Brain/青の章

新田朝弥

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第1章/暗号館の番人 a girl in sleet

1-⑨/Memories of snow in the rain

 日が傾き、
 空が茜色に染まり始めた頃だった。

「──神津さん。
 流石に、そろそろ帰らないと」

 更地の公園の縁で、僕がそう切り出すと、神津さんは少しだけ唇を尖らせた。

「……分かってる。さっきから何回も鳴ってるし」

 スマホの画面には、母親からの着信履歴がずらりと並んでいる。
 神津さんは観念したように通話ボタンを押した。
 次の瞬間。

「ちょっと藍! 今何時だと思ってるの!?」

 スピーカー越しに響く怒声に、思わず肩をすくめる。
 神津さんは「はい」「ごめんなさい」「今すぐ帰ります」と、しどろもどろに返事をしながら、完全に説教モードに入っていた。
 通話を終えた神津さんは、ため息をつき、申し訳なさそうに笑う。

「……ごめん。強制送還だって」

「うん。仕方ないよ」

「でもさ」

 神津さんは一歩近づき、真剣な目でこちらを見る。

「結末……ちゃんと聞かせて。
 全部」

「ああ。約束する」

「絶対だからね」

 念を押すように言って、名残惜しそうに手を振り、彼女は公園を後にした。

 ──静かになった。
 風に揺れる雑草の音だけが、かつて遊具があった場所を撫でていく。
 公園の中央へと歩み寄る。
 ここだ。
 記憶の中で、確かにここにあった。
 二頭の犬が、向かい合う形のシーソー。
 耳の横についた取っ手が、角みたいで。

「……双子のヤギ、か」

 誰もいない空間に、独り言が落ちる。胸の奥が、きゅっと縮んだ。
 しゃがみ込み、地面に手をつく。柔らかい土だ。遊具が撤去されてから、何年も経っているはずなのに。
 スコップなど無い。
 僕は無心で、手で土を掘り始めた。
 指先が──
 何か硬いものに触れる。

「……あった」

 掘り起こした土の中から、
 古い布に包まれた小さな箱が姿を現した。

 震える手で、包みを解く。
 中にあったのは──
 小さな人形。
 どこにでも売っていそうな、
 安っぽい、布製の人形。

 そして、少し色褪せたブローチ。
 花の形をしたそれは、記憶の中で、いつも美雪の胸元にあった。

 最後に、一冊のノート。
 ページを開いた瞬間、胸が締め付けられた。
 拙い文字。楽しそうな日。寂しさ。
 そして、自分の名前。

 ──"ソラくんと遊んだ"

 ──"ソラくんが来てくれた"

 ──"今日は来なかった"

 ──"また、来てくれるかな"

