Tの事件簿

端本 やこ

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お仕事体験編

08

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「はぐれちゃった」
「問題無い」

 橙子はあえて誰と名を告げなかった。小柄な亜紀のことで、ホールの何処かに紛れていようが、休憩がてら一杯飲んでいると知れずとも、徹が把握しているならば心配無用だ。

「さすがに遊び慣れてるな」
「さすがって何よ。超模範的な一般会社員捕まえて」
「入れ食いお見事」
「人のこと言えないクセに」
「ねぇよ。お前は引くレベル」
「そりゃ若くて可愛い子と一緒だもの」
「ご謙遜」

 国枝と美穂は特に会話も続かず、目の前のカップルが展開する会話を聞き流していた。

「……先に報酬交渉かな」

 橙子の声がわずかに強張った。
 テンポの良いやり取りのどこに察する機会があったのかと不思議に思う。同じ思いを抱いた国枝と美穂は思わず目を合わせた。
 
「連休の確約を要求するっ。連休無理なら1日だけでも!」

 美穂のマイクを通して、橙子が冗談混じりに捜査本部に掛け合う。

──ったく、敵わねぇな。久我島、出来高報酬だ。

 イヤホンの向こうの和やかな笑い声は異質だ。そして、簡単に契約を取り付けた展開もまた有り得ない。本当に怖いのは、徹ではなく橙子ではないかと国枝は頬を引き攣らせた。美穂に至ってはポカンと口を開けたままだ。

「成立」
「やった! ダメモト上等。言ってみるものね」
「ただし、出来高制」
「温泉のためなら本気出す!」
「……」
「嫌なの?」
「別にぃ」

 国枝には徹が渋る意味が分からない。温泉のひとつやふたつ連れて行ってやれよと、甲斐性皆無の先輩を詰りたいぐらいだ。

「どうせ『家で寝てたい。メンドクセェ』って思ってるんでしょ」
「奇跡の連休は有意義に過ごすべきだ」

 徹の回答に、国枝は「最低だ」と率直に思った。
 どんな難解事件も久我島がフラれない理由を見つけるのに比べたら簡単だと言われている。早期解決に向けたスローガンになっているぐらいだ。刑事部のスローガンどころか、もはや警視庁七不思議のひとつだ。

──成果挙げるが先!

 捕らぬ狸の皮算用とは正にこのことである。俊樹の冷静な突っ込みが届いた。
 国枝は苦笑しながら、橙子に作戦の説明にかかる。徹が美穂の両肩を掴んで場所を入れ替わることで、橙子に並んだ。国枝は口を閉ざず。同時に、押し渡されるような恰好になった美穂の驚きの中に微かに表れた喜びを見てしまった。
(あ~。そう言えばこの子だよな、前に飲み会で……)
 刑事部で一番の下っ端でも、他人の機微を察する刑事の自負がある。
 現状把握のために橙子を伺うが一向に気にした様子はない。徹も美穂も話していないのか。
 国枝はこれ以上になくやりづらさを感じていた。
 正直な感想が顔に出てしまったのか、徹の視線が刺さる。徹が目で美穂を指してから、流れ作業でカウンターテーブルに手をついて橙子を囲った。
 一気に距離を詰めたカップルを目の前に、一体何をどうフォローしろと言うのか。

──ステージ右手の一段高い場所。分かるか。

 同テーブルについていても、橙子の耳元で話す肉声は聞こえてこない、イヤホンを通して届く徹の声色は仕事中と変わらない。潜入要員なら誰しも身を引き締める場面のはずが、橙子だけは動ぜずゴキゲンにビールを傾ける。

──うん。あっ。あの子たち、確かさっき個別で。

 徹の襟元に着けられたマイクは橙子の声もはっきりと拾う。
 橙子が確認したのは、美穂とダンスフロアを一周する間に声を掛けてきた連中だ。眼鏡カメラの映像でギャング構成員だと判明していた。

──その悪ガキたちに、DJブース奥手から話しかけている男は見えるか。
──ホストっぽいスーツの人?
──それが経営者だ。

 徹が伝えたのは人物紹介のみで、警察が何を期待しているのかは話さない。
 今回、橙子の使命はできるだけたくさん人間の顔を映せというだけだった。橙子はただの一般人であり、護身術ひとつ持たない素人だ。単身で踏み込むには危険すぎる。すでに十分な働きを見せており、これ以上過度な期待は賭けられない。
 それでもなんとか! 警察関係者の総意だった。
 ギャング集団に場所を提供するクラブ経営陣を押さえるには、どうしても一歩踏み込んだ証拠が欲しい。施設内で麻薬売買が行われていたと突きつけたところで、知らぬ存ぜぬで押し通すのは目に見えている。子どもの後ろについている大人を引っ張りださなければならない。
 橙子に声を掛けたギャング構成員も、亜紀が接触したディーラーも、潜入要員では釣り上げることが出来なかった。撒き餌が奏功しなかったのだから、あとは橙子に賭けるしかなかった。

──ふーん。

 情報を反芻する橙子を、国枝と美穂は暗がりで目を細めて見守る。
 徹はよけいな情報も指示も付け足さない。
 現場の捜査員全員が息を飲んで、イヤホンも静かになっていた。

──いけてスーツ。
 
 橙子がぐいっとビールを飲み干し、そっと瓶をカウンターテーブルに置いた。
 点滅する照明の演出で、国枝と美穂には橙子の一連の流れがコマ送りのように映る。

──本命だ。

 橙子が眼鏡を外し、徹は襟元を手で覆った。
 その瞬間、奇跡的なタイミングで曲の盛り上がりに合わせて照明が照らされた。
 
(ぅっ、、、っわぁー)
 
 視線を交えたまま長く深い口づけを交わすふたりが照らされる。
 ゾクリとするほど色気の溢れる光景を極至近距離で見せつける徹の意図を感じ、一気に鳥肌が立つ。国枝と美穂は指一本動かせず、ただその姿を目に焼き付けるしかなかった。
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