51 / 57
『河東の乱編』 天文六年(一五三七年)
第51話 駿府に越してまいれ
しおりを挟む
まさに間一髪。
武田軍から撤退の使者が来て、お館様たちが守備隊を残し駿府城に引き上げて来る、そのわずか半日前に井伊宮内少輔と宮内少輔の末妹木蓮が駿府城に到着した。
五郎八郎は二人を連れて寿桂尼の元へ行き、井伊家は此度の反乱を心から悔いていると説明した。お詫びでは無いが両家の結びつきを強固なものとする為、お館様に井伊家の姫を側室に貰っていただこうと思っていると。
寿桂尼にもそれなりに情報は入っており、井伊家が戦犯かのような扱いを受けるであろう事は想像に難くない。何とかそこを一緒に説得して欲しいと五郎八郎は言いたいのであろう。
五郎八郎の若干焦った顔を見て、寿桂尼は口元に袖を当てくすりと笑った。
「五郎八郎殿、お館様たちが戻られる前にお二人が到着して良かったですわね」
五郎八郎の笑顔は完全に引きつった。隣で宮内少輔が床に額を擦り付けん勢いで平伏している。
城に戻って来たお館様と雪斎禅師は非常に機嫌が悪かった。戻って早々にそんな二人から五郎八郎は呼び出しを受けた。どうやら寿桂尼もらしく、その粗略な扱いに若干機嫌が悪い。四人中三人が機嫌が悪く、室内は非常に空気が重い。
「くそっ! 堀越治部少輔さえ余計な事をしなければ、防衛線を築かれる前に興国寺城を包囲できたのに!」
お館様も雪斎禅師も怒り心頭である。
ああでもないこうでもないと愚痴を言いまくった挙句、そのとばっちりが五郎八郎に向かってきた。
「そなたがあの時、堀越と井伊を処分するのに反対しなければ、かような事にはならなかったのだ」
恨みがましく言う雪斎禅師へ、五郎八郎が冷たい視線を送る。
「ならば伺いますが、もし両家をあそこで処断していたとして、此度の一件が本当に防げたとお思いですか? 私には他にも致命的な原因があったように感じるのですが?」
名刀のような切れ味を持った五郎八郎の一言に、雪斎禅師がぐっと喉の奥を鳴らして悔しがった。
ただ、どうやらお館様はその発言で五郎八郎が何か交渉したい事があると感じたらしい。目を細め、そう簡単には説得はされぬという意志を示す。
実際、全ては堀越治部少輔の野心に起因しており、雪斎禅師の愚痴はあながち間違いでは無い。つまりは蒲原城で暇をしている間、お館様と雪斎禅師で出した答えがそれであったのだろう。
確かに今にして思えば、あの時、堀越家だけでも処分しておくべきだったと五郎八郎も思わなくはない。ただ、あの段階で堀越治部少輔を処分したら、間違いなく井伊家も同罪とされていたであろう。
そして今回、堀越、井伊の両家が背いたという報のせいで、お館様たちが身動き取れなくなってしまった、それもまた事実。
一人では間違いなく井伊家存続の説得は困難であっただろう。事前に寿桂尼様を抱き込んでおいて本当に良かったとしみじみ思う。
「さすがに今回は堀越家にしても、井伊家にしても取り潰しに反対したりはしないであろうな?」
お館様は少し拗ねたような顔をして、睨むような視線で五郎八郎に言った。
謀反は鎮圧されたというざっくりとした報告しか、どうやら二人の耳にはまだ入っていなかったらしい。堀越治部少輔を自刃させた事を報告すると、雪斎禅師と顔を見合わせ、かなり驚いた顔をした。
「それと井伊家ですが、戦わずに降伏し、その上で三河の奥平、戸田、鈴木の三家の誘引に成功しております。それだけの功績を無視して、一時旗色を変えたという点だけを見て処断なさるおつもりですか?」
お館様にしても雪斎禅師にしても、まだ駿府に戻ったばかりで遠江戦線の詳しい情報が入っていない。それだけに反論が難しかった。その功績は本当は五郎八郎の案なのだろうと疑いの目を向けるので精一杯であった。
だが、「例え他人の案であっても功は功」と寿桂尼からも指摘されてしかい、ぐうの音も出なかった。おまけに、「片や領土を取られ、片や支配域を増やした」と比較されてしまっては、もはや歯噛みするしか無かった。
