Tの事件簿

端本 やこ

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お仕事体験編

09

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 徹の物理的な温もりが離れると同時に、橙子は足を踏み出した。
 決心が鈍る前に、思考が先行する前に、動き出さなければ期待されている成果を生み出せないような気がした。
 唇に残る感覚と眼鏡だけを頼りにトライするしかない。何かあれば必ず助けてくれる。事が動きさえすれば、後は徹たちに任せればいい。運に身を任せるのみだ。
 握りしめた眼鏡を顔に戻し、徹の姿を求めるようなことはしなかった。
 
 群衆の間を縫うようにしてDJブースを目指す。歩きながらスマホを取り出して、コミュニケーションアプリを起動させた。こんな時こそ亜紀の勢いが必要だ。
(あぁ、そっか。ダメじゃん)
 徹は問題が無いと言った。しかしはっきりとは答えなかった。亜紀を同行させる指示もしなかった。
 亜紀は亜紀で仕事をしたと考えるのが妥当で、すでに引き上げている可能性が高い。
 橙子は下唇の端を軽く噛みしめてホーム画面に切替えた。

「橙子さん、待って!」

 不意に腕を掴まれて、勢いのままに振り向いた。
 橙子を追ってきたのは美穂だった。

「私も行きます」
「ここからはひとりで大丈夫~」

 亜紀ならば言動に予測が立つ部分もあるが、不測のスキンシップに対応しきれなかった美穂を伴って立ち回れる自信はない。単独行動でない心強さはあっても、独りのほうが動きやすいこともある。

「仕事です」
「なおさらよ。自己犠牲を仕事にしたって続かない」

 橙子は躊躇ないなく言い放った。
 部下でもない美穂に投げつけるには辛辣である。それでも言わずにいられなかった。美穂に身を張った罠を仕掛けさせたくなければ、徹や俊樹にそれを指示させるような真似もさせたくない。
 たとえこれが現実と呼ばれるもので、警察官が身の置く世界だとしても、橙子の手が届く範囲ならば全力で否定する。

「私は今日、偶然ここに遊びに来ているだけ」
「何を言ってるのですか」
「偶然こんな眼鏡をかけて、偶然友達とはぐれた。だから代わりの遊び相手を探すの」
「……久我島さんが居てもですか」
「ふふっ。彼は後で持ち帰るの」

 じゃぁねと軽く美穂をあしらって、すれ違おうとした。
 
「待って。行きます。一緒に行かせてください」

 美穂の指が肩に喰い込む痛覚が異様に鋭い。橙子は顔を顰めて足を止めた。美穂にわかってもいいぐらい大げさに溜息をつく。

「美穂ちゃん、例の人に声を掛けられる?」

 改めて美穂に向き直った橙子から、先の調子の良さは消え失せていた。

「えっ。そ、それは」
「職質じゃなくてナンパ。出来る?」
「出来ません。けどっ、仕事も遊びも勉強したい」

 それじゃダメですかと問われた橙子は、美穂の瞳に真直ぐな気質を見てしまった。
 愚直な若さは危険だ。しかし武器でもある。鍛えれば鍛えるほど鋭利で強固な獲物になる。本人の資質と環境によって大器となるだろう。
 職種に関係ない、という思いが橙子の判断を鈍らせる。

「真面目ねぇ。ただのOLに教えられることなんてあるわけないじゃん」

 私の役目ではないと橙子が笑い出す。険しい顔を保つのが馬鹿らしくなってしまった。

「けど、一つだけ確かなこと教えたげよっか」

 美穂は縋る思いで橙子の顔を凝視した。
 最後までついていくと決めたのだから、どんな厳しい言葉でも受け止める。

「私の知ってる刑事さんって、普段は相当ユルくて適当よぉ」
「へっ」
「あははは! さ、行こっか」

 橙子は脱力した美穂の隣に並んだ。同伴を受け入れて、エスコートするように背中を押した。

「美穂ちゃん。これから言うことだけは守って欲しい」

 とにかく橙子のアドリブに合わせること。本部や徹からの指揮を無理に伝える必要はないということ。その2点が橙子から美穂への約束でありお願いでもあった。

「わかりました」

 美穂に異論はなかった。橙子をフォローするのが役目であり、そもそもターゲットの目の前で指示を伝達できるはずがない。
 それに、美穂は志願して橙子の荷物になった自覚がある。徹への私情を差し挟む余裕があったなら、逆ナンぐらいできるというものだ。
 潜入捜査の成果よりも橙子を無事に恋人の元へ帰すのが最優先事項だ。
 任務遂行を心に誓う美穂は警察官そのものであった。

***

 徹は心配を通り越し、息苦しくてたまらない。
 本部からの指示や同僚の応答は耳に届けど、橙子からの映像が見られないのが歯痒い。橙子の置かれる状況を己の五感で把握できず落ち着かない。

 直接、橙子に指示はしなかった。
 できなかった。

 「頼む」とも「行ってこい」とも言えるわけはなかった。
 橙子を餌にするぐらいなら、やらなくていい。犯罪も犯罪者も野放しにしてしまえ。そう思いながら、徹は橙子の背中を見送った。警察官としての自分がなんとか体裁を保った。脳の冷静な部分が、橙子に伸ばしかけた手を押し止めた。
 勘のいい橙子は自ら役に立とうと一瞬で腹を据えた。実に彼女らしいと思う。
 必ず助ける。無理はするな。
 伝えられるのはそれだけだったが、陳腐な約束を言葉にするのも惨めだった。橙子の心意気に寄りそうしかできない腑甲斐なさをひた隠すのに精一杯だった。
 唯一、徹に許されたのは、ありったけの愛情と懺悔を籠めた口づけだけだった。

「……行くしかないっすね、温泉」

 一般人が犯罪者に近づく覚悟と、愛する人を送り出す覚悟。橙子と徹それぞれの決断を目の当たりにした国枝の声は震えた。大先輩に掛ける気の利いた台詞など持ち合わせてはいない。
 どちらも恐怖と不安に支配されているだろうに、ふたりの決断は異様なまでに早かった。国枝では計り知れない、ふたりの間にあるもの。それはたぶん「信頼」というやつだ。ふたりを繋ぐのが愛情だけであったら、作戦は決行されずに終わっただろう。

 国枝には美穂を促すことしかできなかった。それすら咄嗟の判断だった。橙子をひとりで行かせてはいけないという思いがほとんどだったが、美穂の想い──公私両方に──にけじめをつけさせるべきだとも思った。
 イヤホンから聞こえる橙子と美穂の会話に耳を澄ませ、改めて徹を見る。いつもの渋面のようで、冷徹な目は獣のようだ。
 研ぎ澄まされた感覚に身の毛がよだつ。徹の集中力に切り刻まれてもおかしくない。
 徹の頭の中はすでに次への対処と周囲の動向を探っている。橙子に危険が及ぶ前にケリをつけることはもちろん、仮に彼女が失敗したときの想定もしているに違いない。

「おっつつー♪」

 国枝の緊張の糸をぶった切る陽気な振る舞いで俊樹が合流した。

「おまえがそんな顔すんなって」

 橙子はこういうヤツだからと、俊樹も彼女が歩いて行った方を眺めた。

「ジャックナイフと化したパイセンの御守は代わってやろう」

 国枝にはこれ以上になく心強いサポート役だが、今や代わって欲しいなどと微塵も思っていなかった。
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