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『花倉の乱(激闘)編』 天文五年(一五三六年)
第36話 留守居はお任せあれ
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五郎八郎が指摘した通り、堀越、久野、福島連合軍はわずか一日朝日山城を取り囲んだだけで、軍をまとめて東海道を東に進路を取った。まるでこの城が進軍する上での集合地点であったかのようである。
三家の旗指物を見るに、実際、花倉城と方の上城の合流地点にされていたのだろう。
五郎八郎はその陣容を見て勝ったと確信した。
兵数を書いた書面を美濃守に渡し、彼らが今川館に到着するより先に辿り着くように大急ぎで伝令を飛ばして欲しいとお願いした。兵数さえわかってしまえば、雪斎禅師であればいかようにも対処が可能であろう。
翌朝、城前から敵軍がいなくなった事で美濃守は人心地ついていた。家人たちも同様で、今日は一献しようなどと言い出す者までいる始末。
そこに五郎八郎はつかつかとやって来て美濃守の前にどかりと座った。
「美濃殿、兵の一部を率いて今川館に向かってくだされ。今行けば恐らく、彼らが場内でガチャガチャやっている後背を突けるはずです。焦る必要はありません。彼らが館攻めに集中している所を突くのです」
美濃守は目を丸くして五郎八郎の顔を見た。気持ちの緩みきっていた家人たちも、その提言で表情を引き締めた。
「だが、我々が出て行ってしまったらこの城は……」
それに勝手に打って出たと言って父に叱責されたりしないであろうか? そんな美濃守の不安を五郎八郎は鼻で笑った。
「あれだけの兵数ですよ? 方の上城にも花倉城にも、もう守備兵くらいしか残っていませんよ。こちらも最低限の守備兵がいれば問題ありません。それがしが何とか留守と皆さんのご家族くらい守ってみせます」
焦って攻める機会を間違え、敵に袋叩きに遭いさえしなければ左京進は叱責したりしないはず。その五郎八郎の説明に美濃守は安堵したらしい。家人たちにすぐに出陣の準備をしろと命じた。
留守居役となった五郎八郎は、その間も遠江衆への説得工作を継続している。特に力を入れているのは久野三郎。
今回の騒動で福島上総介は、わざわざ土方城ではなく久野城で挙兵をした。久野城は見附城の東、懸川城の西に位置している。ここを恵探側に付ける事で、朝比奈備中守の動きを牽制したのだろう。
逆に言えば、ここが落ちれば懸川城は何の遠慮もなく旗色を鮮明にできるという事である。
それともう一人、小笠原信濃守。
小笠原家の馬伏塚城は北に堀越の見附館、東の山は土方城という位置にある。ここがこちらになびけば両城への最大の睨みになる。
二人宛ての書状を書いていると、小姓の弥三が逃げ込んできた。
「弥三はどこだ!」という可愛らしい声が廊下から聞こえてくる。
「何があったんだ? まさかと思うが、ここの家族や家人たちと揉めたのではあるまいな?」
弥三は顔の所々を赤く腫らしながら滅相もございませんと首をプルプル横に振っている。
すると廊下から「弥三卑怯だぞ!」という声が聞こえてきた。声の主が先ほどよりも近づいてきているように感じる。
「ここの家人の方から重千代様と手合わせをお願いしたいと言われまして。それで手合わせをしたのですが、すばしっこい上に打ち込みが鋭くて、その上容赦が無くて……」
弥三の言う重千代は恐らく左京進の一番下の子の事であろう。美濃守の年の離れた弟である。ただ……まだ五歳だったはず。
うちの小姓は五歳の小僧に手合わせでここまでこてんぱんに負けたのだろうか?
……いざと言う時にそんな事で大丈夫なのか?