「どうせ今回は形勢不利だとみてこちらに尻尾を振っただけで、また何かあれば牙を向けてくるのと違うか?」
お館様は明らかに信用に足らんという態度を取った。さらには雪斎禅師まで、二度あることは三度あると昔から言うと冷たい目で五郎八郎を見ている。
「確か以前、お二方は一族の誰かをお館様の側室に差し出せるならば信用できるとおっしゃってましたよね? 宮内殿は妹御を連れてこの城に挨拶に参っていますよ?」
五郎八郎がそこまで言ってもお館様は、どうせ行き遅れか醜女《しこめ》だろうと全く興味を示さない。自分から見てもかなりの美女だと言ったのだが、雪斎禅師は「五郎八郎の内儀が美女だという話を聞いた事が無い」と言い出す始末。
さすがにそれには寿桂尼が黙っておらず、「人様の内儀の容姿を馬鹿にするとは何たる非礼!」と雪斎禅師に説教をかました。
「手の届かぬ柿を見て、やれ青いだの渋いだのとおっしゃらず、実際に会ってご覧になられたら良いではありませぬか」
そう寿桂尼に叱られ渋々という感じで、お館様は宮内少輔と木蓮に対面する事となった。
木蓮の顔を見たお館様は、ほうと言ったまま視線を釘付けにしてしまったのだった。
後日の評定では、井伊家は功有りとしてお咎め無しとなった。
また、松井五郎八郎、久野三郎四郎、天方民部少輔、天野小四郎、山内対馬守には感状が発行された。
****
こうして河東郡が北条家に奪われたまま、そこから大きな動き無くその年は過ぎ去った。明けて正月。
新年の挨拶評定を前に、五郎八郎はお館様の呼び出しを受ける事になった。
一足早く新年の挨拶をすると、寿桂尼はまずは一献と言ってお屠蘇をかわらけに注ぐ。お館様のかわらけにも雪斎禅師のかわらけにもお屠蘇を注ぎ、自分も少しだけ注ぎ、まずは喉を潤した。
お屠蘇を飲み終えると、雪斎禅師が唐突に千寿丸君の元服と祝言の準備は順調に進んでいるかと聞いてきた。
兄山城守の遺児千寿丸は今年で十三歳。五郎八郎が元服した歳である。
方々に断られた五郎八郎の時とは異なり、他方から誘いを受けており、烏帽子親は岡部左京進にお願いし、婚儀の相手は飯尾豊前守の長女の龍と決まっている。
暖かくなった三月頃、桜を見ながら元服をし、それから祝言をあげてはどうかと花月院とは話をしている。
「なれば二俣城はもうその者に任せれば良かろう。奥方と何人か家人を連れて駿府に越してまいれ。正式にそなたを側近に取り立てる。雪斎禅師とそなた、義母上、三人でそれがしを支えて欲しいのだ」
お館様はお屠蘇の入った銚子を五郎八郎に差し出し、どうかなとたずねた。
五郎八郎はかわらけを差し出し、注がれたお屠蘇を飲み干すと平伏し謹んでお受け致しますと述べた。
こうして千寿丸を二俣城代として、五郎八郎は駿府に移り住む事となった。
横見藤四郎、薮田権八、魚松弥次郎といった亡き兄上の家人たちは二俣城に、和田八郎二郎、常葉又六、篠瀬藤三郎は駿府に来る事となった。
福島孫二郎は姓を蒜田と改め、二俣城に残って兵の訓練に明け暮れている。
女性陣では、花月院は二俣城に、菘、萱、静、仙、露草は駿府に来てもらっている。
輿に揺られ駿府城下の屋敷までやってきた菘は、籠から降りると早々に嘔吐した。そういえば菘は乗り物酔いが酷く堀江城から二俣城に来た時もそんな感じであったと、最初はその報告を気にも止めていなかった。
だが翌朝、五郎八郎は八郎二郎からとんでもない報告を受ける事となる。
実は菘は懐妊しているのだそうだ。
五郎八郎が見たのは布団で寝ている姿だったので気付かなかったのだが、実はもうお腹も少し目立つくらいなのだとか。
「何でそんな状態で駿府に連れて来たんだよ! 何かあったらどうするつもりなんだ!」
五郎八郎の怒りに八郎二郎は申し訳ございませんと平謝りであった。
八郎二郎の話では、今回の菘の駿府行きを家人は全員で止めたのだそうだ。出産して肥立ちを見てからでも遅くは無いからと言って。だが、菘のたっての希望という事で押し切られてしまったらしい。
