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第四章 空白時代

第53話 奴隷屋から逃れて

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「……っ!?」
 それは静かな声だった。穏やかでとても優しい声音。
 立ち上がろうとしていたレーキが見上げると、優しい声の持ち主はこちらに手を差し出していた。レーキは思わずその手を取った。
「……アスネ スタス?」
 優しい声の持ち主はレーキを立ち上がらせて、声をかけてくる。意味は分からない。だが、その声音は変わらず暖かだった。
 優しい声の持ち主は、レーキの頭二つ半ほど背が高い。声とよく似合う柔和な表情を浮かべた顔は中性的だったが、声の低さからすれば男性であろうか。短く切りそろえた黒い髪と白い膚。往来を歩く人々の中でも飛び抜けた長身。
 何より特徴的なのは、頭の両側に戴いた不思議な色の角。山羊のそれのようにも見える捻れた大きな角は彼のこめかみから直接生えている。乳白色のそれは、昼間の太陽を受けて、時に青く、時に赤く、見る角度によって色を変えた。
「……あり、がとう……」
 思わず呟いたレーキに、長身の男は微笑みを返した。
「……ドミニ=イリス。イル エスト ウン 『ホスべス』」
 長身の男の連れらしい男が、レーキを見つめて何かをささやく。
 こちらの男の背丈はレーキとさほど変わらない。男の横には大きな黒い犬が寄り添っている。
 男の膚は褐色。髪の色は銀。眼鏡をかけていて、その奥のひとみは長身の男の角によく似た不思議な色だった。
 長身の男も眼鏡の男も、清潔で布をたっぷり使ったいかにも高価そうな服を着ている。
「……アア デンネ。エゴ テ ファチア アルクゥイッド デ イラ。シーモス」
 長身の男が、背後にいる眼鏡の男を振り返って何かを告げる。
「インテリゴ。……『トランスレイショー』」
 眼鏡の男は頷いて、レーキに向かって、手のひらを向けた。それは、レーキが天法を使うときの仕草とよく似ていた。
 くらり。一瞬、耳の奥で何かが歪む。その感覚はすぐに消えて、レーキの中で何かがすっきりと有るべき場所に収まった。
「……これで、僕の言葉が解る、かな? 『アーラ=ペンナ』さん」
「……あ、あ、は……い……?」
 長身の男は微笑みを浮かべながら、レーキの眸を覗き込む。

 

