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秩父の闇・優香
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秩父公園橋に寄り道してみた。
驚いたことにその下にも橋があった。
その橋は武之鼻橋と言い、秩父川瀬祭りの時に御輿を水洗いする川原へと続く橋だと言うことだ。
今から百三十一年前、吉田の椋神社に集まった暴徒が札所二十三番裏の小鹿坂峠を越えて今の秩父中心街を焼き討ちしたて言われている秩父事件。
その時渡ったのが下に見える橋のようだ。
それは秩父が抱える貧困の歴史だった。
明治十七年十一月一日。
生糸価格の暴落に端を発し、一斉蜂起した秩父事件。
それは高利貸しの横暴や政府への不満を募らせた結果だった。
秩父を語る上で、この事件は欠かせない。
貧困に喘いでもがき苦しみ、遂に爆発した人々。
舞台となったのは手作りロケット・龍勢で知られる吉田地方と、以前蜜柑北限地だった風布地方。
秩父地方は絹織物の産地だった。
生糸価格の下落はそのまま生活苦に繋がってしまったのだった。
秩父事件の首謀者の一人は欠席裁判で死刑が確定していたが逃走した。
まず武甲山に身を隠しで、その後に北海道に逃げて暮らしたと言う。
昨日訪ねた札所五番にもエピソードがある。
花火職人が機転をきかせて、大砲と見せ掛けて尺玉を打ち上げて暴徒達を逃がしたそうだ。
秩父にも暗い時代があったのだと感じた。
秩父事件に所縁の寺である音楽寺。
その手前にある秩父公園橋の近くでスーパーを見つけた。
「ねぇ隼。彼処でお昼にしない?」
その言葉を受けた隼は怪訝な顔をした。
「お昼は確か女将さんが用意してくれていたと思うけど……」
「そうなんだけど……彼処にはお茶とかが置いてあって、食事も出来るるはずなのよね。国道沿いにあるスーパーに良く行くのね。だから解るの」
「そう言えば、同じ名前だったね。」
「ねぇ物は試し……」
私は隼の手を引いて、そのスーパーへと向かった。
やはり其処にはお休みスペースがあって、無料の湯茶サービスもあった。
私は其処のテーブルの上に女将さんが用意してくれたオニギリを並べた。
「わあ、焼きオニギリ。しかも味噌だ」
「本当だ。こんなの初めてだ」
二人共食べる前から興奮気味だった。
それは包んであったのが竹の皮だったからだ。
「こんな場所があるなんて良く知っていたね」
「だって、隼の近くのスーパーは自転車を止め難いのよね」
「あっ、そう言えばバイクも止め難いんだよね」
何気に言う隼。
私は何故か引っ掛かった。
「えっ!? バイク止めたことあるの?」
「うん、学校の帰りにね。でもあのスタイルになってからはないかな」
「隼の場合はそれで済むけど、私は歩き以外寄らないな」
私は隼のマンションの前にあるスーパーの駐輪場を思い出していた。
駅前にある駐輪場のような前輪をロックする器具が等間隔に並べてあるんだ。
「どうしてあんなスタイルにしたのだろう?」
私はまだ納得出来ずにいた。
「無断駐輪を防ぐためだと思うよ。彼処って駅に結構近いからね」
「うん、それは解る。だって私も彼処に止めて電車でお出掛けしたことあるもの……あっ、勿論帰りに食材買って帰るけどね」
「実際問題、そう言つ人が多いのかな? だから変えたのかも知れないな」
確かにそれは言えてると思った。
「バイクはどうに止めるの?」
「使ったことないから解らないけど、確かチェーンがあった気がするな」
「あっ、そう言えば隅にあったね」
何故こんな話になったのか解らないけど、私達は暫く其処にいた。
次に訪れたのは十七番定林寺。
山門は階段の上にあった。
所作の後で梵鐘の前に立った。
西国三十三観音と阪東三十三観音と秩父三十四観音の合わせて百観音を模していて、県指定の文化財なのだと言う。
先に突いている人がいたので私達も並んでみた。
初めて突くその鐘は、秩父盆地に鳴り響いていた。
「おん、まか、きゃろにきゃ、そわか」
十一面観音様のご真言を唱えて裏の回廊に入ると、緑の紐があった。
その紐はご神仏と繋がっていると書いてあった。
私はその紐をきつく握り締めて、結夏さんの慰霊と隼人君の霊が賽の川原から救い出せることを心を込めて祈っていた。
「結夏……隼人……」
か細い声が聞こえた。
私は隼の隣にそっと寄り添った。
納経所は色々な貼り紙があって賑やかだった。
