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お仕事体験編
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橙子と美穂は二階のVIP席からダンスフロアを見下ろしていた。
階段でしか上がれない先にあるガラス張りの特別シートは完全個室だ。ゴージャスなソファが置かれ、防音処置が施されている。といっても完璧な防音ではなく、重低音が振動と共に響いてくる。
正直なところ、美穂はこんなにも簡単に対象者に近づけるとは思っていなかった。呆気に取られてしまうぐらいとんとん拍子の出来事だった。
迷わず件の集団に近づいた橙子に驚いたが、そのまま躊躇うことなく声を掛けたのにはもっと驚いた。
「ねー、ちょっとそこ上がらせて?」
ガラの悪い連中が一斉に目を向けた。彼らの小馬鹿にした態度にも、橙子は一歩も怯まなかった。
「友だちとはぐれちゃってー。高いとこから見たいなぁとか思ったんだけど」
片手でスマホをチラチラと振って、連絡がつかないとアピールするのも自然だった。
「あれー? さっきのお姉さんじゃん」
「お友だち、もう帰っちゃったんじゃない?」
「そんなはずないと思うんだけどなー」
話を合わせる橙子は、ダンスフロアに視線を向けつつスーツ男に背中をむけ──そのまま標的の足にコツンと躓いた。
「ぁっ」
橙子が仕掛けた最初の賭けだった。反応を見極めるつもりで、敢えて先に若者集団に声をかけ、スーツ男には控えめに様子を窺うに留めていた。
「平気?」
スーツ男が橙子を支えた。支えるだけにしては粘着質に腰を固められ、釣れてしまった勝利に橙子は自然に微笑んだ。満面の笑みを向ければ、眼鏡超しに日野たちに伝わるはずだ。
「ありがと」
「良かったら上に案内しよっか。捜しやすいと思うけど、どう?」
「マジ⁉ やったー! 行く行く!」
橙子はわざとらしくも素直に喜んでみせる。馬鹿な女だと思ってくれるぐらいで丁度いい。美穂に腕を組んで「ラッキーだね」とお道化て、ホイホイついて行く体を演出した。
「こっからでもダメだなぁ。美穂ちゃん、見つけた?」
「私もわかんないです」
「美穂ちゃんって言うんだ」
どうぞとシャンパンを手渡したのは若者集団の内の一人だ。橙子にはスーツの男が同じようにグラスを差し出し、座ろうかと促した。カップル分けされたことで美穂から引き離されてしまい一抹の不安がある。美穂を信じるしかない。
未だガラス窓に張り付いている背中に緊張が見える。橙子はフロアの徹たちが美穂を目視してくれることを祈った。
「カンパーイ」
スーツの経営者はジンと名乗った。本名でない可能性は高いが、従業員やギャング構成員も「ジンさん」と呼んでいるので橙子も倣う。
「ジンさん支配人とかすごーい!」
橙子にとって、不適切な接続語や間延びした話し方を用いるのは苦労する作業だ。
(オバサンが痛いよねぇ)
内心で自嘲を繰り返しながらも、少しでも若く見えるように取り繕う。間接照明であるのはありがたかった。
──まだだ。物証を引き出せ。
上司の「上出来だ」という言葉に美穂が安堵したのは一瞬だった。続く指示に唇を噛み、確固たる証拠になる薬をどう手に入れるか脳をフル回転させる。
VIP席に来れたのは橙子の働きで得られた成果であり、経験の乏しい美穂が即興的に狙い打ちするには技量不足だ。どう頭を絞っても有効な手段ひとつ思いつかない。
「美穂ちゃんどうかした?」
ギャング構成員の男が右肩に腕を回し、美穂の短い髪を払うように左耳に掛けた。
美穂の身体が硬直する。
