役立たずなヒーラーは幸せな夢を見る

なかあたま

文字の大きさ
1 / 28
救世主

1

しおりを挟む
 薄暗くなった屋敷の廊下を走りながら、いつも使っている魔導書を抱え直す。窓に叩きつけられる雨は、先程より激しさを増していた。灰色のキャンバスに漆黒の黒インクがドロリと落ち、混じり合ったような色をした空を横目に見る。
 先程まで太陽を見せていた空は昼にかけて徐々に崩れ始め、世界に大粒の雨を降らせた。庭に植えられている若い木々の葉が風に煽られ、ザワザワと音を立てる。それはまるで、森の奥深くに住まう魔女の囁きみたいだ。
 外が一瞬ひかり、僕は恐怖で目を伏せる。やがて、地鳴りのような音が心臓に響く。近くに雷が落ちたのだなと息を漏らした。
 廊下に敷かれた真紅の絨毯が、まるで酸化した血に似た色をしている。不気味さが足から侵食し、僕を食い尽くすような感覚に陥った。そんなはずはないと思っていても、どうも恐怖心は拭えない。けれど、足を止めることは許されなかった。
 玄関まで向かうと、そこにはもうすでに準備を終えている仲間たちが居た。出発しようとしている背中に、声をかける。

「遅れました」

 息切れで上擦った声は、大きく開けられたドアから入り込む雨音と風の音でかき消されそうになる。僕の声に気がついたギルドメンバーの一人が、こちらへ視線を投げた。冷たい眼差しに、喉の奥が狭まる。無理をして笑顔を作ると、彼が声を上げた。

「ヴァンサ、ティノが来たぞ」

 数名いる男の中を掻き分け、見慣れた巨体の男が僕へ近づく。彼────ヴァンサは怒りを滲ませた表情をしていた。ぐいと僕の髪を掴み、視線を合わせるため顔を上に向かせる。痛いと思わず声を上げそうになり、それを押し殺した。変わらぬ笑顔を貼り付けたまま、ヴァンサを見上げる。

「ごめんなさい、遅れてしまいました」
「号令が出たらすぐに集合しろと、いつも言っているだろう」
「手が離せない状況で……」

 突然の豪雨で干していた洗濯物を取り込まなければいけなくなり、そのせいで集合に遅れてしまった。と説明しても、目の前にいる血走った目で僕を睨みつけている男には通用しないだろう。
 「今度からは、きちんと時間通りに行動します」といつも通り肩を竦め、おどけて見せる。痛みに顔を歪め、彼に言われた言葉を悲しげに受け止めることは、許されない。それこそ彼の機嫌を損ねてしまう。僕が長年彼との付き合いで身につけた対処法だ。いつも笑顔で、いつも穏やかで。そうしなければ、いけない。
 ヴァンサはふんと鼻を鳴らした。やがて僕の肩を抱き、自身のそばへ近寄らせる。

「よし。では、麓に現れた魔物を倒しにいくぞ」

 ヴァンサの一言で周りにいた男たちが、拳を振り上げ声を荒げた。僕もそれにつられて腕を上げてみる。どうせ僕はお荷物なんだから置いていってくれたらいいのに、と思う反面、まだ利用価値があり、仕事に参加させてもらえるのだなと安心できる。
 この掛け声を上げられなくなったその時が、僕にとって死んだと同然の瞬間だ。

「ティノ、ぼんやりするな。さっさと乗れ」

 ヴァンサの鋭い声で我に返る。フードを頭まですっぽりと被った彼が、僕に手を差し伸べている。無骨でざらざらとした手を借り、馬に乗った。その後ろに、ヴァンサが乗る。背中に彼のぬるい体温が伝わり、ほんの少しだけ顔を顰めた。手に持っていた魔導書を、強く抱きしめる。
 手綱を握った彼が馬を見事に走らせた。土砂降りで泥濘んだ地面を蹴り、森を抜ける。見慣れたそこは薄暗さを孕んでいて、僕の恐怖心を煽る。
 降り注ぐ雨は一向に止む気配がない。雷は轟き、その度に目を強く瞑った。
 ────こんな視界が悪い中で、うまく戦えるのだろうか。
 タイミングの悪い依頼を受けたということもあり、ヴァンサは余計に機嫌を悪くしているのだろう。彼の心情を察し、ため息を漏らす。
 今日は沢山の負傷者が出るに違いない。厄介だ。僕はこれから訪れるであろう出来事に、逃げ出したくなった。

「ヴァンサ、あれだ!」

 劈くような声が響く。ギルドメンバーの誰かが、指を差した。その先には薙ぎ倒された木々がある。付近に魔物が出没した証だ。皆が馬を止め、降りる。「血痕はない。負傷者はいないみたいだな」。あたりを見渡した男が、まじまじと地面を眺める。水浸しになったそこには、誰かが襲われたであろう痕跡はない。よかったと胸を撫で下ろす。
 瞬間、何処かで悲鳴に似た声が聞こえた。それはこの暗澹とした曇天に響く雷雨に似ている。
 ギルドメンバーの皆が、身構えた。「魔豹だ。みんな、気をつけろ」。古くからこのギルドに所属しているアンドレイの声が響いた。そこでようやく、ヴァンサが馬から降りる。僕を見上げ「ここから一歩も動くな。いいな?」と鋭い声音で呟いた。こくりと頷くと、頬を撫でられる。そのまま踵を返し、ギルドメンバーを引き連れ、魔豹がどこにいるか探索を始めた。
 彼らの背中をぼんやりと眺め、頭上から降り注ぐ雨の強さを感じる。徐々に体が冷え、悪寒が走った。
 ────早く帰りたいなぁ。屋敷内へ放り込んだ洗濯物はきっと生乾きだ。今日のギルドメンバーが着ている服も、洗わなきゃいけない。明日は晴れるといいなぁ────。
 耽っている僕の背後で、鳴き声が聞こえる。ピシリと固まった背筋に、汗が滲んだ。おずおずと振り返ってみる。
 そこには魔豹がいた。大型ではないが、その爪の鋭さは恐怖に値する。大きく裂けた口から、人間に似た白い歯が見えている。身体中についている目玉がぎょろぎょろと不規則に蠢いた。
 僕は魔豹の姿を見て、固まる。いつ見ても慣れない容姿に、心臓が震えた。呼吸が乱れ、目の前が歪む。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる

結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。 冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。 憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。 誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。 鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

【完結】愛されたかった僕の人生

Kanade
BL
✯オメガバース 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。 今日も《夫》は帰らない。 《夫》には僕以外の『番』がいる。 ねぇ、どうしてなの? 一目惚れだって言ったじゃない。 愛してるって言ってくれたじゃないか。 ねぇ、僕はもう要らないの…? 独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。

やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。

毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。 そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。 彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。 「これでやっと安心して退場できる」 これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。 目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。 「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」 その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。 「あなた……Ωになっていますよ」 「へ?」 そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て―― オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。

執着

紅林
BL
聖緋帝国の華族、瀬川凛は引っ込み思案で特に目立つこともない平凡な伯爵家の三男坊。だが、彼の婚約者は違った。帝室の血を引く高貴な公爵家の生まれであり帝国陸軍の将校として目覚しい活躍をしている男だった。

処理中です...