アニメの舞台になった札所だそうで、そのキャラクターのポスターなども並んでいた。
「去年の八月二十八日に十周年を記念したイベントがあったのですよ。かなり盛り上がっていました。でもその後も多くの方々が聖地巡礼に訪れてくれています」
と、納経場の人が言った。
「偶々ですが、明日秩父札所巡礼の旅番組が放映されるそうです。銘仙やホルモンなども紹介するそうです。よろしければ是非ご覧ください」
後でそう付け加えた。
私達は其処で小さなお遍路人形を戴いた。
近所のお年寄りが作ると言うその人形は、顔が風船葛の実だった。
何も描かれていない黒い中のハートの部分が何故か微笑んでいるように思えた。
次の十八番神門寺は国道140号沿いにある。
だから定林寺の前の道を暫く進み、丁字路を左に折れた。
取り合えず線路を目指す。
その向こうに国道があるからだ。
道に迷いながらも、何とか大通りに出た時はホッと胸を撫で下ろした。
其処の信号には中宮地と表記してあった。
自転車を止めて地図で確認してから国道を北に向かった。
やはり十八番神門寺は国道脇にあった。
元々は神社で、大きな榊が枝分かれをして空で結びあった姿が桜門に似ていたからこの名がついたそうだ。
「おん、あろりきゃ、そわか」
此処も聖観音様だった。
「ねえ、彼処に行ってみない?」
隼が本堂の裏にある回廊と言う文字を指差しながら言う。
(えっ!?)
私は一瞬凍り着いた。
長野と山梨にある善光寺の、あの真っ暗な回廊を思い出したからだった。
思わず身を縮めた私。でもそんな素振りを見せないように、隼の後を追った。
でも其処は明るいかったのだ。
薄暗い回廊の向こうが開いてあり、太陽光が差し込んでいたからだった。
私は考え過ぎていただけだったのだ。
その寺の門の隣は太子堂とでも言うのだろうか?
立派な宝仏がところ狭しと並んでいた。
其処は蓮華堂と言い、九体の仏像があった。
蓮華は泥沼でも美しい花を咲かせる仏の世界の象徴なのだそうだ。
私は一つ一つの仏像に手を合わせて、隼との恋が成就することを願った。
罰当たりだと思いながらも……
その中の一つに大日如来様があった。
私は光明真言とこの像が重なり思わず手を合わせた。
「大日如来様。大日如来様。唱え奉る光明真言は大日普門の万徳を二十三字に集めたり……己の空しゅうして一心に唱え奉ればみ仏の光明に照らされて三妄の霧自ずから晴れ浄心の玉明らかにして真如の月まどかならん」
私が急に御題目を唱え出したから、隼は目を白黒させていた。
「この後に、光明真言が三度続くの。それが正式な光明真言なのかも知れない」
「阿謨伽尾盧左曩摩訶母捺鉢納入鉢韈野吽」
「おんあぼきゃべいろうしゃのうまかぼだらまにはんどまじんばらはらばりたやうん」
私が言うと隼が唱えた。
「でも何故かしら? きっと何処かの宝物殿に大日如来様も安置してあったと思うの。でもこんなに心を揺さぶられたことなかった……」
私は暫く、蓮華堂から離れることが出来ずにいた。
私は先ほど見た武之鼻橋を渡ったと思われる暴徒達に思いを巡らせた。
この大日如来が秩父地方を明るく照らすことを願わずにいられなかった。
もう二度と、秩父に闇の時代が訪れることのないように……
最後に寄った十九番龍石寺。
そう……
其処でタイムアップだったのだ。
でも私達はまだその事実を知らないでいた。
ここはまるで岩の上にでも建たような仏閣だと感じた。
だからなのか庭はゴツゴツしていて歩きづらい。
実はこの寺は本当に巨大な一枚岩の上に建っていて、境内のところどころに岩盤が露出している。
だから歩き難かったのだ。
「この一枚の大きな岩盤によって俗世界の塵土を踏むことがない特別な霊場なのだそうだよ」
隼が知識をひけらかす。
私は改めて、この岩をの歩き具合を靴の底で確かめようと思った。
「おん、ばざら、だらま、きりく」
それは千手観音のご真言だった。
私達は一生懸命に祈りを捧げた。
この思いが優香さんと隼人君に届くようにと心を込めて。
札所十九番の道を東に行き丁字路を左に折れる。
そのまま真っ直ぐに行くと、橋があった。
その向こうにある橋に気になり、見逃してしまいそうな場所だった。
其処がアニメに登場して一躍有名になった旧秩父橋だった。
今は歩道専門になっているその橋を渡る。
此処は巡礼道にもなっていて、自転車の人は押して歩くそうだ。
アニメ人気も手伝って、橋の上には沢山の人が集まっていた。
「もう十年以上経つなんて信じられないわね」
