カナリアを食べた猫

端本 やこ

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第2章 猫にかつおぶし

1

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 タイトめなラップスカートをたくし上げ、非常階段を駆け上がる。
 普段ならオフィス履きはナースシューズなのに、今日に限ってパンプスのままだ。
 近隣の貸会議室で講座の準備を終えて、事務所に戻るところだった。清水さんに待ち伏せされ、走らされている。

「猫ちゃん、早く!」

 上階の扉を開けて待つ清水さんを睨み付け、脇を擦り抜けた……はずが、手を取られてしまった。

 毎年3月は消防訓練がある。
 オフィス街総出での訓練は規模が大きく、企業として参加が義務付けられている。
 今年はお知らせがないということすら失念していた。
 あろうことか、持ち回りの「逃げ遅れ役」が割り振られている年らしい。記憶では、怪我人として担架で運び出される役どころだ。

「アトウッドさんですね。こちらです!」

 誘導するのは紺色の活動服の消防隊員だ。
 はーいと陽気に答える清水さんの一歩後ろで、私は息も絶え絶え。
 ヘルメットを手渡され、「すみません」と乾いた喉で絞り出した。
 やっぱり筋トレもしなきゃだし、今夜はいつもより入念にストレッチをしないと明日が怖い。
 息が上がったまま、既に出揃っている救助待ち要員の最後尾についた。
 参加者は周辺雑居ビルのOLが大半だ。その内の何人かは顧客なのだろう。清水さんが気軽に挨拶を交わしている。

「訓練の恰好じゃなくない?」
「訓練だからってなめてんでしょ」

 うっわ。当たり強っ。
 最悪。清水さんが手を引いたりするから。
 だいたい、避難訓練だって知ってたらこんな格好で来なかった!

「ということで、順次脱出していただきます」

 え?
 今なんて?
 ビルの上階から布製の筒形滑り台で地上まで滑り降りろって、嘘でしょ。

「やったね、猫ちゃん。アトラクション楽しみ」

 清水さんの不謹慎な言葉も、耳元で囁かれるほど接近を許したことも、それに伴ってひそひそと注がれる妬みも、心底どうでもいい。
 逃げなきゃ。
 なんとしてでも逃げなきゃと、それしか考えられない。

「あ、あの、すみません」

 近くで準備を進める消防隊員に声をかけ、否応なしにヘルメットを押し付けた。

「ごめんなさい」
「はい?」
「できません」

 きょとんする隊員は「あぁ」と、ヘルメットの顎紐を外して微笑んだ。
 違う違う違う!
 遅れて来たくせに逃げようとしているなどと、他の人に知られたらどうなることか。穏便に回避する道を選ぶ。

「装着は義務だと思ってくださいね。あと、ネックストラップは危険なので預かります」
「そうじゃなくて」

 首から下げたままの社員証を指した隊員が「あれ?」と首を捻った。

「しの、りん?」

 逃亡しか頭に無い私は、目の前の隊員すら気にしていなかった。
 まじまじと見てくる隊員を見返す。
 制帽の下の丸っこい目、そして胸元の「狛江」の刺繍。

「もしかして健次君?」

 小さく頷いて見せた人懐っこい笑みは、紗也に瓜二つだ。6、7年前に狛江家で会ったぶりで、例えばこれが街中での再会であったなら世間話でもしただろう。
 が、今はそれどこではない。

「助けて。私、滑り台できない!」

 私の服装を眺めて納得した健次君は、「一応被ってて」と紐を緩めたヘルメット片手に空いた手を差し出した。要求されるがまま社員証とヘルメットと交換すると、健次は他の担当隊員の元へと行った。
 良かった。健次君マジ神。
 この際、拒否する理由を誤解されていようが構わない。

