Frail/Little Assassin

新田朝弥

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第2章/暗流潜行 approaching assassin

2-⑥/静と動の境界

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 夜明け前──
 空はまだ暗く、鳥の声もない。
 朝と夜の境目。
 どちらにも属さない時間。

 縁側に座る。

 腹部の痛みは残っているが、動けないほどではない。
 札はすでに剥がされ、代わりに布が巻かれている。
 応急処置としては、十分すぎるほどだった。

 ──守られた。

 その事実が、胸の奥に重く沈んでいる。
 守られることに、慣れてはいけない。

 それは分かっている。
 分かっているのに。

 視線の先。
 庭の端に、人影があった。

「……起きてたか」

 京二だった。

 いつもの和装。
 いつもの声。

「目が覚めて」

 短く答える。

 京二は、それ以上何も言わず、
 私の隣、少し距離を置いて腰を下ろした。

 しばらく、沈黙。

「京香は」

「夜明け前に出た」

 それだけで、十分だった。

「……そっか」

 空が、ほんの少しだけ白み始める。

「聞かないのか」

 京二が言う。

「何を」

「これから、どうするか」

 何も、答えなかった。

 代わりに、庭を見る。
 踏み均された土。
 誰かが通った痕。

 ここは、戦場ではない。
 だが、戦いの気配は確かに残っている。

「……選択を、迫られた」

 ぽつりと、言う。

「斬る理由を」

「そうだな」

 京二は否定しない。

「それで、答えは?」

「まだ」

 即答だった。

「今のままじゃ、斬れば壊す。
 壊せば、戻れなくなる」

 京二は、湯呑みを差し出してくる。
 受け取ると、まだ温かかった。

「急ぐ必要はない」

「……でも」

 湯気の向こうを見る。

「追ってくる」

「ああ、知っている」

「皆を、巻き込む」

「それもだ」

 それでも。

 京二は、静かに言った。

「それでも、ここは閉じないからな」

 湯呑みを、握りしめる。

「……なんで?」

 問いは、鋭くも強くもなかった。
 ただの、疑問だった。

 京二は、少し考えてから答える。

「帰ってくる場所がなければ、
 人は簡単に壊れる」

 それ以上、京二は理由を語らなかった。

 目を閉じる。
 黒い塔。
 血の匂い。
 斬る音。
 そして、何も残らなかった日々。

 ──戻れる場所。

 そんなものを、
 自分が持っていいのか。

「……葉月は」

 不意に、名前を出す。

「まだ、寝てる」

 京二が答える。

「だが」

 続ける。

「アイツは、もう気づいている」

 少し考えて、息を吐いた。

「……巻き込みたくない」

「巻き込まれる覚悟を、
 アイツはもう持っている」

 痛いほど、真っ直ぐな言葉だった。

 空が、はっきりと明るくなる。

 朝だ。

「……私は」

 立ち上がる。
 腹部が軋むが、構わない。

「逃げない」

 京二は、何も言わない。

「でも、戻らない」

 黒い塔へも。
 壊すだけの場所へも。

「ここで斬るなら」

 言葉を、選ぶ。

「"守るもの"を、選んで斬る」

 それは、誓いでも、決意でもない。
 ただの、配置確認だった。
 京二は、ようやく頷いた。

「それでいい」

 満足そうに、京二はその場を後にした。

 朝日が、神谷堂を照らす。
 町は、何事もなかったように目を覚ますだろう。
 誰も知らない。
 夜に、何が起きたのか。
 何が、始まったのか。

 だが。
 私は、確かに理解していた。
 もう、分岐点は越えた。
 戻る道は、選ばなかった。
 斬る理由は、まだ定まらない。

 それでも。
 斬らずに逃げることだけは、
 二度と、選ばない。

 ◆◆◆

 神谷堂の裏口に立つ。
 夜と朝の境目の冷気が、肌に刺さる。

 まだ朝とは呼べない。
 だが、確実に夜は終わりへ向かっている。

 ──終わった、わけじゃない。
 ただ、形を変えただけだ。
 腹部の痛みは、まだ残っている。だが動けないほどではない。
 それが、かえって現実を突きつけてきた。

 自分は、生きている。
 殺されなかった。
 選ばれなかったのではなく
 ──保留された。
 走馬に。
 理久に。
 そして、京香に。

「……」

 喉の奥で、息を殺す。
 黒い塔では、こんな時間はなかった。
 夜明けは、ただ次の殺しの始まりを告げる合図だった。
 終わる夜など、存在しなかった。

 だが、ここでは違う。
 障子の向こう。
 かすかな物音。
 葉月が、動いている気配。

 ──あいつは、まだ何も知らない。
 いや。
 知ってしまったからこそ、眠れないのか。

 足音が近づき、縁側の向こうで止まる。

「……レイ」

 呼ばれて、肩が揺れた。

「起きてたんですね」

「うん」

 短く答える。
 振り返らない。

 しばらく、沈黙が落ちる。
 夜明け前の空気は、言葉を重くする。

「……昨日のこと」

 葉月が、言いかけて止まる。

「ごめんなさい。
 俺、何もできなかった」

 その言葉に、反射的に振り返る。

「違う」

 即答だった。

 何故──君が責任を感じる?
 巻き込んだのは、私の方なのに。
 唐突な命の危機に晒されても。
 それでも──

「君は、生きていた」

 葉月が、驚いたように目を瞬かせる。

「それだけで、十分」

「……京香さんと、同じこと言うんだね」

 葉月は落ち込んだように、俯く。

 視線を、外に戻す。
 考えても、かける言葉が、見当たらない。

 ……こうなったら、ヤケクソだ。
 言ってしまえば、戻れなくなる。
 それでも、言葉は口を離れた。

「君がなんて言おうと、私は君を守る」

 葉月は、目を丸くする。

「それが嫌なら」

 静かに、続ける。

「強くなれ。
 ただし──」

 一瞬、間を置く。

「夜に、飲まれないで」

 葉月の指が、ぎゅっと握られるのが見えた。

「……レイは、これから……どうするの?」

「私は」

 夜明けの空。
 薄く、光が滲んでいく。

「まだ、決めてない」

 斬る理由も。
 守る形も。
 戻れる場所も。
 だが。

「戻らない場所だけは、決めた」

 それだけは、はっきりしていた。

 葉月は、何も言わずに隣に立つ。
 二人で、同じ空を見上げる。
 遠くで、町が目を覚まし始めている。
 何事もなかったかのように。昨日の夜を、知らないまま。

 その夜を、誰が斬るのか。
 誰が守るのか。
 答えは、まだ先にある。

 だが、確かなことが一つ。
 この町は、もう。
 戻れない夜を、内側に抱えてしまった。

 夜明けの光は、その事実だけを、静かに照らす。
 優しさを装ったまま、
 何も答えをくれない光だった。
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