私は感慨に浸っていた。
橋の上には花壇が置いてあり、季節の花々が咲いていた。
「去年イベントがあったそうですね」
知ったかぶりをしてみた。
「同じスタッフで幾つも作られていますので、そんな気はしませんね」
そう返ってきて苦笑いした。
私は次の作品など知らなかったのだ。
渡りきった反対側に休憩所があった。
でも其処でタイムアップだった。
『二十五番まで行くつもりだったのに』
そう言って残念がっていた隼だった。
私達は翌日も又レンタサイクルで回ることにして宿へ向かったのだった。
原因は解っていた。
私がスーパーへ誘わなければ……
蓮華堂の大日如来様に感銘を受けて、長い光明真言を唱えなければ……
でも隼は何も言わずに何時も気遣ってくれる。
それが心苦しかった。
私さえ此処に居なければ……
一緒に付いて来なければもっと効率良く回れたはずなのだ。
私が我が儘を言ったばかりに隼に多額の負担を掛けている。
それが隼にとって痛手なことは解っていた。
宿で又写経を始めた。
でもそれは般若心経を省くためではない。
『願わくばこの功徳を以て遍く一切に及ぼし、我らと衆生と皆共に仏道を成ぜん』
この回向文まで唱えることにしたのだ。
供養のために二人で出来る限りの礼を尽くすと決めたからだった。
予定通りにことが進まない訳は、まだ馴れない般若心経などの読み上げることにもあったのだった。
その上での、私の自己中的な行動は棚に上げることにしたのだ。
それで良いことにしたのだ。
何も五日間だけで回れなくても次の土日がある。
そう思えたからだった。
隼はお風呂へ出掛けて、部屋には私一人だった。
「若いに偉いわね」
突然声がして振り向くと女将さんがいた。
私は首を振った。
「もしかしたら彼、相澤隼さん?」
いきなりの言葉に戸惑いながらも頷いた。
宿の申し込みも、宿帳の名前も、中野優香他一人だった。
「彼、ずっと苦しんで来たのです。この前の御両親の記者会見で明らかになった事実も知らなくて……。代理母だとか、日本に居てはならない存在だとか脅されて身を隠すように生きて来たのです」
「偶々だけど記者会見は見たのね。だから察しは付くわ。貴女達のお互いを思い合う心もね」
女将さんはそう言って調理場に戻って行った。
(お互いを思い合う心か……)
それを言われると気恥ずかしい。
私はただ隼が好きだから一緒に此処にいるだけなのだ。
ママのお墓の前でキスされた時、探していたパズルのピースを見つけた気がした。
言い訳だと思ったけど、あの付き添い体験の日の出来事を語ってくれたから……
だから私は此処に居る。結夏さんと隼との間に出来た隼人君をこの子宮に迎える下準備のために……
私はその時、何故か札所三番にあった子持ち石を思い出した。
私はお腹を擦りながら、隼人君が子宮の中に来てくれることを願った。
輪廻があるとしたら……
あの日の朝の最後の供養で隼人君を賽の川原から救い出せたとしたら……
私の子宮に来て、私と隼の子供になってほしいのだ。
それが隼の心を救う一番良い方法だと私は信じている。
隼はきっと勘違いしている。
光明真言と地蔵菩薩真言で救えるのは、水子だけだと言うことを。
それでも私はそれで良いと思っている。
隼人君を賽の川原から救うことが、結夏さんの希望だと信じているからだ。
だから私は丁寧に写経する。
私のエゴと未来の夢のために……
驚いたことにその下にも橋があった。
その橋は武之鼻橋と言い、秩父川瀬祭りの時に御輿を水洗いする川原へと続く橋だと言うことだ。
今から百三十一年前、吉田の椋神社に集まった暴徒が札所二十三番裏の小鹿坂峠を越えて今の秩父中心街を焼き討ちしたて言われている秩父事件。
その時渡ったのが下に見える橋のようだ。
それは秩父が抱える貧困の歴史だった。
明治十七年十一月一日。
生糸価格の暴落に端を発し、一斉蜂起した秩父事件。
それは高利貸しの横暴や政府への不満を募らせた結果だった。
秩父を語る上で、この事件は欠かせない。
貧困に喘いでもがき苦しみ、遂に爆発した人々。
舞台となったのは手作りロケット・龍勢で知られる吉田地方と、以前蜜柑北限地だった風布地方。
秩父地方は絹織物の産地だった。
生糸価格の下落はそのまま生活苦に繋がってしまったのだった。
秩父事件の首謀者の一人は欠席裁判で死刑が確定していたが逃走した。
まず武甲山に身を隠しで、その後に北海道に逃げて暮らしたと言う。
昨日訪ねた札所五番にもエピソードがある。
