スカーレット・レムナント

新田朝弥

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①/白い名札

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 白衣の胸ポケットに差した名札が、やけに目につく。

 ──鷹宮 裕翔たかみや ゆうと

 何度見ても、まだ他人の名前みたいだ。

「鷹宮くん」

 呼ばれて、反射的に顔を上げる。
 一瞬、誰のことだか分からない。

「聞いてる?」

 透花とうかが眉を寄せていた。腕を組んで、呆れたみたいにこっちを見ている。

「ああ、悪い」

「三回目」

「嘘だろ」

「ほんと」

 さらっと言われて、なんとなく腹が立つ。

白鷺しらさぎ、って呼べば?」

 口をついて出る。
 透花は目を細めた。

「大学では“鷹宮”でしょ」

「戸籍上はな」

「それ以外に何があるの」

 言い返せない。

 ある。
 でも、うまく説明できない。

 白鷺 裕翔しらさぎ ゆうと

 そっちのほうが、呼吸が楽だ。
 鷹宮は、なんか、まだ喉に引っかかる。

「……いいよ、好きに呼べ」

「じゃあ鷹宮」

「だから」

「嫌なら、ちゃんと自分で名乗りなよ」

 透花はそう言って、解剖台の方へ歩いていった。
 言い方が、妙に刺さる。

 ◆◆◆

 実習室は、相変わらず現実感がない。

 アルコールの匂いが鼻に残る。
 金属器具の光がやけに白い。

 目の前にあるのは、かつて生きていた人の身体。
 メスを握る手が汗ばむ。

「ほら」

 透花が小声で言う。

「力入れすぎ」

「入れてない」

「いーや、入ってる」

 手首を軽く叩かれる。

「震えてるじゃん」

「……うるさい」

 本当に、うるさい。
 でも、少しだけ救われる。
 誰からも触れなかったら、たぶん俺は固まっていた。

 刃を入れる。
 皮膚の下に層がある。
 血管。筋肉。神経。
 人間って、こんな単純な構造なんだと、実感する。

「ねえ」

 透花がぽつりと言った。

「寿命って、どこにあると思う?」

「は?」

「心臓? 脳? それとも、血液?」

「何? その質問」

「ただの興味」

 軽い声。
 でも目は、少しだけ真面目だ。

「そんなの、分かるわけないだろ」

「でもさ」

 透花はメスを置いて、俺を見る。

「もし、移せるとしたら?
 人の、寿命」

 鼓動が、一拍遅れる。

「……SFかよ」

「否定はしないんだ」

「あるわけない」

 即答する。
 むしろ、即答しすぎた気がする。

 透花はそれ以上突っ込まなかった。
 けれど、視線が少しだけ残った。

 俺は目を逸らし、作業に戻る。

 移せるとしたら。
 俺は、移された側だ。

 三年。

 姉が差し出した時間。
 感謝はしている。
 でも、それだけじゃない。

 夜中にふと、息が詰まることがある。
 俺はこうしている今も、誰かの時間を背負っている。

 ◆◆◆

 家に帰ると、姉の部屋の明かりがまだついていた。

「入るよ」

「どうぞー」

 机の上にはカルテの山。
 ペンを走らせる音が、やけに速い。

「今日も遅かったね」

「急変。走った」

 短く答える。
 白衣の袖口が、少し擦り切れている。

「……なあ」

「ん?」

「姉ちゃんはさ、後悔してないの?」

 ペンが止まる。
 ゆっくり、顔が上がる。

「何を?」

「三年」

 空気が変わる。
 俺は目を合わせられない。

「俺さ」

 少し気まずい空気の中、続ける。

「たまに思うんだよ。
 それ、俺が受け取ってよかったのかって」

 沈黙が流れる。
 時計の秒針の音がやけに大きい。
 緋菜は椅子を回し、真正面から俺を見る。

「してないよ」

 本音なんだと分かる、強い声。

「一秒も」

「でも」

「でもじゃない」

 言葉を被せられる。

「あなたがいなくなる方が、よっぽど後悔する」

 視線が逸れない。

「私は医者よ。助けられる命があるなら助ける。それだけ」

「俺は患者じゃない」

「でも、家族でしょ」

 即答。
 胸の奥が熱くなる。
 腹が立つくらい、迷いがない。

「……簡単に言うなよ」

「簡単じゃない」

 少しだけ声が揺れる。

「簡単じゃないから、言ってるの」

 俺は、何も言えなくなる。

 ◆◆◆

 部屋に戻ると、スマホが震えた。

『さっき、怒ってた?』

 透花からだ。
 すぐに返信する。

『別に』

『嘘。顔に出てたもん』

 見透かされたような台詞に、イラッとする。

『寿命の話さ、別に変な意味じゃないからね』

 指が止まる。

『じゃあ、どういう意味だよ』

『そのうち話すかも』

 そのうち。
 嫌な言い方だ。

『引っ張んなよ』

『医学部なんだから、好奇心は持とうよ』

 既読をつけたまま、画面を閉じる。
 胸の奥に、小さなざらつきが残る。

 "市場"はなくなった。
 ニュースではそう言っていた。

 でも。
 本当に、全部消えたのか?

 俺はまだ、
 白鷺だ。
 鷹宮ではない。
 その名前を、自分の意思で名乗る日なんて、来るんだろうか。
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