そこは眷恋の檻

柊あまる

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第一章

再会_03

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 日が傾き始めた頃、王都の外れにあるビゼー男爵の邸宅前に、質素な屋敷には似つかわしくない豪華な馬車が停まった。
 ビゼー男爵とその夫人であるマリアンヌが、馬車から下りてきた若者を出迎える。
 二人の表情は、王国一の権勢と歴史を誇るヴェルネ侯爵家の子息を迎えるにしても、また馴染みのある甥っ子を迎えるにしても、あまり相応しいものではない。
 ラウルは自分が歓迎されていない雰囲気をはっきりと感じた。
「ヴェルネ伯爵。ようこそいらっしゃいました」
「お久しぶりね、ラウル」
 叔父と叔母は浮かべた表情とは正反対に、歓迎の言葉を口にする。
 ラウルも表情を変えずに軽く会釈をした。
「今宵一夜、シャルロットをお借りします」
「娘が無理を言ったようで申し訳ない」
 顔をしかめる男爵の言葉が意外で、ラウルは視線を上げた。
「誘ったのは僕のほうですが……」
「いや。あの子がとても王宮に行きたがっていたのは承知しています」
「リュシエンヌ姉さまにも手紙を送っていたのよ。一度は断られたのに、あの子ったら」
 この二人は、今宵の同伴をシャルロットがラウルに無理矢理頼み込んだものと思っているようだ。
 ラウルは苦笑を浮かべ、そのまま男爵邸のほうに足を向けた。

 シャルロットは、今宵のために白い肌が引き立つ淡いグリーンのドレスを身に着け、艶のある髪を高く結いあげていた。社交界デビューをした娘のために両親が仕立てたドレスのうち、一番豪華なものだ。
 そして元から美しい肌がさらに輝くような化粧を施し、デコルテには母に頼み込んで借りたエメラルドのネックレスを飾っている。
 鏡を見ながら、シャルロットは不安げに何度も確認した。
「ねぇ、どこかおかしなところはない? この格好で大丈夫かしら?」
 侍女たちは揃って困ったように微笑む。
 先日も訪ねてきた友人のエレーヌに、このドレスを見せては同じ質問を繰り返していたのだ。
「シャルロットさま。大丈夫ですよ。とてもお美しいですし、おかしなところなどありません」
 幼い頃からシャルロットの一番近くで世話をしてきた乳母が答える。この受け答えももう何度目か――
 その時、シャルロットはもちろんのこと乳母や侍女たちも待ちに待っていた、ヴェルネ伯爵到着の知らせが飛び込んできた。
(ラウル兄さまがいらした――!)
 ガタンと音を立てて椅子から立ち上がると、シャルロットは後ろに大きく膨らませたスカートの裾を掴み、部屋から飛び出した。
「シャルロットさまっ!」
 咎めるような乳母の声を背後に聞きながら、シャルロットはホールに向かって走る。
 高いヒールを物ともせず、軽やかな足取りで階段に近づくと、下からラウルの低くて艶のある声が聞こえてきた。
「ラウル兄さまっ」
 シャンデリアの灯りに照らされてラウルの銀髪が煌めいて揺れる。
 彼は顔を上げてシャルロットの姿を認めると同時に、優美な笑みを見せた。
「シャルロット」
 薄青の美しい瞳がまっすぐにシャルロットを見つめる。途端に大きく波打ち始めた胸を押さえて、シャルロットは階段をゆっくりと下りていった。
 正装をしたラウルは、凛々しさを増して一段と魅力的だ。
 階段を下りたら目の前に手が差しのべられる。シャルロットが頬を染めてその手を取ると、ラウルは彼女の指先にそっと唇をつけた。
 シャルロットは小さく息を呑む。
「君を王宮に連れていったら、後悔しそうだ」
「え……?」
 ラウルの言葉に、シャルロットは瞳を不安で曇らせた。
(私、やっぱりどこかおかしい?)
 その表情を読んだ彼は、ふと笑って囁く。
「舞踏会に来た男たちは皆、君の美しさの虜になる。今夜は片時も僕から離れてはいけないよ」
 そう言うラウルの目は、まっすぐシャルロットに向けられていて、言葉は真剣味を帯びていた。
「ラウル兄さま……」
 シャルロットは目を見開き、慣れない褒め言葉で顔を真っ赤に染める。
「気をつけていっておいで、シャルロット」
 ふいに背後から父の声が響き、シャルロットはハッとした。ラウルが目の前にいると、彼以外のことが視界に入らなくなってしまう。
 それを見透かしたように父は苦笑いした。
「お前は昔から変わらないな。彼が来るとずっと後をついて回って、決して傍を離れない」
「今宵はそのほうが安心ですわ。シャルロットをお願いね、ラウル」
 母も肩をすくめながら、ラウルの顔を見つめた。
 ラウルはうなずいて、そっとシャルロットの背中に手を回す。
「必ず無事にお返しします。では行こうか、シャルロット」
「はい、ラウル兄さま」
 親密に寄り添って歩く二人を見送りながら、両親は揃って複雑な表情を浮かべた。