花月院と舞の懇願があったらしい。
舞は八郎二郎に嫁いでからは露草と共に菘の侍女をしている。当然、菘と五郎八郎の仲が上手くいっていない時期の事を知っている。
菘は妊娠で気分が不安定になっていて、五郎八郎が不在の間、また知らない女性を妾として連れて来るのでは無いかと何度も花月院に相談していたのだそうだ。その都度、花月院はそんなことは無い、前回よく言って聞かせたからと菘をなだめたのだが、菘の不安は払拭できなかった。
文を送って懐妊した事だけでも知らせてあげてはと花月院は助言したのだが、お勤めの邪魔をしてはいけないからとそれもしない。
まさか菘を差し置いて花月院が文を送るわけにもいかず。
そんな時に駿府への転居の話が入って来たのだった。菘は絶対に行くと言って聞かなかった。駿府でこの子を産むんだと言って。
……つまりは菘が無理をしたのは自分のせいであった。あの時の静との件が原因であった。そう考えたら誰も責める事はできなかった。
こうなったら無事子供が産まれてくる事を、ただひたすらに祈るのみ。
****
それから数か月後の事。
大広間では五郎八郎、父上、源信がどこか落ち着かない面持ちで無言で腰を据えている。そんな三人を前に、家人たちもどうにも落ち着かない様子。
父上は千寿丸元服の際、千寿丸に兵庫助を名乗らせ、自分は父と同じ山城入道を名乗っている。その山城入道と五郎八郎が、交代で立ったり座ったりを繰り返し、何かあったのではないか、少し遅いのではないかと言い合っている。それを二人とも少し落ち着かれよと源信が笑ってたしなめている。
そんな雰囲気の中、とたとたといくつかの小さな足音が近づいてきた。
「殿! おめでとうございます! 此度の稚は男の子にございました!」
汗だくになった露草と舞がそう伝えに来たのだった。
待望の嗣子の誕生に五郎八郎以上に山城入道が大興奮している。
山城入道が感極まって、上着を脱ぎ上半身裸になって縁側で雄叫びをあげる。その状態で誰彼構わず抱き着いたものだから、屋敷の下女が次々に悲鳴をあげる。家人たちも飛んだり跳ねたり叫んだりと、まるでお祭り騒ぎ。
菘の下に向かうと、やっと嫡男が産まれたと言ってほろほろと涙を流していた。
「よく頑張ったね。待望の嫡男だよ。さっき源信和尚に考えて貰って『徳王丸』って名前にしたんだ。どうかな?」
菘は顔を布団で隠して震えている。非常にか細い声ながら「素敵な名前」と言う声が聞こえてきた。布団を無言でぽんぽんと叩くと、恥ずかしそうに菘は顔を見せた。
そこに祝い酒だと言って左手に銚子、右手にかわらけの状態で酒を飲みながら山城入道が現れた。「父上! 少しは自重ください!」と源信にたしなめられながら。完全に酔っぱらって、脱いでいる上半身まで真っ赤に火照った山城入道。母上に耳を引っ張られて、その場から強制的に退場させられて行く。
その日の夜は、駿府城下に住む今川家中の方々がお祝いの挨拶に訪れて、大広間はまさに大宴会場と化した。山城入道は近侍として松井惣左衛門尉を連れて来ており、宴会を大いに盛り上げてくれた。
翌日、父の山城入道は少し話があると言って五郎八郎の部屋にやって来た。
小姓の弥三に退出するように言うと誰も近づけるなと厳命。
山城入道は昨晩の完全に羽目を外した顔とは、打って変わって真面目な顔をして茶をすすった。
「五郎八郎、それがしは近々隠居しようと思う。惣領をそなたに任せようと思うのだ」
今のままではいずれ兵庫助と徳王丸とで二俣城の家督をめぐって争いとなってしまう。
五郎八郎はこれまで兵庫助を嗣子として扱ってきており、ここに来て元服も果たした。自分が本来の嗣子だという思いは兵庫助も少なからず持っているだろう。
だから兵庫助には堤城を継がせ、二俣城は徳王丸に継がせる。惣領を五郎八郎に譲ったとなれば、兵庫助も自分は嗣子ではないと諦めがつくであろう。
そんな山城入道の説明を聞き、五郎八郎は目を伏せゆっくりとお茶をすすった。湯飲みを床に置き細く息を吐いた。