「あ! このようなところに! 弥三! 逃げるとは卑怯なり!」
重千代は裾を捲り上げており、下半身ふんどし一丁で小さな尻を丸出しに、少し短めの木刀を弥三に突きつけた。
重千代の恫喝に弥三は完全に怯え切っている。
……何この生意気そうな小僧。これはこの子の為にも少し灸を据えねば。
五郎八郎は口元を歪め非常に悪い顔をした。
五郎八郎は重千代を部屋の中に入れるとそっと戸を閉めた。立って木刀を構えよと弥三に命じ、自身も腰の刀を抜き重千代に切っ先を向ける。
「な……何をするのだ! こちらは木刀だぞ! それに真剣を持ち出すなど、それも二人掛かりで。卑怯だとは思わぬのか!」
泣きそうな顔で凄む重千代を五郎八郎は鼻で笑った。
「戦場では卑怯も何も無い! このような罠に簡単に引っかかって孤立したそなたが悪いのだ。潔く首を差し出されよ!」
重千代は五郎八郎の啖呵に屈し、泣き出しそうな顔で床にへたり込んだ。
「よろしいですかな重千代君。武働きと申しても、ただ勇敢に敵に突っ込めば良いというものでは無いのです。ご自分が誘い込まれた事にも気づかぬようでは、それは匹夫の勇というものですぞ」
兵は喜んで付いて来るかもしれないが、ただそれだけ。全員玉砕して全滅である。自分を慕う兵をそんな目に遭わせたいのか?
重千代は五郎八郎の説教にわんわんと泣き出してしまった。五郎八郎が刀を鞘に納めると、重千代の泣き声を聞いて家人が慌てて駆けつけてきた。
何の音沙汰も無い中、翌日の朝を迎えた。
テレビや電話がいかに画期的なのか無くなってみて初めてそのありがたみがわかる。どんな事でも携帯電話でメッセージを送れば、すぐに向こうの状況がわかる。それがどれだけ凄い事であったのか。情報が無い事がこんなにも不安だとは。
岡部家の家人が朝食にしましょうと呼びに来た。
朝食を取ろうというところで重千代がやってきた。どうしても一緒に食事がしたいのだとか。
行儀良くできるのであれば、そういう条件で五郎八郎は重千代を同じ食事の席に着かせた。
ところが重千代は食事そっちのけで五郎八郎の話を聞きたがる。家人たちが食事の後にしましょうと窘めるのだが、重千代は全く忠告を聞こうとしない。
そんな重千代を五郎八郎は睨みつけた。
「重千代君。私の話が聞きたいという事なので一つだけ。僧である我が兄から聞いた話です。古今東西どのような王も、周囲の忠言に耳を貸さずして成功した例は無いそうです。これがどういう事かよく考えなされ」
五郎八郎がぴしゃりと言って朝食を再度食べ始めると、重千代は家人の顔を見て静かに朝食を取り始めた。
その二日後、雪斎禅師と岡部親子が一軍を率いて朝日山城に帰還した。弟因幡守や惣左衛門尉、匂坂六郎五郎、新野左京之介も一緒である。
大広間に集まった雪斎禅師たちは、五郎八郎の顔を見ると留守居ご苦労様と労った。そこからまだ陽も高いというに酒を呑み始めてしまった。
今川館攻防戦の話で盛り上がっている左京進たちを他所に、雪斎禅師は五郎八郎を連れて別室に向かった。
「乱戦の中、敵の背後を突く増援の派兵、お見事であった。おかげで完全に敵は浮足立って撃退する事ができたよ。で、そちらの首尾はいかがか?」
雪斎禅師の問いに、五郎八郎は井伊宮内少輔と久野三郎を重点的に説得している事、父からの書状から堀越、福島、井伊、久野を除く全ての国人が中立、もしくはこちらになびいている事を報告。また、既に堤城に二俣城と秋葉城の兵が入っており、いつでも土方城攻略に入れる旨も報告した。
「五日後にこちらも花倉城に向けて出立する。左京進には方の上城に向かってもらう。そなたも土方城攻略に向けて堤城に向かってくれ」