反射的な反応であり、落ち着いて対応しなければと肝に銘じた美穂本人にも防ぎきれなかった。マズイと思ったのと同時に男の声色が険を帯びる。
「おい。なんだこれ」
美穂が左耳を庇うが容赦なく引っ張られてしまった。むりやり超小型イヤホンを奪われそうになる。一拍判断が遅れてしまった上に、男性の力に競り負けてしまった。
「どうした?」
「ジンさん。この女、こんな物を」
機材の詰まった狭い車内で日野たちは低く唸った。
簡易本部が慌ただしく美穂のイヤホンのスイッチを切った。追って、現状待機の指示を内部捜査員に告げる。徹の舌打ちと、俊樹の尋常ならざる低い「了解」の声に現場の捜査員にも緊張が走る。美穂のマイクがバレてしまったら一巻の終わりだが、VIPルームの音声を捨てるのはより危険だ。
「橙子ちゃん動くなよ」
美穂のアドリブに賭ける日野の祈りは虚しく、橙子の映像が動いた。
「ねぇ。ただの音量調整器機でしょ。何だってそんな乱暴すんのよ?」
「アンタも持ってんだろ。出せよ」
悪ガキと言えどもギャング構成員の威圧は恐怖を感じさせる。
橙子は美穂の腕を引いて自らを盾にした。次いで、髪を軽くまとめ上げてゆっくりと左右それぞれの耳を見せつけた。
「初めて遊びに来たのに怖がらせるとかないでしょ。返して」
橙子は一発殴られる覚悟で、目を逸らさないようにと自分を奮い立たせていた。怯むなと、何度も徹の声で脳内に再生させる。
ドアの向こうに徹本人が待機してくれている、何があっても必ず助けてくれると、そう信じるだけで橙子は気丈でいられる。
「ジンさん。補助機器の持ち込み不可なワケないよね」
橙子はあえて支配人であるジンに向かって片手を差し出す。
ジンは真直ぐ橙子を見据え、たっぷり3秒時間をかけて逡巡した。
ジンの真顔を正面から捉えた映像は固い証拠になる。簡易本部内で慌ただしく照合作業等が始められれるが、橙子に知る由はなかった。
階段でしか上がれない先にあるガラス張りの特別シートは完全個室だ。ゴージャスなソファが置かれ、防音処置が施されている。といっても完璧な防音ではなく、重低音が振動と共に響いてくる。
正直なところ、美穂はこんなにも簡単に対象者に近づけるとは思っていなかった。呆気に取られてしまうぐらいとんとん拍子の出来事だった。
迷わず件の集団に近づいた橙子に驚いたが、そのまま躊躇うことなく声を掛けたのにはもっと驚いた。
「ねー、ちょっとそこ上がらせて?」
ガラの悪い連中が一斉に目を向けた。彼らの小馬鹿にした態度にも、橙子は一歩も怯まなかった。
「友だちとはぐれちゃってー。高いとこから見たいなぁとか思ったんだけど」
片手でスマホをチラチラと振って、連絡がつかないとアピールするのも自然だった。
「あれー? さっきのお姉さんじゃん」
「お友だち、もう帰っちゃったんじゃない?」
「そんなはずないと思うんだけどなー」
話を合わせる橙子は、ダンスフロアに視線を向けつつスーツ男に背中をむけ──そのまま標的の足にコツンと躓いた。
「ぁっ」
橙子が仕掛けた最初の賭けだった。反応を見極めるつもりで、敢えて先に若者集団に声をかけ、スーツ男には控えめに様子を窺うに留めていた。
「平気?」
スーツ男が橙子を支えた。支えるだけにしては粘着質に腰を固められ、釣れてしまった勝利に橙子は自然に微笑んだ。満面の笑みを向ければ、眼鏡超しに日野たちに伝わるはずだ。
「ありがと」
「良かったら上に案内しよっか。捜しやすいと思うけど、どう?」
「マジ⁉ やったー! 行く行く!」
橙子はわざとらしくも素直に喜んでみせる。馬鹿な女だと思ってくれるぐらいで丁度いい。美穂に腕を組んで「ラッキーだね」とお道化て、ホイホイついて行く体を演出した。
