カナリアを食べた猫

端本 やこ

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第1章 猫にまたたび

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 マフラーを取りながら膝をついて、何気なく部屋の中を観察する。
 在るべきところに在るべき物が収まっている。築年数を感じさせないのは整理整頓の賜物だろう。

「片付いてるね」
「消防官の部屋なんてこんなもんだよ」

 全寮制の消防学校で家事全般を叩き込まれ、就職後も署での食事は当番制で準備することが多いらしい。
 他にも、24時間拘束の16時間勤務なこと、勤務時間内に仮眠時間があること、3日に2日休みのルーティンでシフトが組まれることも聞いた。
 私たち一般会社員の勤務条件とはかけ離れた生活をしている。

「どうして消防士になったの?」

 机に積まれた問題集を揃え、脇に置いてあった専門書に重ねる逸登君に問いかける。
 社会に出ても試験は付いて回るもの。休みが多くても、勉強に費やす時間が多いとしたらちょっと気の毒かも。

「そりゃぁ、人の為に働きたいって思ったから」
「そっか」
「ってのは嘘で」
「うそ?」

 納得したところを覆されて頭に疑問符が浮かぶ。

「詩乃さんって表情豊かだよね」
「えっ」
「ほらまた」

 逸登君が目を細めて喉仏を振わせている。
 無表情で感じが悪いと言われ続けてきた私は驚きを隠せない。

「小さい頃からの夢だったんだ。はしご車運転したいって」
「はしごに昇りたいんじゃなくて?」
「ミニカー集めててさ。一番のお気に入りがはしご車だった」

 よっと身体を捻った逸登君は、背後のカラーボックスから手のひらサイズのおもちゃを手に取った。
 何となく手のひらを差し出すと、逸登少年の夢を乗せたはしご車が乗せられた。
 小さな傷も多く赤い塗装が剥げているところもあって、年代を感じさせるけれど、精巧な作りではしごの部分が伸縮して回転もする。

「夢叶えたんだね」
「んー、微妙」
「特別な資格が要るとか?」

 積まれた参考書をちらりとみやると、逸登君が鼻から柔らかい息を漏らした。

「と、思うでしょ。大型免許さえあれば詩乃さんだって運転できるからね」
「そうなの?」

 運転だけならねと念を押す口調から、特別車両が好きな少年心と、仕事への責任感のようなものが伺えた。

 ──現場に臨む度に無力さを感じるよ。

 少し寂しそうに語られる逸登君の想いは本心だと思う。
 だけど、それだけじゃない。
 辛さを感じながらも続ける意味を見出している、そんな覚悟が声色に現れているようにも感じた。

 羨ましさと恥ずかしさ、色々な感情が湧き上がる。
 私が仕事を続ける理由なんて、生活のため、収入のためぐらいのもの。

 先の飲み会で、くまちゃんにメディカルアロマについて掘り下げられた時は正直焦った。
 入社後、初級アロマセラピストの資格を取得したのは、社内規定に従っただけ。社員も私設協会の会員に組み込まれる仕組みだ。くまちゃんを前に、そこはかとない商売気質が恥ずかしく思った。
 結局、私はアトウッドのネームバリューに吸い寄せられたんだ。人気とお洒落な雰囲気に、ある種の優越感を抱いているのは否定しきれない。
 逸登君のように夢を追ったわけじゃなければ、人助けになっているわけでもない。

「あーぁ、なんかダメだな私って。仕事は嫌じゃないんだけど」
「俺らの業種が特殊なだけだと思うよ」
「なんかさ。やりがいとか楽しさがあるかって言われると微妙なんだよね」

 人さし指ではしご車を押し出すと、机上を真っ直ぐ滑っていく。
 少しもブレず、真直ぐに。

「ルーティンワークって慣れるし飽きもくるもんでしょ」
「刺激不足を嘆くより向上心! だとは思いつつ、、、ね」

 逸登君にたどり着く前に、はしご車は減速する。
 道半ば、とうとうゴールに届かず止まってしまった。

 眉を下げる逸登君がはしご車に救いの手を伸ばした時、部屋の前で鈍い音が響いた。会話が途切れ、私も逸登君も反射的にドアを凝視する。
 小声とヒトの気配は私にも分かる。

「ちょっとごめん」

 心当たりがあるのだろうか、逸登君が溜息を零してゆっくりと立ち上がった。
 玄関に忍び寄って、私に向かって人差し指を唇に当てて見せる。
 息遣いを漏らさないように両手で口元を覆う。

「ぁだっ!」

 私の所作を確認した逸登君が勢いよく扉を開けるのと、唸り声が響くのはほぼ同時だった。

「ハァ、、、ったく、お前ら」

 呆れる逸登君を押し退けて、外から数人が顔を覗かせた。その中の一人が額を擦っている。逸登君が容赦なくその頭を叩いた。

「どうも!」
「こんばんは」

 コンビニで出会った後輩とその他数人が口々に挨拶を述べる。
 悪戯を成功させた子どもみたいに目を輝かせている彼らが微笑ましい。
 挨拶ならさっき済ませたけどなと思いつつ腰を上げる。

「ちょ、やめっ!」

 ろと言い終わる前に羽交い絞めにされる逸登君は無視して頭を下げた。

「事故で電車が止まっちゃって、お邪魔させていただいてます」
「それは大変!」
「ゆっくりしていってください!」
「いや、お前らの部屋じゃねぇし」

 ハキハキとした口調には多少慣れた。
 やっぱり楽しい人たちだ。
 自然にくすくす笑いが漏れると、「これどうぞ」とコンビニのビニル袋を押し付けられた。

「中井マジでいいヤツだから!」
「アレデカイし」
「署内イチオシ物件です!」
「性欲オバケだし」
「いっくん先輩ホント優しいですから!」
「ドエロ男爵だし」
「お前ら何しに来たんだ! っつか、何言ってくれてんの!?」

 あぁそうかと納得した。
 野次馬が集まるのは、珍しいからだ。
 特に女性関係は堅実だと証明された。
 それに、同僚から愛されていることも。
 他人事ながら誇らしい。

 同性に好かれる人って絶対にいい人。
 そんな逸登君についてきた私の選択も褒められている気分だ。

 焦る逸登君とやんややんやと囃し立てる同僚のみなさんを見ているだけで楽しい。
 釣られて笑ってしまうことも、やけに見られていることも頓着しなかった。

「逸登君ドエロいんだ」
「詩乃さん!?」

 ハラハラする逸登君を黙殺して、受取ったビニル袋を掲げてお礼を言う。
 声を上げて笑う野次馬たちは、それ以上介入すること無く扉を閉じた。
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