ワガママな人達の交響曲

三箱

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第五章 三つ目

ニゲテ。ウタガッテ。

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 坂道を駆け上がる。
 荒くなる息。気怠さ。疲労。筋肉の悲鳴。全身が限界だと叫び始めている。
 でも、俺よりも体力のないはずのソラ君が、まだ走ろうとしている姿に、止まる意志を示さないでいた。
 どこまで走るのだろうか。どこまで逃げるつもりなのか、何から逃げているのか。わからない。わからないことだらけだ。
 だけど俺は彼の後ろをついていく。
 質問をせずに進んでいく。
 長い長い坂道。そしてやっと見えてきた坂道のゴール。登りきって見えた場所は、少しだけ開けた広場であった。
 公園なのだろうか。
 遊具っぽいのもあるから、たぶんそうなのだろう。
 ソラ君はここで足を止めて、膝に手を置いて中腰になった。肩だ呼吸しゼーハーと荒い息を立てて、背中は服がビショビショになるくらいの汗を染み込み、ビタッと肌に引っ付いていた。
 俺も若干視界がふらつく。その安定しない視野を動かす。

「ソラ君。あそこのベンチで休むか」

 すると、彼は返事はしなかったものの、片手を上げて意思表示をすると、足を引きずりながら、ベンチに向かった。俺も一緒に向かい。どさっと腰から深く座り込んだ。
 そして空を仰ぎ見る。
 青い。けど少し青が淡くなり、茜色が混じり始めていた。雲一つない澄んだ景色。
 何だろうな。少しだけ心が澄んだ気がする。気のせいだけど、こう少しだけ浮いているような感じだ。

「風間君いる?」
「っ!」

 ガバッと顔が近づいてきた。ベンチごとひっくり返そうになりかけた。一瞬イラッとしたが、彼の焦燥感を色濃く見せる表情に、それは動揺に変わる。
 
「どうした。なんでそんなに怖がっている」

 すると彼は顔を少し引いて、口を固く閉ざす。
 そろそろ理由を知りたいのだが、言えない理由でもあるのだろうか。

「もしかして、これも君の直感的な感情?」
「ち、違う」

 彼は首を必死に横に振る。

「じゃあ。一体何から逃げているの?」
「それは、少し前に言った二人のことだよ」

 二人……。ああ。梶原さんと佐嶋さんのこと……。何故。

「何故? 俺の記憶がなくなる前に何かあったのか」
「ええと。その確証となるものはないんだけど」

 確証ないのかよ。それほぼ推測というより直感じゃないだろうな。

「その前に確認したいことがあるんだけど」

 すると彼はポケットから直方体の物体と、それにつながる紐みたいなものを出して、紐の先の丸いものを俺の右手に渡した。
 俺はその紐でつながる丸いものをまじまじと見つめる。

「これを耳につけて。こんな風に」

 ソラ君が自分の耳の穴に押し込むようにつける。一瞬大丈夫なのかと少しばかり不安になるが、ソラ君が躊躇いなかった上に、目で俺を急かせていたので渋々付けてみた。

「……」

 何も変化はない。何かが聞こえるのかと思ったが、何もない。

「何か聞こえた?」
「いや。全く」

 俺が首を横に振るとソラ君の表情が暗くなるのがすぐに分かった。何の関係があるのだろうか。

「音楽が聞こえないんだよね」
「そうだな。その音楽っていうのが俺にはさっぱりわからないんだが。どういうものなんだ?」

 そう。みんな音が聞こえないとか、歌が聞こえないとか、音楽が聞こえないのとか言われてきたけど、実際何なのか分からない。
 ソラ君は腕を組んで考える。

「正直、実践したらいいんだけど、君は音楽を聴くことはできなくなっているから厳しい。単純には音の繋がりと言えばいいのかな」

 ソラ君はぴょんと立ち上がり、そして口を開いた。だが彼の口から声が聞こえることはなかった。口をただ動かしているだけだった。

「どうだった?」

 その声は聞こえた。だけどその前は全く聞くことなどなかった。

「ごめん。『どうだった』と言うまで全く聞き取れなかった」
「そうか。ということは明確な歌は聞こえないんだね。でも話し声は聞こえるんだね」
「そうみたいだ」
「変だね」

