カナリアを食べた猫

端本 やこ

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第1章 猫にまたたび

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「何くれたんだろう」

 静かになった玄関先で、持たされたビニル袋を開ける。
 逸登君が少しだけ困った様に眉を寄せたけど、一緒に袋を覗き込んだ。

「プリンか。食べる?」
「今はお腹いっぱいだな」
「じゃ、明日にしようか」

 冷蔵庫に納めて戻った逸登君が、所在なさげに揉み上げを掻いた。照れに近い感情を抱いた仕草なのだと、なんとなく察する。

「歯磨きだけさせて?」
「え、あ、うん。着替え出すね。そうだ、お風呂使って」

 急にあたふたする様子を見て喉が鳴る。
 人前では心の内を隠して笑みを張り付けることが多い私には、同僚に愛される逸登君は眩しいぐらいに清い存在に感じる。
 逸登君は何もしないだろうし、求めてはいけない。
 そんな気がする。

「私は歯磨き出来ればいいから、逸登君どうぞ?」
「でも楽な恰好した方が休めるでしょ」
「ストッキングだけ脱いじゃうから大丈夫」

 ほら行ってと、半ば強引に逸登君の背を押した。

 浴室に消えたのを確認して、歯磨ブラシを持ってキッチンに立った。
 ブラッシングの音が口内から直接脳に響く。
 脳を占拠されると、自らの内に意識が集中する。
 シャカシャカというリズムに合わせて自然と思考が巡り、清水さんの「秀治と親友」という言葉が蘇ってきた。

 腹立たしい。
 清水さんのいう「親友」は理都だと考えるのが妥当だ。
 それにしても腑に落ちない。
 
 いつなんだろう。
 秀治と理都が出会って、どうにかなったのは。
 
 清水さんが引き合わせたというのだから、店長代理を始めてからだとしか考えられない。
 紗也たちとはグループでつるむけど、全員の予定が合わなければ、個別で出掛けることもある。特に理都はアトウッド商品を使ってくれるので、一階の店舗で待ち合わせることもある。清水さんが私の友達だと把握してもおかしくない。
 ビンゴ。
 清水さんが来てからだ。秀治と音信不通になったのは。
 結局、秀治とはそのまま自然消滅した。
 数えてみれば、秀治からの連絡が途絶えて半年ほどが経つ。記憶を探り、半年前の理都に彼氏が居たかを考える。
 が、すぐに考えるのを止めた。
 彼氏が居たとしても有り得る・・・・ことだから。

 学生時代から、理都が友人回りの異性に興味を示すことはあった。
 実際に、私が別れたばかりの男にちょっかいを出したこともある。
 あの時は「えー。そんな理由つけて詩乃を傷つけたなんて許せなぁい。私に任せて!」と意気揚々と手を出した。
 もちろん心中は複雑だったけど、元彼はもはや赤の他人。私に止める権利はなかった。
 関わらないように、目と耳を閉ざすのに一生懸命だった。
 私は、考えたくなかった。
 あの時も、今だってそうだ。
 学生時代の元彼も、秀治も、私と理都を抱き比べたとしたら──何も知りたくない。

「ぅぐっ」

 気持ち悪さに咽いでしまう。
 考えるだけで胃の底から込み上げるものがある。

 泡立つ歯磨き粉とともに怒りと悲しみを吐き出した。シンクに顔を突っ込むようにして、手探りで蛇口を捻る。白い吐瀉物が薄い水面に散らされていく姿に、少しだけ救われる。
 汚れを早く洗い流したくて、何度か口をすすいだ。

 理都は、付き合っている間は手を出さないはず。
 どこまでも自由なようで、理都にも矜持がある。
 信じたい。
 理都も秀治も、彼らに対する私の想いも。

 清水さんに翻弄されるのだけは我慢ならない。
 だって、あんなのただの清水さんの意地悪なんだから。
 震える手を叱咤して、キュッと蛇口を閉めた。

「詩乃さん? 大丈夫?」

 背後から掛けられたた声にビクッとした。咄嗟に首を縦に振り、口を拭いながら息を整える。

「早いね」
「え? あぁ、これも職業病かな」

 濡れた髪を乱雑に拭く逸登の穏やかな風情に、無性に泣きたくなった。
 強くならなきゃ。
 すべては私の予想で妄想だ。
 誤魔化すように逸登君の腕を取った。両腕を絡みつかせ、一歩先を歩いてリビングに戻る。

「ねぇ、逸登君。お願いがあるの」
「お願い?」

 逸登君の声が少しだけ上擦ったように聞こえた。
 強引な態度に驚かせてしまっているのかもしれない。腕を取ったまま見上げると、おのずと上目遣いになる。
 ほんの少し勇気を出した。
 理都のようにあざとく、清水さんように悪趣味で。

「私にもできる筋トレ教えて! 強くて綺麗になれるやつ!」

 意外な頼みだったのか、逸登君は目をしばたかせた。

***

「猫みたい」

 揺り起こされ、前日の化粧で開きづらい目を注意深く開いていく。しゃがみ込んだ逸登君が優しく見下ろしているのがぼんやりと見えた。

「ね、こ?」
「そんな狭いとこで丸まって寝るなんて、猫みたいで可愛い」

 聞き慣れない単語と温かい声色に驚いて、勢いよく目を見開いてしまった。上下の睫毛をくっつけていたマスカラがばりっと剥がれる感覚がした。

 逸登君は勤務日で、早朝に起こされたけど目覚めは良かった。
 二人掛けの決して大きくはないソファの上、布団より狭い空間は意外にも寝心地が良かった。
 ぐっすり眠った。
 筋トレよりもと勧められたストレッチ運動と、アルコールの効果もあったと思う。
 もしくは、不愉快な山鳩に起こされなかったからかもしれない。
 とにかく逸登君に起こされるまでぐっすり眠れたのは貴重だった。

 私が覚醒するのを見届けた逸登君は、揉み上げを掻くことなくコーヒーを淹れにキッチンに立った。朝食代わりにプリンを食べ、今度は咽ること無く歯磨きを終えた。それから、トイレを借りてストッキングを履いた。

 官舎を出て駅に向かう途中、冷たい空気に晒されながらも朝の光が気持ちが良かった。
 もしも昨晩一人で自宅に戻っていたらと考えるとゾッとする。
 電車の遅れも清水さんに出会ったことも悪い偶然だったけれど、悪いだけの出来事ではなかった。

「ごめんね、送れなくて」
「全然。本当に助かっちゃった。ありがとうございました」

 駅の改札前で、深々と頭を下げる。

「それじゃ、ここで」

 出勤前に引き留めては悪い。
 最後の挨拶は短く切り上げて、忙しい人の群れに紛れ込んだ。
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