「承知しました」と雪斎禅師の命に五郎八郎は短く答えた。
では宴席に戻ろうと言って立ち上がった雪斎禅師は、振り返って五郎八郎に微笑みかけた。
「そうそう、五郎八郎殿。北条は向こうを見限ってこちらに鞍替えしてきたよ。武田も扇谷上杉も静観。やつらにはもう支援は無い。つまりは次が最終局面という事だ」
三家の旗指物を見るに、実際、花倉城と方の上城の合流地点にされていたのだろう。
五郎八郎はその陣容を見て勝ったと確信した。
兵数を書いた書面を美濃守に渡し、彼らが今川館に到着するより先に辿り着くように大急ぎで伝令を飛ばして欲しいとお願いした。兵数さえわかってしまえば、雪斎禅師であればいかようにも対処が可能であろう。
翌朝、城前から敵軍がいなくなった事で美濃守は人心地ついていた。家人たちも同様で、今日は一献しようなどと言い出す者までいる始末。
そこに五郎八郎はつかつかとやって来て美濃守の前にどかりと座った。
「美濃殿、兵の一部を率いて今川館に向かってくだされ。今行けば恐らく、彼らが場内でガチャガチャやっている後背を突けるはずです。焦る必要はありません。彼らが館攻めに集中している所を突くのです」
美濃守は目を丸くして五郎八郎の顔を見た。気持ちの緩みきっていた家人たちも、その提言で表情を引き締めた。
「だが、我々が出て行ってしまったらこの城は……」
それに勝手に打って出たと言って父に叱責されたりしないであろうか? そんな美濃守の不安を五郎八郎は鼻で笑った。
「あれだけの兵数ですよ? 方の上城にも花倉城にも、もう守備兵くらいしか残っていませんよ。こちらも最低限の守備兵がいれば問題ありません。それがしが何とか留守と皆さんのご家族くらい守ってみせます」
焦って攻める機会を間違え、敵に袋叩きに遭いさえしなければ左京進は叱責したりしないはず。その五郎八郎の説明に美濃守は安堵したらしい。家人たちにすぐに出陣の準備をしろと命じた。
留守居役となった五郎八郎は、その間も遠江衆への説得工作を継続している。特に力を入れているのは久野三郎。
今回の騒動で福島上総介は、わざわざ土方城ではなく久野城で挙兵をした。久野城は見附城の東、懸川城の西に位置している。ここを恵探側に付ける事で、朝比奈備中守の動きを牽制したのだろう。
逆に言えば、ここが落ちれば懸川城は何の遠慮もなく旗色を鮮明にできるという事である。
それともう一人、小笠原信濃守。
小笠原家の馬伏塚城は北に堀越の見附館、東の山は土方城という位置にある。ここがこちらになびけば両城への最大の睨みになる。
二人宛ての書状を書いていると、小姓の弥三が逃げ込んできた。
「弥三はどこだ!」という可愛らしい声が廊下から聞こえてくる。
「何があったんだ? まさかと思うが、ここの家族や家人たちと揉めたのではあるまいな?」
弥三は顔の所々を赤く腫らしながら滅相もございませんと首をプルプル横に振っている。
すると廊下から「弥三卑怯だぞ!」という声が聞こえてきた。声の主が先ほどよりも近づいてきているように感じる。
「ここの家人の方から重千代様と手合わせをお願いしたいと言われまして。それで手合わせをしたのですが、すばしっこい上に打ち込みが鋭くて、その上容赦が無くて……」
弥三の言う重千代は恐らく左京進の一番下の子の事であろう。美濃守の年の離れた弟である。ただ……まだ五歳だったはず。
うちの小姓は五歳の小僧に手合わせでここまでこてんぱんに負けたのだろうか?
……いざと言う時にそんな事で大丈夫なのか?