 二人を乗せた馬車が走りだしてからしばらくして、日はすっかり暮れ、闇の気配に包まれた。
 だが城へ向かう何台もの馬車の灯りが連なり、小窓からは城下の街並みが横に流れていくのが見える。
 王宮が近づくにつれ、わかりやすくソワソワし始めたシャルロットを見て、向かい側に座るラウルはクスッと笑った。
「嬉しそうだね、シャルロット。そんなに宮廷舞踏会に出たかった?」
 言い当てられて、シャルロットは少し恥ずかしく思いながらも頷く。
「だってずっと憧れていたんだもの。すごく華やかだって聞くし。それに、もしそこで素敵な出会いがあれば……とても運命的だわ」
 シャルロットは、自分の胸の内を素直に口にした。
 だがラウルの表情が明らかに強ばったのに気付き、シャルロットは戸惑う。
「ラウル兄さま……?」
 社交界にデビューした者が、結婚相手を探すのは当然のことだ。むしろそれが第一の目的と言ってよい。
 シャルロットも先日デビューしたばかりだが、なるべく早いうちに、良い求婚相手が現れるに越したことはないと思っている。
(なにも、おかしなことは言っていないはず――)
 だが、ラウルの表情は強張ったままだ。
「シャルロット、よく聞いて」
 彼は座ったまま前かがみになり、シャルロットに真剣な眼差しを向けた。
「今日、君は僕と一緒に会場へ入ることで、大きな注目を浴びるだろう。君が何者かはすぐに広まると思うが……だからこそ気をつけなくてはならない」
(気をつけるって、何を……?)
 シャルロットは彼をじっと見つめ返し、首を軽く傾げる。
「王宮には、それなりの身分を持った者たちが多く出入りする。中には自分たちより身分の低い者には傍若無人な扱いをしても構わないと考える不遜な輩も、少なからずいる」
(身分の低い者……)
 それはまさに、シャルロットのことだった。
 本来なら宮廷舞踏会には参加することすら出来ず、ましてやラウルの横に並んで歩くことなど許されない立場である。
「そして、君は美しい。多分……いやきっと、会場にいる誰よりもね」
 その言葉に、シャルロットは目を丸くして息を呑む。
「ラウル兄さま……!」
「だから今夜は絶対に僕の傍を離れてはダメだ。わかったね」
 ラウルの薄青の瞳が、射抜くようにまっすぐシャルロットを捉えた。
 シャルロットの胸は、王宮へ足を踏み入れる期待や緊張とは違った高鳴りに震える。
(ラウル兄さまが……美しいと言ってくれた)
 それは身内に対する欲目や、エスコートする女性に対する礼儀としての誉め言葉とは違って聞こえた。
 シャルロットの胸は、苦しいほどに締めつけられる。
 デビューする前、シャルロットは王宮の舞踏会に出ることよりも先に、夢見ていたことがある。
 それは、ラウルと踊ること――
 デビュタントの白いドレスを着て、正装したラウルに寄り添い、美しい音楽に乗って得意のワルツを踊る。シャルロットはそれを、今よりずっと幼い頃から何度も想像し、強く憧れていた。
 だが、実際のデビューが近づくにつれ、それが到底叶わぬ夢だと知った。
 いくら幼なじみで血のつながった従兄でも、ラウルは侯爵家の子息。片田舎の小さな領地を治めるだけの男爵の娘とは、立場が違いすぎる。
 目の前に確固として立ちふさがる身分差は、幼い頃から抱き続けたシャルロットの淡い恋心をも、それと自覚する前に打ち砕いた。
「わかりました、ラウル兄さま。今宵はずっと……兄さまの傍に」
 小さく頷いて微笑んだシャルロットを見て、ラウルはホッとしたように表情を和らげた。
「シャルロット」
 ラウルの心配が、保護者としてのそれでも構わなかった。
(兄さまが私の隣にいてくれる……)
 今宵一夜だけは、昔から憧れていた夢のひとときを過ごせるのだ。
 そっとラウルに握られた手を、シャルロットは静かに握り返した。

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