そこは眷恋の檻

柊あまる

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第二章

迷い_03

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 一人娘であるシャルロットは、穏やかで高潔な人柄の父と、優しく明るい性格の母に大層可愛がられて育った。
 だが心配性の口うるさい乳母がついていたし、両親の真面目な性格が幸いし、シャルロットはワガママな娘にはならずに済んだ。
 小さな頃から今まで、こうしたいああしたいと素直に口にはしても、本当の意味で家族を困らせたことはない。

「今の話は……本当なの?」
 怒りに顔を真っ赤に染めた父の背後から、母のマリアンヌが震えながら声を発した。
「シャルロット。あなた、ラウルと……?」
 ハッとして母の方を振り向き、シャルロットは首を横に振る。
「違うわ、お母さま! 私たちそんな関係じゃ……」
「ではどんな関係だと言うのだ!」
 父は怒りに拳を震わせたまま、再びテーブルを力任せに叩いた。
「これまで招待された社交場では必ずヴェルネ伯爵が付き添っていたというではないか。私たちはずっと、彼がお前をエスコートしたのは宮廷舞踏会の時だけだと思っていた。どういうことなんだ」
 シャルロットは息を呑む。
 そのことについては、何も言い訳出来ない。
 父が良く思わないことを承知で、二人はこっそり示し合わせ、共に出かけていた。
「まさか……すでに傷ものにされたわけではあるまいな」
 父の言葉に、シャルロットは信じられないと言わんばかりに目を見開く。
「私は純潔ですっ! ラウル兄さまは、そんなこと……」
「だが世間はそう思っていないぞ、シャルロット。愛人というのは、そういうことだ」
 非難の言葉が、彼女の胸を深く抉る。
 周囲からラウルの愛人だと思われていることは、シャルロットも知っていた。だが愛する父や母からこんな風に糾弾されるのは、想像以上にツラく胸が痛い。
「そうじゃないの、お父さま……」
 自分とラウルの関係をどう説明したら理解してもらえるだろう。二人が共にいることを、どうしたら許してもらえるのか――
 シャルロットは必死に考えるが、すぐには答えが出ない。
 父は怒りに震えたまま、黙り込む娘に告げた。
「この噂が収まるまで、社交場への出入りを禁止する。ヴェルネ伯爵とは二度と会うことを許さん。お前には、身分に相応わしい結婚相手を私が探す。わかったな」
「そんな、お父さまっ!」
 シャルロットの悲痛な声に耳を貸すことなく、父は踵を返し部屋を出て行った。
 父の後を追いかける母の責めるような眼差しにも、シャルロットは応えることができない。
 乳母だけが部屋に残り、胸を押さえてその場にうずくまるシャルロットに慌てて近付いてきた。
「シャルロットさま」
「どうしたらいいの……。愛人なんかじゃない。ラウル兄さまは、私を愛してると言ってくださったの。お父さまたちにも、結婚したいと正直に伝えるって」
 そう訴えると、乳母はシャルロットと共にその場へ屈み、優しく彼女の背中をさすりながら言った。
「では、ラウルさまがいらっしゃるのを待つのです。伯爵が直接お越しになれば、旦那さまも無下にはできません。それに今は噂を耳にしたばかりで激昂しておいでです。少し時間を置いて落ち着くのを待ちましょう」
 冷静な乳母の言葉に、シャルロットは何度も頷き、涙をポロポロこぼした。
 乳母は、幼かった二人の親密さやシャルロットのラウルに対する密やかな憧れも、傍でつぶさに見てきた。泣き崩れるシャルロットをなだめながら、乳母はこの恋の行く末の厳しさを思い、胸を痛めた。