花火職人が機転をきかせて、大砲と見せ掛けて尺玉を打ち上げて暴徒達を逃がしたそうだ。
秩父にも暗い時代があったのだと感じた。
秩父事件に所縁の寺である音楽寺。
その手前にある秩父公園橋の近くでスーパーを見つけた。
「ねぇ隼。彼処でお昼にしない?」
その言葉を受けた隼は怪訝な顔をした。
「お昼は確か女将さんが用意してくれていたと思うけど……」
「そうなんだけど……彼処にはお茶とかが置いてあって、食事も出来るるはずなのよね。国道沿いにあるスーパーに良く行くのね。だから解るの」
「そう言えば、同じ名前だったね。」
「ねぇ物は試し……」
私は隼の手を引いて、そのスーパーへと向かった。
やはり其処にはお休みスペースがあって、無料の湯茶サービスもあった。
私は其処のテーブルの上に女将さんが用意してくれたオニギリを並べた。
「わあ、焼きオニギリ。しかも味噌だ」
「本当だ。こんなの初めてだ」
二人共食べる前から興奮気味だった。
それは包んであったのが竹の皮だったからだ。
「こんな場所があるなんて良く知っていたね」
「だって、隼の近くのスーパーは自転車を止め難いのよね」
「あっ、そう言えばバイクも止め難いんだよね」
何気に言う隼。
私は何故か引っ掛かった。
「えっ!? バイク止めたことあるの?」
「うん、学校の帰りにね。でもあのスタイルになってからはないかな」
「隼の場合はそれで済むけど、私は歩き以外寄らないな」
私は隼のマンションの前にあるスーパーの駐輪場を思い出していた。
駅前にある駐輪場のような前輪をロックする器具が等間隔に並べてあるんだ。
「どうしてあんなスタイルにしたのだろう?」
私はまだ納得出来ずにいた。
「無断駐輪を防ぐためだと思うよ。彼処って駅に結構近いからね」
「うん、それは解る。だって私も彼処に止めて電車でお出掛けしたことあるもの……あっ、勿論帰りに食材買って帰るけどね」
「実際問題、そう言つ人が多いのかな? だから変えたのかも知れないな」
確かにそれは言えてると思った。
「バイクはどうに止めるの?」
「使ったことないから解らないけど、確かチェーンがあった気がするな」
「あっ、そう言えば隅にあったね」
何故こんな話になったのか解らないけど、私達は暫く其処にいた。
次に訪れたのは十七番定林寺。
山門は階段の上にあった。
所作の後で梵鐘の前に立った。
西国三十三観音と阪東三十三観音と秩父三十四観音の合わせて百観音を模していて、県指定の文化財なのだと言う。
先に突いている人がいたので私達も並んでみた。
初めて突くその鐘は、秩父盆地に鳴り響いていた。
「おん、まか、きゃろにきゃ、そわか」
十一面観音様のご真言を唱えて裏の回廊に入ると、緑の紐があった。
その紐はご神仏と繋がっていると書いてあった。
私はその紐をきつく握り締めて、結夏さんの慰霊と隼人君の霊が賽の川原から救い出せることを心を込めて祈っていた。
「結夏……隼人……」
か細い声が聞こえた。
私は隼の隣にそっと寄り添った。
納経所は色々な貼り紙があって賑やかだった。
アニメの舞台になった札所だそうで、そのキャラクターのポスターなども並んでいた。
「去年の八月二十八日に十周年を記念したイベントがあったのですよ。かなり盛り上がっていました。でもその後も多くの方々が聖地巡礼に訪れてくれています」
と、納経場の人が言った。
「偶々ですが、明日秩父札所巡礼の旅番組が放映されるそうです。銘仙やホルモンなども紹介するそうです。よろしければ是非ご覧ください」
後でそう付け加えた。
私達は其処で小さなお遍路人形を戴いた。
近所のお年寄りが作ると言うその人形は、顔が風船葛の実だった。
何も描かれていない黒い中のハートの部分が何故か微笑んでいるように思えた。
次の十八番神門寺は国道140号沿いにある。
だから定林寺の前の道を暫く進み、丁字路を左に折れた。
取り合えず線路を目指す。
その向こうに国道があるからだ。
道に迷いながらも、何とか大通りに出た時はホッと胸を撫で下ろした。
其処の信号には中宮地と表記してあった。
自転車を止めて地図で確認してから国道を北に向かった。
やはり十八番神門寺は国道脇にあった。
元々は神社で、大きな榊が枝分かれをして空で結びあった姿が桜門に似ていたからこの名がついたそうだ。
「おん、あろりきゃ、そわか」
此処も聖観音様だった。
「ねえ、彼処に行ってみない?」
隼が本堂の裏にある回廊と言う文字を指差しながら言う。
(えっ!?)