 長身の男の言葉だけではない。道を行く人々のつぶやきが、店の軒先に吊された看板の文字が、そして背後から、「ソイツを捕まえてくれ!」と叫ぶ男の声が、すべてが明瞭に意味をもって聞こえてくる。
 レーキは混乱する。なぜ、突然言葉が理解出来るようになったのか。
 心当たりは、眼鏡の男が自分に向かって使った『術』のようなもの。それが異邦の言葉を翻訳している。
 狼狽うろたえる内に、不意をつかれた。背後から走ってきた、店の店員らしき屈強な男に腕を取られる。しまったと思ったときにはすでに遅かった。
「……!!」
「手間をとらせやがって! 店に戻れ! アーラ=ペンナ!」
「……嫌だ! 手を放せ!」
 レーキは抵抗するが、純粋な力では店員の男に敵わない。後ろ手に腕を捻られて、背中と羽が悲鳴を上げる。
「こいつ! 傷物奴隷のクセにおれにたてつくつもりか?!」
「ぐ、ぅ……! 俺は、奴隷になった覚えなんて、ない!」
「……その子、売り物なの?」
 店員の手から逃れようともがいているレーキを指して、事態を見守っていた長身の男は小首を傾げた。
「これはこれは『使徒しと』様方。さようでございます。ちょいと目を離した隙に店から逃げ出しましてね。まだまだ躾が必要なようです」
 揉み手でもしそうなほど、店員は改まって長身の男に答える。
『使徒』とは何者か。レーキには解らなかったが、店員の態度をみているとそこには身分の差が有るようだ。
「その子の羽は、生まれつきではないよね?」
「ええ。左は骨が折れて歪んでましてね。見栄えも良くないし、空を飛ばれても迷惑だ。いっそ『ばっさりやっちまおう』ってことになりまして」
「な、んだと……!?」
 そんな理由で、鳥人に取って大切な羽を切り落としたと言うのか。レーキはショックを受けると同時にいきどおる。折れているだけなら、まだ治療できたかもしれないのに!
「その子、どの地区の出身?」
「さあ。海岸に倒れて居たところを拾いました。『方舟』でアーラ=ペンナは珍しいですから。高値が付くかと期待したんですが。ご覧の通り右目も欠けてますしね。大した額にはならんでしょう」
 店員は値踏みするようにレーキを見る。
 レーキは思わず右目に手をやった。そこには有るべき物がない。右目を覆っていたはずの眼帯が。嵐の海を漂う間に無くしたのか、奴隷屋の店員にはぎ取られたのか。
「……眼帯は、どこだ……?」
 店員に拘束されていても、レーキはそれを尋ねずにはいられなかった。
 あれは、ズィルバーが初めての給料で仕立ててくれた、大切な品だ。取り返さなければ。
「は! 知るかよ! そんなこと、どうでもいい! 大人しく店に戻れ!」
「嫌だ! 俺は奴隷じゃない! 眼帯を返せ!!」
 レーキは身をよじって店員に向き直り、自由になる方の右手を彼に向けた。『金縛り』をかけてしまおう。そう決めた瞬間。
「お止めになった方が、よろしいですよ? アーラ=ペンナの貴方あなた
 眼鏡の男がレーキを制止する。レーキが戸惑っていると、長身の男が一歩近づいてくる。
「……それは、君の大切な物なの?」
 レーキの顔をのぞき込むようにして、長身の男が身を屈めた。
「ああ。大切な、後輩に貰ったものだ」
「そう。解った」
 長身の男は穏やかに顔をほころばせた。それから店員に向き直り、静かに告げる。
「……ねえ、奴隷屋さん。その子、僕が買うよ」
 レーキは愕然と長身の男を見る。長身の男はレーキに悪戯っぽく微笑みを向けてくる。
「へ? よろしいんですかい?」
「うん。言い値で買ってもいい。その代わりその子の持ち物を全部持ってきて。それから切り落とした羽も」
「お買い上げありがとうございます!」
 店員は頭を下げてレーキの腕を放した。
「傷物ですんで勉強させてもらいます! 羽と持ち物はすぐに持ってこさせます! 他に上物もおりますんで、店にいらっしゃいませんか?」
「ううん。僕はこの子だけでいいよ。シーモス、君は?」
 長身の男は背後を振り返り、眼鏡の男──シーモスに尋ねる。
「そうですね。わたくしは上物とやらを拝見いたしましょうか。案内していただけますか?」
「毎度あり!」
 二人の男は、奴隷を買うことに慣れているのだろうか。戸惑う様子も嫌悪する様子もなく、淡々と手続きを進めている。
 シーモスと黒い犬が奴隷屋に向かってしまうと、レーキと長身の男は通りに残された。
「……」
 礼を言った方がいいのか。それとも、警戒するべきなのか。レーキはにわかに判断が付かずに長身の男を見上げた。
「……ふふ。君は運が悪かったね。あんな店に捕まるなんて。……僕はイリス。君は?」
「……レーキ、ヴァーミリオン……」
「そう。いい名前だね。ようこそ、『方舟はこぶね』へ。歓迎するよ。『ソトビト』のレーキくん」
「『ソトビト』?」
「ふふふ。ここでは誰に聞かれるか解らないから……説明は出来ない。僕の連れが戻ってきたら、僕の家に行こう。君の治療もしなくちゃ」
 彼の語る言葉は、意味が解るようになっても秘密めいていて。レーキは警戒を解けずにいる。
 戸惑うレーキに向かって、イリスが華やかに笑う。
 治療。その言葉で思い出したように、レーキの全身に痛みが兆してきた。レーキはふらりとよろめいた。


