いですよ」

 階段で会っていてもおかしくないと聞いて走りだした。
 二階ぐらい普段は階段を使うのに、疲労と荷物を理由にエレベーターに乗ったのが間違いだった。
 縺れる脚が腹立たしい。
 避難訓練に向かった時以上に今日の服装が恨めしく思いながらも、先と同じ道筋を辿る。

「──っ登君!」

 前を行く消防服を見つけて咄嗟に声が出た。防火服ではなくなっているが、他に隊服の人はいない。

「待って!」

 今度こそ意思を持って叫んだ。
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