「まだ徳王丸は生まれたばかりですよ。この先どうなるかはわかりません。兵庫もそう頻繁に嗣子にされたり外されたりでは気持ちが落ち着かないでしょう」
徳王丸の元服が近づいたら、その時に改めて考えれば良い事。もしかしたらその頃には松井家の領土は遠江だけでは無いかもれしれないのだから。
「それに、父上にはこれからそれがしの父として、もっと今川家の施策に携わっていただかねばなりません。そんな隠居などと、爺むさい事をおっしゃられては困りますよ」
差し当たってこれからは外交方面で動いていただく事になると思うと言うと、山城入道は「心労で早死にしてしまうわ」と大笑いした。
武田軍から撤退の使者が来て、お館様たちが守備隊を残し駿府城に引き上げて来る、そのわずか半日前に井伊宮内少輔と宮内少輔の末妹木蓮が駿府城に到着した。
五郎八郎は二人を連れて寿桂尼の元へ行き、井伊家は此度の反乱を心から悔いていると説明した。お詫びでは無いが両家の結びつきを強固なものとする為、お館様に井伊家の姫を側室に貰っていただこうと思っていると。
寿桂尼にもそれなりに情報は入っており、井伊家が戦犯かのような扱いを受けるであろう事は想像に難くない。何とかそこを一緒に説得して欲しいと五郎八郎は言いたいのであろう。
五郎八郎の若干焦った顔を見て、寿桂尼は口元に袖を当てくすりと笑った。
「五郎八郎殿、お館様たちが戻られる前にお二人が到着して良かったですわね」
五郎八郎の笑顔は完全に引きつった。隣で宮内少輔が床に額を擦り付けん勢いで平伏している。
城に戻って来たお館様と雪斎禅師は非常に機嫌が悪かった。戻って早々にそんな二人から五郎八郎は呼び出しを受けた。どうやら寿桂尼もらしく、その粗略な扱いに若干機嫌が悪い。四人中三人が機嫌が悪く、室内は非常に空気が重い。
「くそっ! 堀越治部少輔さえ余計な事をしなければ、防衛線を築かれる前に興国寺城を包囲できたのに!」
お館様も雪斎禅師も怒り心頭である。
ああでもないこうでもないと愚痴を言いまくった挙句、そのとばっちりが五郎八郎に向かってきた。
「そなたがあの時、堀越と井伊を処分するのに反対しなければ、かような事にはならなかったのだ」
恨みがましく言う雪斎禅師へ、五郎八郎が冷たい視線を送る。
「ならば伺いますが、もし両家をあそこで処断していたとして、此度の一件が本当に防げたとお思いですか? 私には他にも致命的な原因があったように感じるのですが?」
名刀のような切れ味を持った五郎八郎の一言に、雪斎禅師がぐっと喉の奥を鳴らして悔しがった。
ただ、どうやらお館様はその発言で五郎八郎が何か交渉したい事があると感じたらしい。目を細め、そう簡単には説得はされぬという意志を示す。
実際、全ては堀越治部少輔の野心に起因しており、雪斎禅師の愚痴はあながち間違いでは無い。つまりは蒲原城で暇をしている間、お館様と雪斎禅師で出した答えがそれであったのだろう。
確かに今にして思えば、あの時、堀越家だけでも処分しておくべきだったと五郎八郎も思わなくはない。ただ、あの段階で堀越治部少輔を処分したら、間違いなく井伊家も同罪とされていたであろう。
そして今回、堀越、井伊の両家が背いたという報のせいで、お館様たちが身動き取れなくなってしまった、それもまた事実。
一人では間違いなく井伊家存続の説得は困難であっただろう。事前に寿桂尼様を抱き込んでおいて本当に良かったとしみじみ思う。
「さすがに今回は堀越家にしても、井伊家にしても取り潰しに反対したりはしないであろうな?」
お館様は少し拗ねたような顔をして、睨むような視線で五郎八郎に言った。
謀反は鎮圧されたというざっくりとした報告しか、どうやら二人の耳にはまだ入っていなかったらしい。堀越治部少輔を自刃させた事を報告すると、雪斎禅師と顔を見合わせ、かなり驚いた顔をした。
