Frail/Little Assassin

新田朝弥

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第2章/暗流潜行 approaching assassin

2-④/灯す光

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 気がつくと、畳の上だった。

 天井の染み。
 軋む柱の音。
 ……神谷堂。

 腹部に鈍い痛みが残っているが、致命傷ではない。
 札で止血されているのが、触れなくても分かる。

「起きた?」

 その声で、息が止まった。
 視線を動かす。縁側の方。
 夕暮れの光を背に、女性が腰を下ろしていた。

 長い黒髪。
 軽装。
 気配は柔らかいのに、隙がない。

 ──間違えようがない。

「……京香」

 名前を呼んだ瞬間、胸の奥がひくりと痛んだ。

「久しぶり」

 あっさりした口調。
 まるで昨日も会っていたかのように。

「黒い塔へ案内して以来だから……十年、か」

「九年……まだ九年」

 間髪入れずに、答える。
 忘れたことは、一度もない。

「随分派手にやったみたいね」

「……見てたの?」

「話で聞いただけ」

 沈黙。
 言葉が、続かない。
 再会したかったわけじゃない。
 だが──会いたくなかったわけでもない。

 京香は、私をじっと見ていた。
 評価するような、懐かしむような、少し痛そうな目で。

「顔、変わったわね」

「……そうか」

「ええ。
 前はもっと、“殺してやる”って顔してた」

 胸に、鈍いものが落ちる。

「……じゃあ、今は?」

「迷ってる顔」

 即答だった。
 私は、視線を逸らす。

「……黒い塔を出た人間が、何しに来た」

 言葉が、少しだけ棘を帯びる。

「あら、知ってたの」

「相当な有名人だったから。
 "No.2"にまでなって、バレない方が、無理がある」

 ──神谷 京香。
 元、黒い塔の刺客。
 かつて私をそこに案内したことを考えれば、別段驚くことではない。

「忠告? 回収?」

 募る不信感を、そのまま投げつける。

「それとも──処分?」

 京香は、ほんの一瞬だけ目を細めた。

「……相変わらず、自分を安く見積もるのね」

 立ち上がり、ゆっくりと近づいてくる。

「私はもう、塔の人間じゃない」

「……でも」

 私は、はっきりと言った。

「理久は来た。走馬もいる
 “来ない理由”の方が、少ない」

 京香は、足を止める。

「……そうね」

 否定しなかった。

「それでも」

 静かに続ける。

「別に私は、あなたを殺しに来たわけじゃない」

 その言葉に、胸の奥が軋む。

「……じゃあ、何」

 京香は、少し考える素振りをしてから答えた。

「確認。
 ……あなたが、まだ戻れるかどうか」

 空気が、重くなる。

「戻る……?」

「そう」

 京香は、縁側の外を見る。

「言っとくけど、塔にじゃないわよ。
 “壊す側”に、でもない」

 夕暮れの光が、彼女の横顔を染める。

「神谷堂。
 ……葉月くん。
 ……京二」

 名前を、一つずつ。

「安心した。
 今のあなたには──戻る場所がある」

 私は、短く笑った。

「……勘違い」

「本当に?」

 鋭い問い。

「さっき、あなたが死にかけた時」

 京香の声が、低くなる。

「最初に浮かんだのは、どこ?」

 ……答えられなかった。

 理久のワイヤー。
 喉元の冷たさ。
 死の気配。

 その時に──浮かんだのは、
 黒い塔でも、復讐でもない。
 神谷堂の縁側。
 湯飲み。

 ──「いってらっしゃい」と、言った声。

「……」

「でしょ?」

 京香は、少しだけ目を伏せた。

「それが、答えよ」

 私は、拳を握る。

「……それでも」

 声が、少し震える。

「追っ手は来る。
 黒い塔は、私を放さない」

「知ってる」

「巻き込む」

「ええ」

 それでも。
 京香は、はっきりと言った。

「それでも、あなたはもう一人じゃない」

 沈黙が落ちる。
 外で、夜の気配が濃くなる。

「走馬は」

 私が言う。

「私を殺す気だ」

「ええ」

「理久も、遊びじゃない」

「当然ね」

 京香は、微笑んだ。
 それは、かつて“No.2”と呼ばれた女の笑みだった。

「だから、選びなさい」

「……何を」

「斬る理由を」

 私は、目を閉じる。

 復讐のために斬る。
 生き延びるために斬る。