「あ! このようなところに! 弥三! 逃げるとは卑怯なり!」
重千代は裾を捲り上げており、下半身ふんどし一丁で小さな尻を丸出しに、少し短めの木刀を弥三に突きつけた。
重千代の恫喝に弥三は完全に怯え切っている。
……何この生意気そうな小僧。これはこの子の為にも少し灸を据えねば。
五郎八郎は口元を歪め非常に悪い顔をした。
五郎八郎は重千代を部屋の中に入れるとそっと戸を閉めた。立って木刀を構えよと弥三に命じ、自身も腰の刀を抜き重千代に切っ先を向ける。
「な……何をするのだ! こちらは木刀だぞ! それに真剣を持ち出すなど、それも二人掛かりで。卑怯だとは思わぬのか!」
泣きそうな顔で凄む重千代を五郎八郎は鼻で笑った。
「戦場では卑怯も何も無い! このような罠に簡単に引っかかって孤立したそなたが悪いのだ。潔く首を差し出されよ!」
重千代は五郎八郎の啖呵に屈し、泣き出しそうな顔で床にへたり込んだ。
「よろしいですかな重千代君。武働きと申しても、ただ勇敢に敵に突っ込めば良いというものでは無いのです。ご自分が誘い込まれた事にも気づかぬようでは、それは匹夫の勇というものですぞ」
兵は喜んで付いて来るかもしれないが、ただそれだけ。全員玉砕して全滅である。自分を慕う兵をそんな目に遭わせたいのか?
重千代は五郎八郎の説教にわんわんと泣き出してしまった。五郎八郎が刀を鞘に納めると、重千代の泣き声を聞いて家人が慌てて駆けつけてきた。
何の音沙汰も無い中、翌日の朝を迎えた。
テレビや電話がいかに画期的なのか無くなってみて初めてそのありがたみがわかる。どんな事でも携帯電話でメッセージを送れば、すぐに向こうの状況がわかる。それがどれだけ凄い事であったのか。情報が無い事がこんなにも不安だとは。
岡部家の家人が朝食にしましょうと呼びに来た。
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行儀良くできるのであれば、そういう条件で五郎八郎は重千代を同じ食事の席に着かせた。
ところが重千代は食事そっちのけで五郎八郎の話を聞きたがる。家人たちが食事の後にしましょうと窘めるのだが、重千代は全く忠告を聞こうとしない。
そんな重千代を五郎八郎は睨みつけた。
「重千代君。私の話が聞きたいという事なので一つだけ。僧である我が兄から聞いた話です。古今東西どのような王も、周囲の忠言に耳を貸さずして成功した例は無いそうです。これがどういう事かよく考えなされ」
五郎八郎がぴしゃりと言って朝食を再度食べ始めると、重千代は家人の顔を見て静かに朝食を取り始めた。
その二日後、雪斎禅師と岡部親子が一軍を率いて朝日山城に帰還した。弟因幡守や惣左衛門尉、匂坂六郎五郎、新野左京之介も一緒である。
大広間に集まった雪斎禅師たちは、五郎八郎の顔を見ると留守居ご苦労様と労った。そこからまだ陽も高いというに酒を呑み始めてしまった。
今川館攻防戦の話で盛り上がっている左京進たちを他所に、雪斎禅師は五郎八郎を連れて別室に向かった。
「乱戦の中、敵の背後を突く増援の派兵、お見事であった。おかげで完全に敵は浮足立って撃退する事ができたよ。で、そちらの首尾はいかがか?」
雪斎禅師の問いに、五郎八郎は井伊宮内少輔と久野三郎を重点的に説得している事、父からの書状から堀越、福島、井伊、久野を除く全ての国人が中立、もしくはこちらになびいている事を報告。また、既に堤城に二俣城と秋葉城の兵が入っており、いつでも土方城攻略に入れる旨も報告した。
「五日後にこちらも花倉城に向けて出立する。左京進には方の上城に向かってもらう。そなたも土方城攻略に向けて堤城に向かってくれ」
「承知しました」と雪斎禅師の命に五郎八郎は短く答えた。
では宴席に戻ろうと言って立ち上がった雪斎禅師は、振り返って五郎八郎に微笑みかけた。
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