 気が付くと、レーキはベッドに寝かされていた。それも、天蓋付きの大きなベッドに。
 痛みに負けて気を失ってしまったらしい。その間にここに運ばれたのか。
 ベッドのシーツははだに心地よく、清潔で、良い香りがする。枕もマットレスも柔らかく、質の良い物だと言うことが解る。
 全身をさいなんでいたひどい痛みはなりを潜め、うずくような背中の痛みだけが残っている。
 レーキはベッドから身を起こした。
 一張羅の黒い服は脱がされて、白い寝間着を着せられている。
 船に乗り、海を漂い、奴隷屋の地下室に放り込まれた間ずっと着ていた服だ。そのままではこの美しいベッドに放り込めなかったのだろう。
 首元に違和感がある。手を当てるとそこにはまだ金属の輪がはまったままだった。
 レーキはベッドの上で辺りを見回した。一人で使うには広すぎる部屋だ。この部屋は恐らく客間なのだろう。それも豪奢な類いの。
 ベッド、机、椅子、チェスト。部屋に設えられた家具はみな、ぜいをこらした上質なものだった。
 奴隷としてレーキを買ったイリス。だが、彼はレーキを奴隷として遇するつもりはないのか。それなら、なぜ首輪をつけたままにするのか。これを外す際に、レーキを起こしてしまうことをおもんぱかったのか?
『使徒』『方舟』『ソトビト』……解らないことがあまりに多すぎる。
 レーキは嘆息して、ベッドから立ち上がろうとした。くらりと眩暈めまいがして。レーキは床にへたり込んでしまう。
 とても腹が減っている。一体いつから食事をしていないのか。何でもいい。何か、食べなくては。
 レーキはどうにか起き上がって、ベッドに腰掛けた。それだけでひどく疲れて、肩で息をする。
 その時。コンコンと扉を叩く音がした。
 いったい誰だ。誰何すいかする気力もない。レーキが押し黙っていると、扉が開かれた。
「失礼いたします」
 丈の長いワンピースにエプロンをした使用人らしい少女が、金属のトレイを手にしてそこに立っていた。
「レーキ様、お食事をお持ちしました」
 黒髪の少女は食事をのせたトレイをベッドまで運ぶと、優雅に一礼する。彼女の首にはレーキがしている物によく似た金属の輪がはめられていた。
トレイには、野菜と穀物をくだいた粥とヴァローナ風の柔らかなそれによく似たパン、見たことのない果物、それから何かの果実水がグラスに注がれてのっていた。
 ごくり、思わずレーキの喉が鳴る。
「……これ……」
「どうぞ、お召し上がりください」
 粥は温かく、良い香りが鼻腔をくすぐる。パンはいかにも柔らかく、果物は甘い香りの果汁を滴らせている。もう、我慢など出来ない。
 レーキはまずパンにかぶりついた。それは予想通りに柔らかく、甘く、齧りつく度に芳醇ほうじゆんな麦の味わいが口内に広がる。美味い。腹が減っていれば口にする物は何でも美味く感じるものだが、これは、ただそれだけではあるまい。
 粥は鶏をベースに、数種類の出汁で炊かれていた。塩分は控え目に、スープの旨味だけで全体の味をまとめている。これならいくらでも食べられそうだ。この粥を作った料理人は大した腕だ。レーキは夢中で全てを平らげる。
「……ありがとう。これを作った人にも礼を伝えてくれ」
 すっかり空になった食器を名残惜しく見下ろして、レーキは使用人の少女に告げる。
 絶食の後は一度に沢山食べてはいけない。
 それはかつてじいさんが言っていたことで。レーキはじいさんの作った鶏スープを思い出した。あれも空腹に染み渡る素晴らしい味だった。あの時も、傷を癒やすために眠った。だから今度も。
「すまない。少し眠らせて貰う。君の雇い主にも礼を言う」
「かしこまりました。お伝えします」
「ありがとう……」
 レーキはベッドに横になって、シーツをかぶった。
 立ちふさがる謎は多い。そもそもここが何処なのかすら解らない。それでも俺はまだ生きている。生きているんだ。
 だから、どんなことがあっても、必ず帰る。みんなの元へ。ラエティアの元へ。
 瞼を閉じるとすぐに眠気がやってくる。
 レーキは大切な人々の顔を思い浮かべながら、眠りの海に沈んでいった。体力的を回復させるために。
 ──生きるために。
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