私は一瞬凍り着いた。
長野と山梨にある善光寺の、あの真っ暗な回廊を思い出したからだった。
思わず身を縮めた私。でもそんな素振りを見せないように、隼の後を追った。
でも其処は明るいかったのだ。
薄暗い回廊の向こうが開いてあり、太陽光が差し込んでいたからだった。
私は考え過ぎていただけだったのだ。
その寺の門の隣は太子堂とでも言うのだろうか?
立派な宝仏がところ狭しと並んでいた。
其処は蓮華堂と言い、九体の仏像があった。
蓮華は泥沼でも美しい花を咲かせる仏の世界の象徴なのだそうだ。
私は一つ一つの仏像に手を合わせて、隼との恋が成就することを願った。
罰当たりだと思いながらも……
その中の一つに大日如来様があった。
私は光明真言とこの像が重なり思わず手を合わせた。
「大日如来様。大日如来様。唱え奉る光明真言は大日普門の万徳を二十三字に集めたり……己の空しゅうして一心に唱え奉ればみ仏の光明に照らされて三妄の霧自ずから晴れ浄心の玉明らかにして真如の月まどかならん」
私が急に御題目を唱え出したから、隼は目を白黒させていた。
「この後に、光明真言が三度続くの。それが正式な光明真言なのかも知れない」
「阿謨伽尾盧左曩摩訶母捺鉢納入鉢韈野吽」
「おんあぼきゃべいろうしゃのうまかぼだらまにはんどまじんばらはらばりたやうん」
私が言うと隼が唱えた。
「でも何故かしら? きっと何処かの宝物殿に大日如来様も安置してあったと思うの。でもこんなに心を揺さぶられたことなかった……」
私は暫く、蓮華堂から離れることが出来ずにいた。
私は先ほど見た武之鼻橋を渡ったと思われる暴徒達に思いを巡らせた。
この大日如来が秩父地方を明るく照らすことを願わずにいられなかった。
もう二度と、秩父に闇の時代が訪れることのないように……
最後に寄った十九番龍石寺。
そう……
其処でタイムアップだったのだ。
でも私達はまだその事実を知らないでいた。
ここはまるで岩の上にでも建たような仏閣だと感じた。
だからなのか庭はゴツゴツしていて歩きづらい。
実はこの寺は本当に巨大な一枚岩の上に建っていて、境内のところどころに岩盤が露出している。
だから歩き難かったのだ。
「この一枚の大きな岩盤によって俗世界の塵土を踏むことがない特別な霊場なのだそうだよ」
隼が知識をひけらかす。
私は改めて、この岩をの歩き具合を靴の底で確かめようと思った。
「おん、ばざら、だらま、きりく」
それは千手観音のご真言だった。
私達は一生懸命に祈りを捧げた。
この思いが優香さんと隼人君に届くようにと心を込めて。
札所十九番の道を東に行き丁字路を左に折れる。
そのまま真っ直ぐに行くと、橋があった。
その向こうにある橋に気になり、見逃してしまいそうな場所だった。
其処がアニメに登場して一躍有名になった旧秩父橋だった。
今は歩道専門になっているその橋を渡る。
此処は巡礼道にもなっていて、自転車の人は押して歩くそうだ。
アニメ人気も手伝って、橋の上には沢山の人が集まっていた。
「もう十年以上経つなんて信じられないわね」
私は感慨に浸っていた。
橋の上には花壇が置いてあり、季節の花々が咲いていた。
「去年イベントがあったそうですね」
知ったかぶりをしてみた。
「同じスタッフで幾つも作られていますので、そんな気はしませんね」
そう返ってきて苦笑いした。
私は次の作品など知らなかったのだ。
渡りきった反対側に休憩所があった。
でも其処でタイムアップだった。
『二十五番まで行くつもりだったのに』
そう言って残念がっていた隼だった。
私達は翌日も又レンタサイクルで回ることにして宿へ向かったのだった。
原因は解っていた。
私がスーパーへ誘わなければ……
蓮華堂の大日如来様に感銘を受けて、長い光明真言を唱えなければ……