 変。変なのか。正直よくわからない。

「だって、それなら音全部聞こえなくなるはずだよね。会話なんてできなくするはずだよ。だけど会話だけはできるんだよね」
「確かに」

 会話だけは出来る記憶はなくなって音楽は聞こえないけど、会話だけが聞ける。冷静に考えれば変な話である。まあそれは分かった。

「で、それとあの二人に何の関係があるんだ?」
「それは……」
「それは?」
「あああああああ! いたああ!」

 遠くから叫び声が聞こえたかと思ったら、ものすごいスピードで走ってくる人が一人と、その後ろを遅めの速さで追いかけてくる人が一人いた。
 先頭は梶原さんだ。ものすごい速さで駆けてき、そしてベンチの目の前で急停止して到着した。

「もう必死に探したんだからね。ソラ君も病室からいなくなって何していたの?」
「ごめん。ちょっと外の空気を吸いたくてフラッと出ていったら、偶然風間君と出会ってね」
「それは、まあ良かった」

 梶原さんはホッと息をつく。それはいい。だが一つだけ俺は梶原さんの姿の変化を凝視する。

「制服が少しだけ汚れていますね」
「ええ。ああ。ちょっと転んでね」
「そうですか」

 ちょっと転んでなのだろうか、彼女の制服の袖には何かで切ったような破れ方がいくつも見える。必死に探しに来ていたから、草むらまで探していたから、だからそこまで汚れているのだろうか。

「梶原さん速すぎるから」

 へとへとになって走ってきた佐嶋さんである。両膝に手を置いて中腰になり、荒く呼吸をしている。その姿を見ながら腕を組んでふんと鼻を鳴らす。

「あんた。もっと体力つけないとね」
「私は文科系なの」

 梶原さんと佐嶋さんの会話する姿。昨日とあまり変わらない。だけどなんだろうこの拭えない違和感は、何だろうこのちょっとぞっとするような感じは。

「じゃあ。帰ろう二人とも」

 梶原さんはすっと俺の前に手を差し伸べた。真っすぐに見つめる瞳。彼女の帰ろうという言葉にたぶん偽りがないと思う。家に帰ろうというのもわかる。
 だが、俺は彼女の手を握ることはしなかった。

「梶原さん。怒らないの?」
「怒らない? どうして?」

 俺は何でそんな質問をしたのだろうか。正直よくわからない。記憶が無いことによるの会話力か理解力の欠如か。

「いや。その勝手にいなくなったから、普通怒るはずなのに、怒らないから、なんでかなと思って」
「怒ることでもないし、見つかったから全然いいと思うんだけど」

 単に梶原さんにとって怒る要素がないということか。いやでも本当にそれが理由なのか。

「それに響ちゃんがいなくなるのは今に始まったことでもないし」
「そうなのか」

 隣にいるソラ君に聞いてみると、彼は首を縦に振る。
 でも待てよ。

「俺はそうでも。ソラ君に対しても怒らないのか。さっきの話から病室から抜け出してきたんだよな」
「え。なに怒られたいの?」

 ちょっとだけ顔をしかめた梶原さん。
 疑い過ぎた。そうだよな。せっかく探しに来てくれた人に対して「怒らない?」と聞くのは酷い話だろうな。

「わりい。ちょっと疲れているみたいだ」
「そう。記憶喪失で混乱しているだけだよ」

 梶原さんはすっと俺の頭に手を置いて、静かに二回頭を撫でた。疑っていた気持ち消えていくように、すっと心が軽くなった。考えすぎたのではないか。そう思った。

「じゃあ。帰ろう」

 再度差し伸べられた手。俺はその手に躊躇いもなく手を重ねようとした。

「ちょっと待って」

 ソラ君は俺の手をガシッと掴んだのだ。その行動に梶原さんと佐嶋さん、そして俺の目が丸くなり、彼を凝視した。
 そして彼は一言言った。

「ねえ。星浦さんはどこ?」
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