「残りの方とアトウッドさんはこちらへ。お一方だけ、怪我人役をお願いします」

 お願いしますも何も、健次君の厚意で怪我人役があてがわれてしまった。
 滑り台を回避しただけで、状況は地獄のままだ。
 喉も唇も乾いて気道が狭まる。

「残念。猫ちゃんと助かりたかったのに」

 清水さんが重ねる不謹慎発言に釘を刺すこともできず、廊下の壁に凭れかかって身体を支えていた。
 膝が震えて自立できない。
 そ、そうだった。早く逃げなきゃ。
 訓練中はエレベーターは停止しているのだから、階段を使うしかない。しかし、力の入らない足腰で来た道を引き返せるものか。
 早々に滑り降りていく清水さんたちを信じられない思いで見送った。

「ヘルメットちゃんと絞めてくださーい」

 健次君が肩にポンと触れたのを合図に、崩れるように座り込んでしまった。

「ぇっ、ちょ、どうしたの?」
「無理」

 驚きながらも支えてくれる健次君の手から逃れようと必死でもがく。

「ムリムリムリッ!」

 私が高所恐怖症だって、紗也なら知っている。旅先で展望台やつり橋といった観光名所は外してもらってきた。
 おしゃべりな紗也が健次君に話していないなんてと、八つ当たりしてしまうぐらいには我を失っていた。

「訓練って知ってたでしょ」
「はしご車なんて知らなかった!」
「安全はばっちり確保するから安心して」

 私の足腰が立たないのをいいことに、健次君がヘルメットをはじめとした安全装置を着々と装備していく。
 他の救助待ち要員が全て地上に降りた今、消防関係者としても代役がいないのは困るのだろう。
 それは分かるけど!
 怖いものは怖い!!

「怪我人は暴れないでくださーい」
「紗也に言いつけてやる!」
「えぇー。姉ちゃんに叱られるのはイヤだけど、任務果たせないのはもっと困るかなぁ」
「やだ! ダメ! 止めて放して!」
「その罵倒変に聴こえちゃうじゃん」

 半笑いを通りこした健次君はほとんど笑っている。
 信じられないぐらい腹立たしい。
 最終的に取り押さえるように抱えられて、肩を叩いて抵抗した。

「先輩に紹介したの間違えたかな」

 健次君の呟きの意味なんてどうでもよかった。
 隊員同士の会話や無線でのやりとりの臨場感がよけいに緊張させる。

 あぁ、ヤバい。もうだめだ。
 はしご、来ちゃった……。

 窓の外に人が居るという非日常。窓の外に出されるという数秒後の未来に、抵抗する力をもぎ取られ、健次君にしがみ付くしかなかった。

「健次。そろそろお姫様放せ」
「離したいのは山々なんすけど」
「吐く、、、死ぬ!」
「落ち着いて。上も下も先輩たちいるから安心して。ね?」

 年下の健次君が子どもをあやすように背中をさすってくれる。
 そんな優しさ、絶対的恐怖の前では何の気休めにもならない。
 体が震え、胃液が逆流する。
 うっと口を押えると、さすがの隊員たちも一瞬身構えた。
 誰かが「本物か」と呟いた。これが嘘に見えてんのか! と、怒鳴りたい気持ちでいっぱいだ。しかし、口を開けたら最後、声ではないものが溢れ出るだろう。
 グッと堪えて、涙目で訴えるしかない。

「あれ? 詩乃さん?」

 聞き覚えのある声に、助けを請う視線の先を変えた。

「ぁ……」

 防火服に身を包んだ逸登君が、籠部分から窓枠に片足をかけている。
 込み上げていた胃液がすっと引いた気がした。実際には、ほんの少し体の力が緩和しただけのことだった。
 健次君は、私が筋緊張を解いた瞬間を見逃さず、優しく引き剥がした。

「詩乃さん、行こう?」

 健次君に支え直されて、逸登君だけを視界に入れた。
 行きたくないのに、その聞き方はずるい。

「おいで」

 差し出された手に掻いついた。
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