「こっからでもダメだなぁ。美穂ちゃん、見つけた?」
「私もわかんないです」
「美穂ちゃんって言うんだ」
どうぞとシャンパンを手渡したのは若者集団の内の一人だ。橙子にはスーツの男が同じようにグラスを差し出し、座ろうかと促した。カップル分けされたことで美穂から引き離されてしまい一抹の不安がある。美穂を信じるしかない。
未だガラス窓に張り付いている背中に緊張が見える。橙子はフロアの徹たちが美穂を目視してくれることを祈った。
「カンパーイ」
スーツの経営者はジンと名乗った。本名でない可能性は高いが、従業員やギャング構成員も「ジンさん」と呼んでいるので橙子も倣う。
「ジンさん支配人とかすごーい!」
橙子にとって、不適切な接続語や間延びした話し方を用いるのは苦労する作業だ。
(オバサンが痛いよねぇ)
内心で自嘲を繰り返しながらも、少しでも若く見えるように取り繕う。間接照明であるのはありがたかった。
──まだだ。物証を引き出せ。
上司の「上出来だ」という言葉に美穂が安堵したのは一瞬だった。続く指示に唇を噛み、確固たる証拠になる薬をどう手に入れるか脳をフル回転させる。
VIP席に来れたのは橙子の働きで得られた成果であり、経験の乏しい美穂が即興的に狙い打ちするには技量不足だ。どう頭を絞っても有効な手段ひとつ思いつかない。
「美穂ちゃんどうかした?」
ギャング構成員の男が右肩に腕を回し、美穂の短い髪を払うように左耳に掛けた。
美穂の身体が硬直する。
反射的な反応であり、落ち着いて対応しなければと肝に銘じた美穂本人にも防ぎきれなかった。マズイと思ったのと同時に男の声色が険を帯びる。
「おい。なんだこれ」
美穂が左耳を庇うが容赦なく引っ張られてしまった。むりやり超小型イヤホンを奪われそうになる。一拍判断が遅れてしまった上に、男性の力に競り負けてしまった。
「どうした?」
「ジンさん。この女、こんな物を」
機材の詰まった狭い車内で日野たちは低く唸った。
簡易本部が慌ただしく美穂のイヤホンのスイッチを切った。追って、現状待機の指示を内部捜査員に告げる。徹の舌打ちと、俊樹の尋常ならざる低い「了解」の声に現場の捜査員にも緊張が走る。美穂のマイクがバレてしまったら一巻の終わりだが、VIPルームの音声を捨てるのはより危険だ。
「橙子ちゃん動くなよ」
美穂のアドリブに賭ける日野の祈りは虚しく、橙子の映像が動いた。
「ねぇ。ただの音量調整器機でしょ。何だってそんな乱暴すんのよ?」
「アンタも持ってんだろ。出せよ」
悪ガキと言えどもギャング構成員の威圧は恐怖を感じさせる。
橙子は美穂の腕を引いて自らを盾にした。次いで、髪を軽くまとめ上げてゆっくりと左右それぞれの耳を見せつけた。
「初めて遊びに来たのに怖がらせるとかないでしょ。返して」
橙子は一発殴られる覚悟で、目を逸らさないようにと自分を奮い立たせていた。怯むなと、何度も徹の声で脳内に再生させる。
ドアの向こうに徹本人が待機してくれている、何があっても必ず助けてくれると、そう信じるだけで橙子は気丈でいられる。
「ジンさん。補助機器の持ち込み不可なワケないよね」
橙子はあえて支配人であるジンに向かって片手を差し出す。
ジンは真直ぐ橙子を見据え、たっぷり3秒時間をかけて逡巡した。
ジンの真顔を正面から捉えた映像は固い証拠になる。簡易本部内で慌ただしく照合作業等が始められれるが、橙子に知る由はなかった。
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