 その先は──
 もう、書かれていなかった。
 僕は、そっとノートを閉じた。

 視界が滲む。

「……ごめん」

 誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。

 これが、美雪の『たからもの』。
 価値なんて、計ることは出来ない。
 けれど、確かにここに、彼女の世界があった。
 
 箱を胸に抱き、立ち上がる。
 次に向かう先は、一つしかない。

 ◆◆◆

 もう日も暮れる。
 日中賑わいを見せたパーティー会場は、嘘のように空虚な静寂に包まれている。

 私は、静かに流れる噴水へ目掛けて、
 コインを一枚、投げ入れる。
 
 お姉ちゃんが言っていた──
 こうしていると、どこからともなく君が現れて──

 ふと、肌に冷たい感覚。
 また雨が降ってきた。
 ──ポチャン。
 コインが先か、雨粒が先か、
 泉の中心から、波紋が広がる。

 少し肌寒いが、風もなく、むしろ心地良い。
 目を閉じると、君と出逢ったあの日の場面が鮮明に甦る。

 ──「君、名前は?」

 ──「ソラ。アケチソラ。
 空がキレイな晴れた日に生まれたんだって」

 ──「そしたら私は逆だね。
 私は──」

 誰の、記憶?
 私? それとも──

「──やっぱり、ここにいたんですね」

 そんな私の回想は、
 あの子の足音と呼び掛けに掻き消された。
 やっぱり、来てくれた。

 ◆◆◆

 パーティーの開かれた中庭の噴水前。
 アリサさんは、そこで雨に打たれたまま佇んでいた。

「あら、明智様。ここは冷えます。屋敷内へ──」

「──キレイな雨」

 アリサさんの台詞を、遮る。
 掌を広げると、ポツポツと小さい雨粒が当たる。

「……昔、こんな話をした子がいたんです。
 自分が雪の日に生まれたから、美雪。
 それと一緒で、妹は、キレイな雨の日に生まれたから、この名前がつけられたって」

 もう、引き返せない。
 僕は、意を決して、その言葉を口にする。

「全て……思い出しました、アリサさん。
 いえ。
 城田 美雨しろた みうさん」

 アリサさんは一瞬、肩を震わせるが、俯いていて表情が分からない。

「美雪さんには、双子の妹がいました。
 ──貴女ですよね? 美雨さん。……いや、正確には、貴女は

 僕が昔一緒に遊んでいた相手は間違いなく『美雪』だが、それは、もうひとつの人格、『美雨』と表裏一体の存在だった。

 流れる沈黙。
 一瞬にも永遠にも思えるその時間の中、アリサさんはゆっくりとこちらに顔を向け、優しく微笑んだ。

「ええ。その通りです。私の名前は美雨。美雪が、独りになるのが怖くて、生み出した存在」

 その声には、もう取り繕った明るさはなかった。

「でも、蒼空くんが来てくれるようになって、美雪は変わった。よく笑うようになって、寂しいって言わなくなって」

 噴水の水面に、夕焼けが揺れる。

「そのたびに、私は思ったんです。……ああ、私はもう、いらないんだって」

 声が、少しだけ震える。

「それでも、良かった。美雪が幸せなら、それで」

 ──けれど。

「あなたが、来なくなった」

 美雨は、唇を噛みしめた。

「美雪は、待ち続けました。
 あなたと会う為だけに、生きるようになって」

 そして。

「……限界が、来たんです」

 美雪という存在は、消えた。
 残されたのは、美雨だけ。

「最初は、あなたが憎かった。
 でも、調べて……知ってしまった」
 
 彼もまた、大切な人を亡くしたこと。
 自分のことで精一杯だったこと。

「だから、恨めなくなった」

 それでも。

「このままじゃ、美雪が可哀想すぎるでしょう……?」

 美雨は、真っ直ぐこちらを見据える。

「だから、せめて思い出してほしかった。美雪が、確かにここにいたことを」

「……その為の、暗号だったんですね」

「ええ。貴方自身がこの館に来て下さるかは、完全に賭けでしたが」

 沈黙の中で、僕は箱を差し出した。

「これが……
 美雪さんの、宝物です」

 美雨は、それを見て、息を呑む。

「……ああ」

 小さく、嗚咽が漏れた。
 彼女の世界で、一番大切だった存在。

「ごめん」

 僕は、深く頭を下げる。

「遅すぎました。でも……もう。忘れない」 

 顔を上げる。

「美雪さんのこと。君のことも」

 噴水の水音が、静かに響く。
 長い沈黙の後、美雨は、ほんの少しだけ微笑んだ。

「それで、十分です」

 夕暮れの中庭に、僕ら二人の影が、静かに伸びていった。

 噴水の水音は、もう止んでいる。
 それでも、耳鳴りのように、さっきまでの言葉が頭の中で反響している。

 ──美雪は、確かにここにいた。
 その事実だけが、胸の奥に残った。

「……行きましょう。ここは、冷えます」

 僕がそう言うと、美雨──アリサは小さく頷いた。
 その表情は、もう何かを期待するものではなかった。
 彼女の頬を伝うのは、雨の雫か、それとも……。

 ◆◆◆

 屋敷の廊下は、夜になると音を失う。
 昼間は人の気配で満ちていた空間が、今はただ広く、冷たい。
 その中央に、彼はいた。

 執事長──バトラー。

 背筋を正し、いつもと変わらぬ姿勢で、廊下の先に立っている。
 まるで、この瞬間を待っていたかのように。

「……話は、終わりましたか」 

 それだけを、彼は言った。
 声に、感情はない。
 労わりも、詮索も、拒絶もない。

「ええ」

 僕は答える。

「全部、聞きました。美雪さんのことも、美雨さんのことも」

 バトラーさんは、何も言わなかった。
 その沈黙は、さっきまで噴水の前で向き合っていた沈黙とは、まるで質が違う。

 美雨の沈黙は、語り尽くした末の静けさだった。
 けれど、この人の沈黙は──

「……あなたは、全て、知っていたんですよね」

 問いかける。

「パーティー会場で会った際、直接名乗っていない筈の僕の名前を、貴方は知っていた。僕のことも、彼女達のことも、美雪さんが、どんなふうに消えていったのかも。城田家の終焉を唯一目にした貴方は、事前に全てを知った上で、何も語らなかった」

 それでも、バトラーさんは否定しない。
 肯定もしない。
 ただ、目を伏せた。
 それが、彼の答えだった。

「どうして、黙っていたんですか」

 全てを話していれば、美雪は消えずに済んだかもしれない?
 そんなこと、今更言っても、意味は無い。
 それでも、聞かずにはいられなかった。

 長い沈黙の後、バトラーは、初めて言葉を選ぶように口を開いた。

「……私が仕えていたのは、
 “真実”では、ありません」

 一拍。

「“お嬢様の日々”です」

 その声は、微かに、震えていた。

「誰かに語られ、整理され、理解されることで、あの子の日々が“物語”になってしまうのが……私には、どうしても耐えられなかった」
 
 雨音が、遠くで響く。

「美雪お嬢様は、悲劇の主人公でも、謎の被害者でもない。ただ……誰かを待って、笑って、暗号を作るのが好きな、普通の、子どもでした」

 だから、と。

「だから私は、語らない役を選びました」

 その言葉で、ようやく分かった。
 この人は、真実を隠したのではない。
 "時間"を、守っていたのだ。
 沈黙は、逃避ではなかった。
 彼なりの、守り方だった。
 僕は、何も言えなかった。
 正しいかどうかなんて、分からない。
 でも、間違っているとも、言える筈がない。

 バトラーさんは、深く一礼する。

「これで、私の役目は終わりです」

 そして、静かに踵を返した。その背中は、老いた執事のものだった。
 けれど同時に──
 誰よりも長く、あの少女の時間を抱えてきた人間の背中だった。
 彼が角を曲がり、姿を消す。
 廊下には、再び沈黙だけが残った。
 けれど、その沈黙はもう、重くはなかった。
 語られた真実と、語られなかった想い。その両方を抱えたまま、僕にとっての物語は、ようやく前に進み始めたのだと思えた。

 ──不意に、強くなる雨足。
 ほんの少しの静寂の余韻は、窓に打ち付けられた雨粒の音に、かき消された。

 降り注ぐ雨の中で、雪の記憶だけが、確かにそこに残っていた。














 1-⑨/Memories of snow in the rain~雨の中の雪の思い出~

 
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