「それと井伊家ですが、戦わずに降伏し、その上で三河の奥平、戸田、鈴木の三家の誘引に成功しております。それだけの功績を無視して、一時旗色を変えたという点だけを見て処断なさるおつもりですか?」
お館様にしても雪斎禅師にしても、まだ駿府に戻ったばかりで遠江戦線の詳しい情報が入っていない。それだけに反論が難しかった。その功績は本当は五郎八郎の案なのだろうと疑いの目を向けるので精一杯であった。
だが、「例え他人の案であっても功は功」と寿桂尼からも指摘されてしかい、ぐうの音も出なかった。おまけに、「片や領土を取られ、片や支配域を増やした」と比較されてしまっては、もはや歯噛みするしか無かった。
「どうせ今回は形勢不利だとみてこちらに尻尾を振っただけで、また何かあれば牙を向けてくるのと違うか?」
お館様は明らかに信用に足らんという態度を取った。さらには雪斎禅師まで、二度あることは三度あると昔から言うと冷たい目で五郎八郎を見ている。
「確か以前、お二方は一族の誰かをお館様の側室に差し出せるならば信用できるとおっしゃってましたよね? 宮内殿は妹御を連れてこの城に挨拶に参っていますよ?」
五郎八郎がそこまで言ってもお館様は、どうせ行き遅れか醜女《しこめ》だろうと全く興味を示さない。自分から見てもかなりの美女だと言ったのだが、雪斎禅師は「五郎八郎の内儀が美女だという話を聞いた事が無い」と言い出す始末。
さすがにそれには寿桂尼が黙っておらず、「人様の内儀の容姿を馬鹿にするとは何たる非礼!」と雪斎禅師に説教をかました。
「手の届かぬ柿を見て、やれ青いだの渋いだのとおっしゃらず、実際に会ってご覧になられたら良いではありませぬか」
そう寿桂尼に叱られ渋々という感じで、お館様は宮内少輔と木蓮に対面する事となった。
木蓮の顔を見たお館様は、ほうと言ったまま視線を釘付けにしてしまったのだった。
後日の評定では、井伊家は功有りとしてお咎め無しとなった。
また、松井五郎八郎、久野三郎四郎、天方民部少輔、天野小四郎、山内対馬守には感状が発行された。
****
こうして河東郡が北条家に奪われたまま、そこから大きな動き無くその年は過ぎ去った。明けて正月。
新年の挨拶評定を前に、五郎八郎はお館様の呼び出しを受ける事になった。
一足早く新年の挨拶をすると、寿桂尼はまずは一献と言ってお屠蘇をかわらけに注ぐ。お館様のかわらけにも雪斎禅師のかわらけにもお屠蘇を注ぎ、自分も少しだけ注ぎ、まずは喉を潤した。
お屠蘇を飲み終えると、雪斎禅師が唐突に千寿丸君の元服と祝言の準備は順調に進んでいるかと聞いてきた。
兄山城守の遺児千寿丸は今年で十三歳。五郎八郎が元服した歳である。
方々に断られた五郎八郎の時とは異なり、他方から誘いを受けており、烏帽子親は岡部左京進にお願いし、婚儀の相手は飯尾豊前守の長女の龍と決まっている。
暖かくなった三月頃、桜を見ながら元服をし、それから祝言をあげてはどうかと花月院とは話をしている。
「なれば二俣城はもうその者に任せれば良かろう。奥方と何人か家人を連れて駿府に越してまいれ。正式にそなたを側近に取り立てる。雪斎禅師とそなた、義母上、三人でそれがしを支えて欲しいのだ」
お館様はお屠蘇の入った銚子を五郎八郎に差し出し、どうかなとたずねた。
五郎八郎はかわらけを差し出し、注がれたお屠蘇を飲み干すと平伏し謹んでお受け致しますと述べた。
こうして千寿丸を二俣城代として、五郎八郎は駿府に移り住む事となった。
横見藤四郎、薮田権八、魚松弥次郎といった亡き兄上の家人たちは二俣城に、和田八郎二郎、常葉又六、篠瀬藤三郎は駿府に来る事となった。
福島孫二郎は姓を蒜田と改め、二俣城に残って兵の訓練に明け暮れている。
女性陣では、花月院は二俣城に、菘、萱、静、仙、露草は駿府に来てもらっている。
輿に揺られ駿府城下の屋敷までやってきた菘は、籠から降りると早々に嘔吐した。そういえば菘は乗り物酔いが酷く堀江城から二俣城に来た時もそんな感じであったと、最初はその報告を気にも止めていなかった。
だが翌朝、五郎八郎は八郎二郎からとんでもない報告を受ける事となる。
