荒魂遊戯抄 -本から現れた自称・魔族と、短命の宿命を覆す-

スイケイ

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こどもの声

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 朝霧がまだ土地の低い場所にまとわりついている頃、杳は朝の務めを終えて母屋へ戻った。

 二五〇年、一日として欠かすことのない佐伯の当主に課された習わし――人の身で「土地神」の役割を代行すること。それは、夜明けと共に土地を巡り、その中心にある祠でタタリと向き合う「鬼鎮め」と呼ばれる儀式。

 務めを終えた身体には、肉体的な疲労よりも精神の深いところに沈み込むような消耗が残っている。
「おかえり、杳」
 居間では、叔父の亘が淹れたばかりの薬草茶の湯気が柔らかく立ち上っていた。
「…ありがとう、叔父さん」
 湯呑みを受け取り、その温かさに息をつく。胃の腑に染みる熱が、タタリと向き合って冷え切った精神を人の世へと引き戻してくれるような気がした。

「おつかれさま」
 かかった声にふと目をやれば縁側に及己が座っている。
 同じように湯気の立つ湯呑みを手に、金の瞳を静かにこちらへ向けていた。
「ああ」
 軽く会釈をし、杳は丁度いいと及己に話しかけた。
 昨夜、あの本から及己が現れて以来、ずっと引っかかっていた問いだ。

 及己がこの地に留まる理由。
 自分が引き継がねばならない祖父のやり残しとは何なのか。
「及己、おまえが言ってた祖父さんとの約束って――」
 約束、という言葉に及己の目が細められる。音もなく立ち上がり、居間へ入ると杳に向き合うように座り直した。
「寛いで話すようなものじゃないからね」
 真っ直ぐに向けられる意思に自然と杳の背筋も伸びた。

「さて――どこから話そうか。あの本か、エンジュさんか、アザミコウ……どう話せばわかりやすいだろうな――」
 ――薊と杲。その名に、杳は息を呑んだ。
 ――母さんと父さんの名前だ。
「おれの両親も知ってるのか」
「槐さんと友人だったからね。ついでに言うと生まれたての杳も知ってる」
「……なんだって?」
 虚を突かれたように目を見開いた杳を見て、及己は話す順番を決めたようだ。
「「そもそも――」」
 及己が口を開いたその瞬間、静寂を破ったのは母屋の戸を叩きつけるような切迫した音と声だった。
 出鼻をくじかれた二人は、顔を見合わせて小さく肩をすくめた。及己は「仕方ないね」とでも言いたげな苦笑を浮かべ、杳もまたいつもの騒々しさを、諦め混じりに受け入れていた。

「佐伯様! 佐伯様はいらっしゃいますか!」
 亘が慌てて戸を開けると、三人の男たちが一人の若い男を抱えるようにして雪崩れ込んできた。抱えられた男は腹を押さえ、脂汗を浮かべ苦悶の声を漏らしている。
「タタリかもしれません! どうか見てやってください…!」
 悲痛な叫びには、単なる病への恐怖以上の色が滲んでいる。

 この土地の澱みは、人の心の隙間――弱さや怒り、後ろ暗い感情に引かれて入り込む性質を持つ。だからこそ、原因不明の不調に見舞われた時、人々はまず己や身内の行いを疑い恐れる。何かしてしまったのではないか、何を呼び込んでしまったのか、と。
 それはこの土地で生きるための知恵であり、負の意識と隣り合わせの処世術でもあった。

 杳は湯呑みを置くと、男のもとへ静かに歩み寄った。男の腹部をじっと見る。
 皮膚の下で昏く澱んだ冷気が黒い渦を巻いているのが視えた。負の感情に取り憑く特有の粘り気が視えた。
 間違いない。
「…大丈夫。すぐ楽になる」
 杳は鬼鎮めの儀式に使う『橋』と呼ばれる神具――古びた赤い布を巻きつけた、一見木刀のように見える三尺半ほどの細板を手に男の隣に膝をついた。
 先端を腹に当て意識を集中させ根源を探る。
 それは、悲しみと理不尽への嘆きが絡み合った、濡れた糸のようなものだった。
 杳はその一部に『橋』の先端を掛け、ゆっくりと引き上げ男の生命から引き剥がしていく。腹から離した『橋』の先端には黒い糸のようなものが絡まっていた。

 タタリを祓う――それは佐伯家にとって「対話」と同義である。
 その魂が何を嘆き、何を苦しんでいるのかを聞き、その心を解きほぐすのだ。
 剥がされ細板に絡まったタタリの形なき声が、『橋』を伝って杳の意識に流れ込んでくる。
 その嘆きの奥に、この男自身のものらしい、よく似た古い悲しみの澱が微かに見えた気がした。
 
「少し話してくる。叔父さんは後の処置をお願い。多分体力が落ちているだろうから滋養のあるものがいいと思う」
 そう言って席を立つ。
 無言で及己を見やると、視線に気づいたのか、及己は小さく頷いた。
「私は縁側にいるよ。怖がらせたら可哀想だからね」
「そうだな。その方がいい」
 杳はそう言い残し、人が集まっている離れから出て行った。

「―何度見ても不思議だ」
 一部始終を見ていた村人の一人がぽつりと呟いた。
「タタリは知っていても、話せるなんて……」
「あれが佐伯……あれが土地神代行者か……」
 相槌を打つ声には、畏怖と羨望が入り混じった、どこか恍惚とした色が浮かんでいる。その様子を、亘と及己は複雑な面持ちで見つめていた。

 それは、幼い、か細い声だった。

 生まれたかった。母に会いたかった。
 なぜ、自分だけが。
 
 なぜ母だけが、こんなにも苦しまなければならないのか。

「……そうか……」
 杳は母屋の屋根に登り、適当な場所に腰を下ろした。
 『橋』に絡め取ったタタリの残滓を膝に乗せる。ここは風通しがよく、土地を一望できる杳のお気に入りの場所だった。

 タタリの正体――核となっている感情の輪郭に触れた瞬間、杳はその芯にある底なしの冷たさと虚しさを感じた。その凍えるような穴を埋めるように自らの内側にある温かなものを静かに注ぎ込んでいく。
 タタリが抱える「負」や「死」といった澱みに、自らの「正」であり「生」を分け与え、その魂の欠けた部分を癒していく。それが佐伯の人間が行う浄化の本質だ。
 分けられるものにも限りがある。
 それ故に――佐伯の人間は短命になる。

 それは、死産した赤ん坊の魂だった。

 生まれたくても、生まれられなかった嘆きがこの土地の澱みと結びついてしまったらしい。悲しいことにこういった事は珍しくない。
 それでも――なぜ、この赤子はタタリを引き寄せるほど強烈な念に囚われてしまったのか。言葉になりきらない嘆きを杳はただ黙って聞き続けた。
 縁側には及己が座り、どこを見るともなく視線を漂わせながら、その無言の対話に耳を澄ませていた。
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