 それからというもの、ビゼー男爵は言葉通り、シャルロットの外出の一切に制限をかけた。
 社交場へは出入り禁止。
 唯一出かけることを許されたのは、友人エレーヌのいるフーリエ伯爵邸に行く時のみ。それも乳母を伴うことが絶対条件だ。
 ラウルからの連絡も途絶えた。手紙も贈り物もすべて、シャルロットの元には届かない。
 マメに連絡を寄越していたラウルが、急に何もしなくなるとは考えにくい。両親がそれらをシャルロットの目に触れないようにしていることは明らかだった。
(ラウル兄さまに会いたい……)
 急に連絡が取れなくなったことを、彼は心配しているに違いない。
 シャルロットはこれまでずっと、ラウルとの逢瀬に後ろめたさを感じていた。
 社交場へ行けば愛人として後ろ指をさされ、身の置きどころがない思いもした。
 それでもラウルに会えるならばと――
 シャルロットは、彼の薄青の瞳が彼女を映す時、そこに甘い色が滲むのを見るのが好きだった。
 固く結ばれた唇は、自分の前でだけ柔らかい弧を描く。
 愛おしげな眼差しと触れる指先から、狂おしいほどに自分を求める彼の気持ちが伝わってきた。
 ラウルに会えなくなり、シャルロットの胸には彼に会いたい気持ちがより一層募る。
「兄さま……」
 シャルロットは目を瞑り、まぶたの裏に愛しい彼の姿を思い描いては、恋しさに涙をこぼした。

   ***

 シャルロットからの返事が途絶えて、10日が過ぎた。
 再会して以降、ラウルは彼女に対し、ビゼー男爵夫妻に怪しまれない程度にささやかな贈り物をし、マメに手紙を送ってきた。
 これまで、シャルロットからの返事がなかったことは一度もない。
(男爵の耳に入ったか……)
 危惧していた事態に陥ったことを、ラウルは悟った。
 最愛の一人娘に汚名を着せた自分を、ビゼー男爵は決して許さないだろう。
 ラウルも幼い頃から、彼には世話になってきた。だからこそ、互いの性格を知り尽くしている。
 真面目で高潔な男爵の人柄は尊敬すべきものであるが、この状況においては厄介なものだと感じられた。
 身分違いの結婚によるリュシエンヌの苦労を、ビゼー男爵夫妻も目の当たりにしている。娘に同じ苦労をさせたくないと考えるのは当然だった。
 実際のところ、シャルロットがデビューするまでの二年間、二人が会わずにいたのには訳がある。
 あまりにも親しすぎるラウルとシャルロットの仲を心配したビゼー男爵と夫人は、リュシエンヌとも相談し、ビゼー領への里帰りを止めさせたのだ。
 当時、ラウルはすでに社交界へ出入りするようになっていたし、ヴェルネ伯爵として領地の管理にいそしみ、王宮へ出入りする機会も増えていた。
 社会的に一人前とみなされた男が、未婚の娘のいる屋敷へ頻繁に通うのは、外聞が悪いと思ったのだろう。
 これ以上、二人を近付ける訳にはいかない――親たちはそう考えたのだ。
 だがその思惑に反し、二人は再会してしまった。
 本来なら出入りする社交場の格が違うが故に、シャルロットがリュシエンヌに会おうとしなければ、二人の再会はずっと後になっていたはずだ。普通に考えれば二度と顔を合わせることも、なかったかもしれない。
 そのような状況で正式に結婚を申し込んだとしても、ビゼー男爵がそれを受け入れるとは到底思えなかった。
(それでも、シャルロットを諦めたりはしない)
 ラウルには彼女を手に入れるためならば、どんなことでもする覚悟があった。
「持久戦は構わないが……会えないのは辛いな」
 ラウルは誰もいない屋敷の自室でそう呟き、何かを思い立ったように身を翻す。そして執務机の引き出しを開け、中から羊皮紙とインクを取り出した。机の上に置かれていた羽ペンを握りそのまま一心不乱に何かを書きつけると、すぐに執事のオーブリーを呼び出す。
 オーブリーが姿を見せ、ラウルは彼の手に封蝋を施した手紙を渡した。
「これをビゼー男爵に」
 そう言ってまた机に戻り、再び手紙を書き始める。
「お渡し先はご令嬢ではなく、男爵で宜しかったですか?」
 オーブリーが確認を入れると、ラウルは顔も上げず手を動かし、何かを書きながら頷いた。
「ああ。男爵に頼む」
「かしこまりました」
 ラウルより10ばかり年上であるオーブリーは軽く頭を下げ、部屋を出て行く。
 その後もラウルは複数人に宛てた手紙を綴り、送り先を指示することを何度も繰り返した。

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