でも隼は何も言わずに何時も気遣ってくれる。
それが心苦しかった。
私さえ此処に居なければ……
一緒に付いて来なければもっと効率良く回れたはずなのだ。
私が我が儘を言ったばかりに隼に多額の負担を掛けている。
それが隼にとって痛手なことは解っていた。
宿で又写経を始めた。
でもそれは般若心経を省くためではない。
『願わくばこの功徳を以て遍く一切に及ぼし、我らと衆生と皆共に仏道を成ぜん』
この回向文まで唱えることにしたのだ。
供養のために二人で出来る限りの礼を尽くすと決めたからだった。
予定通りにことが進まない訳は、まだ馴れない般若心経などの読み上げることにもあったのだった。
その上での、私の自己中的な行動は棚に上げることにしたのだ。
それで良いことにしたのだ。
何も五日間だけで回れなくても次の土日がある。
そう思えたからだった。
隼はお風呂へ出掛けて、部屋には私一人だった。
「若いに偉いわね」
突然声がして振り向くと女将さんがいた。
私は首を振った。
「もしかしたら彼、相澤隼さん?」
いきなりの言葉に戸惑いながらも頷いた。
宿の申し込みも、宿帳の名前も、中野優香他一人だった。
「彼、ずっと苦しんで来たのです。この前の御両親の記者会見で明らかになった事実も知らなくて……。代理母だとか、日本に居てはならない存在だとか脅されて身を隠すように生きて来たのです」
「偶々だけど記者会見は見たのね。だから察しは付くわ。貴女達のお互いを思い合う心もね」
女将さんはそう言って調理場に戻って行った。
(お互いを思い合う心か……)
それを言われると気恥ずかしい。
私はただ隼が好きだから一緒に此処にいるだけなのだ。
ママのお墓の前でキスされた時、探していたパズルのピースを見つけた気がした。
言い訳だと思ったけど、あの付き添い体験の日の出来事を語ってくれたから……
だから私は此処に居る。結夏さんと隼との間に出来た隼人君をこの子宮に迎える下準備のために……
私はその時、何故か札所三番にあった子持ち石を思い出した。
私はお腹を擦りながら、隼人君が子宮の中に来てくれることを願った。
輪廻があるとしたら……
あの日の朝の最後の供養で隼人君を賽の川原から救い出せたとしたら……
私の子宮に来て、私と隼の子供になってほしいのだ。
それが隼の心を救う一番良い方法だと私は信じている。
隼はきっと勘違いしている。
光明真言と地蔵菩薩真言で救えるのは、水子だけだと言うことを。
それでも私はそれで良いと思っている。
隼人君を賽の川原から救うことが、結夏さんの希望だと信じているからだ。
だから私は丁寧に写経する。
私のエゴと未来の夢のために……
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カフェ『リベラ』を営むリアと、雑誌編集者の蓮。
二人は、特定の感情を抱くと性別が変わる「性別変容者」だった。
誰にも明かせない秘密を抱えながら生きてきた彼らは、互いの存在に出会い、初めて“同類”として心を通わせていく。
愛が深まるほど、境界は曖昧になる。
身体と心の輪郭は揺らぎ、「自分とは何者なのか」という問いが、静かに迫ってくる。
一方、過去に囚われ、自分自身を強く否定し続けてきたウェディングプランナー・景子と、まっすぐすぎるほど不器用な看護学生・ユウ。
彼らもまた、変容者として「変わること」と「失うこと」の狭間で、避けられない選択を迫られていく。
これは、誰の記憶にも残らないかもしれない“もう一人の自分”と共に生きながら、
それでも確かに残る愛を探し続けた人々の、静かなヒューマンドラマ。
※毎日20時に1章ずつ更新していく予定です。
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