実は菘は懐妊しているのだそうだ。
五郎八郎が見たのは布団で寝ている姿だったので気付かなかったのだが、実はもうお腹も少し目立つくらいなのだとか。
「何でそんな状態で駿府に連れて来たんだよ! 何かあったらどうするつもりなんだ!」
五郎八郎の怒りに八郎二郎は申し訳ございませんと平謝りであった。
八郎二郎の話では、今回の菘の駿府行きを家人は全員で止めたのだそうだ。出産して肥立ちを見てからでも遅くは無いからと言って。だが、菘のたっての希望という事で押し切られてしまったらしい。
花月院と舞の懇願があったらしい。
舞は八郎二郎に嫁いでからは露草と共に菘の侍女をしている。当然、菘と五郎八郎の仲が上手くいっていない時期の事を知っている。
菘は妊娠で気分が不安定になっていて、五郎八郎が不在の間、また知らない女性を妾として連れて来るのでは無いかと何度も花月院に相談していたのだそうだ。その都度、花月院はそんなことは無い、前回よく言って聞かせたからと菘をなだめたのだが、菘の不安は払拭できなかった。
文を送って懐妊した事だけでも知らせてあげてはと花月院は助言したのだが、お勤めの邪魔をしてはいけないからとそれもしない。
まさか菘を差し置いて花月院が文を送るわけにもいかず。
そんな時に駿府への転居の話が入って来たのだった。菘は絶対に行くと言って聞かなかった。駿府でこの子を産むんだと言って。
……つまりは菘が無理をしたのは自分のせいであった。あの時の静との件が原因であった。そう考えたら誰も責める事はできなかった。
こうなったら無事子供が産まれてくる事を、ただひたすらに祈るのみ。
****
それから数か月後の事。
大広間では五郎八郎、父上、源信がどこか落ち着かない面持ちで無言で腰を据えている。そんな三人を前に、家人たちもどうにも落ち着かない様子。
父上は千寿丸元服の際、千寿丸に兵庫助を名乗らせ、自分は父と同じ山城入道を名乗っている。その山城入道と五郎八郎が、交代で立ったり座ったりを繰り返し、何かあったのではないか、少し遅いのではないかと言い合っている。それを二人とも少し落ち着かれよと源信が笑ってたしなめている。
そんな雰囲気の中、とたとたといくつかの小さな足音が近づいてきた。
「殿! おめでとうございます! 此度の稚は男の子にございました!」
汗だくになった露草と舞がそう伝えに来たのだった。
待望の嗣子の誕生に五郎八郎以上に山城入道が大興奮している。
山城入道が感極まって、上着を脱ぎ上半身裸になって縁側で雄叫びをあげる。その状態で誰彼構わず抱き着いたものだから、屋敷の下女が次々に悲鳴をあげる。家人たちも飛んだり跳ねたり叫んだりと、まるでお祭り騒ぎ。
菘の下に向かうと、やっと嫡男が産まれたと言ってほろほろと涙を流していた。
「よく頑張ったね。待望の嫡男だよ。さっき源信和尚に考えて貰って『徳王丸』って名前にしたんだ。どうかな?」
菘は顔を布団で隠して震えている。非常にか細い声ながら「素敵な名前」と言う声が聞こえてきた。布団を無言でぽんぽんと叩くと、恥ずかしそうに菘は顔を見せた。
そこに祝い酒だと言って左手に銚子、右手にかわらけの状態で酒を飲みながら山城入道が現れた。「父上! 少しは自重ください!」と源信にたしなめられながら。完全に酔っぱらって、脱いでいる上半身まで真っ赤に火照った山城入道。母上に耳を引っ張られて、その場から強制的に退場させられて行く。
その日の夜は、駿府城下に住む今川家中の方々がお祝いの挨拶に訪れて、大広間はまさに大宴会場と化した。山城入道は近侍として松井惣左衛門尉を連れて来ており、宴会を大いに盛り上げてくれた。
翌日、父の山城入道は少し話があると言って五郎八郎の部屋にやって来た。
小姓の弥三に退出するように言うと誰も近づけるなと厳命。
山城入道は昨晩の完全に羽目を外した顔とは、打って変わって真面目な顔をして茶をすすった。
「五郎八郎、それがしは近々隠居しようと思う。惣領をそなたに任せようと思うのだ」