 壊すために斬る。
 それ以外の理由を、
 私は、知らない。

「答えは、急がなくていい」

 京香は、立ち上がり、
 背を向け、歩き出す。

「次に会う時」

 振り返らずに、言った。

「あなたが“何を守ろうとしているのか”、
 ちゃんと見せて」

 障子が閉まる。

 部屋に残ったのは、
 痛みと、静けさと。

 そして──
 もう二度と、
 何も守らずに刃を振るう場所には戻れない──
 そう、確かに理解してしまった感覚だった。

 ◆◆◆

 神谷堂の裏庭は、夜になると音が消える。

 虫の声すら遠く、
 聞こえるのは、湯を沸かす小さな音だけ。

 京二は、縁側に腰を下ろし、
 京香はその一段下、庭石に座っていた。

 二人の間に、湯呑みが二つ。

「……相変わらず、無茶をする」

 京二が、先に口を開いた。

「誰の話?」

「分かっているだろう」

 京香は、苦笑した。

「レイのこと?」

「それもだ」

 京二は、夜を見たまま言う。

「お前も」

 一瞬、沈黙が落ちる。

「……昔からでしょ」

 京香は、指先で庭石をなぞった。

「私たち、そもそも分かれてたじゃない。
 あの日から」

 京二の視線が、僅かに伏せられる。

 両親の死。
 血の匂い。
 ──あの夜。

「兄貴は、救おうとした」

 京香が続ける。

「同じ目に遭う人たちを。
 同じ悲しみを、減らそうとした」

「……」

「私は……」

 京香は、息を吸う。

「犯人を、殺したかった」

 即答だった。
 迷いのない、過去形。

「だから、塔へ行った。
 だから、あの地獄を選んだ」

 京二は、何も言わない。
 止めなかったことを、
 止められなかったことを、
 今も背負っている顔だ。

「……レイを見た時」

 京香の声が、少しだけ揺れる。

「昔の自分を見たの」

 復讐だけで立っていた頃の自分。
 生き延びる理由が、
 憎しみしかなかった自分。

「だから、導いてあげたつもりだった」

 拳が、ぎゅっと握られる。

「同じ道を歩けば、
 答えに辿り着けると、思った」

 京二が、静かに問う。

「……答えは、あったか」

 京香は、首を振った。

「なかった」

 はっきりと。

「十年。斬って、壊して、
 ようやく下に戻ってきて」

 京香は、空を仰ぐ。

「私が探してた犯人は──事故で、死んでた」

「……知ってるよ」

「呆気なかったわ」

 笑ったようで、笑えていない。

「私の十年が、
 一瞬で、意味を失った」

 沈黙。
 湯が、静かに沸く音。

「……それで?」

 京二が、促す。

「怖くなった」

 京香は、素直に言った。

「レイも、同じ場所に辿り着くんじゃないかって」

 全てを賭けて、
 何も残らない場所へ。

「だから、調べたんだ」

 声が、低くなる。

「彼女の村の事件」

 京二が、初めて京香を見る。

「……何を、知った」

 京香は、湯呑みに視線を落とす。
 その指先が、一瞬だけ固まった。

「まだ、全部は話せない」

 はっきりとした拒絶。

「でも」

 京二の目を見る。

「あれは、単なる“復讐の物語”じゃない」

 夜の空気が、重くなる。

「知れば」

 京香は、続ける。

「レイは、きっと戻れなくなる」

 どこにも属せない場所へ。

「だからこそ」

 立ち上がり、京二の横に立つ。

「兄貴の場所が、必要なの」

 神谷堂。
 人を救うための場所。

「……勝手だな」

 京二は、そう言ってから、微笑んだ。

「それも、昔からでしょ」

「知ってる」

 京香も、少し笑う。

「でも、後悔はもう増やしたくない」

 京二は、夜の向こうを見る。

「葉月も、気づき始めている」

「ええ」

「アイツも、巻き込まれる」

「……」

「それでも、俺はこの場所を閉じない」

 京二は、静かに言う。

「誰かが戻ってこられる場所は、
 必要だ」

 京香は、目を伏せる。

「ありがとう」

 小さく。

「……まだ、時間はある」

 京二が言う。

「やるべきことは、まだある」

「ええ」

 京香は、夜に溶けるように背を向けた。

「次は」

 振り返らずに。

「レイが、自分で選ぶ番よ」

 闇の向こうへ、足音が消える。

 神谷堂には、
 まだ、灯りが残っていた。
 消えないように。
 誰かが、帰ってこられるように。
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