今のままではいずれ兵庫助と徳王丸とで二俣城の家督をめぐって争いとなってしまう。
五郎八郎はこれまで兵庫助を嗣子として扱ってきており、ここに来て元服も果たした。自分が本来の嗣子だという思いは兵庫助も少なからず持っているだろう。
だから兵庫助には堤城を継がせ、二俣城は徳王丸に継がせる。惣領を五郎八郎に譲ったとなれば、兵庫助も自分は嗣子ではないと諦めがつくであろう。
そんな山城入道の説明を聞き、五郎八郎は目を伏せゆっくりとお茶をすすった。湯飲みを床に置き細く息を吐いた。
「まだ徳王丸は生まれたばかりですよ。この先どうなるかはわかりません。兵庫もそう頻繁に嗣子にされたり外されたりでは気持ちが落ち着かないでしょう」
徳王丸の元服が近づいたら、その時に改めて考えれば良い事。もしかしたらその頃には松井家の領土は遠江だけでは無いかもれしれないのだから。
「それに、父上にはこれからそれがしの父として、もっと今川家の施策に携わっていただかねばなりません。そんな隠居などと、爺むさい事をおっしゃられては困りますよ」
差し当たってこれからは外交方面で動いていただく事になると思うと言うと、山城入道は「心労で早死にしてしまうわ」と大笑いした。
11
あなたにおすすめの小説
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
強いられる賭け~脇坂安治軍記~
恩地玖
歴史・時代
浅井家の配下である脇坂家は、永禄11年に勃発した観音寺合戦に、織田・浅井連合軍の一隊として参戦する。この戦を何とか生き延びた安治は、浅井家を見限り、織田方につくことを決めた。そんな折、羽柴秀吉が人を集めているという話を聞きつけ、早速、秀吉の元に向かい、秀吉から温かく迎えられる。
こうして、秀吉の家臣となった安治は、幾多の困難を乗り越えて、ついには淡路三万石の大名にまで出世する。
しかし、秀吉亡き後、石田三成と徳川家康の対立が決定的となった。秀吉からの恩に報い、石田方につくか、秀吉子飼いの武将が従った徳川方につくか、安治は決断を迫られることになる。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
マルチバース豊臣家の人々
かまぼこのもと
歴史・時代
1600年9月
後に天下人となる予定だった徳川家康は焦っていた。
ーーこんなはずちゃうやろ?
それもそのはず、ある人物が生きていたことで時代は大きく変わるのであった。
果たして、この世界でも家康の天下となるのか!?
そして、豊臣家は生き残ることができるのか!?
鎮西八郎為朝戦国時代二転生ス~阿蘇から始める天下統一~
惟宗正史
歴史・時代
鎮西八郎為朝。幼い頃に吸収に追放されるが、逆に九州を統一し、保元の乱では平清盛にも恐れられた最強の武士が九州の戦国時代に転生!阿蘇大宮司家を乗っ取った為朝が戦国時代を席捲する物語。 毎週土曜日更新!(予定)
if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜
かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。
徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。
堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる……
豊臣家に味方する者はいない。
西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。
しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。
全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる