奥遠の龍 ~今川家で生きる~

浜名浅吏

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『桶狭間の戦い編』 天文十八年(一五四九年)

最終話 ~時は下りて~

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「閣下、こちらにお出ででしたか」

 軍服を着た青年がそう声をかけてきた。その階級章からこの人物が少佐である事がわかる。

 閣下と呼ばれた男は青年の声が聞こえていないのか、線香の煙を前に、位牌に手を合わせ続けている。
 鼻の下に特徴的な髭が生えており、頭はここの住職かと勘違いしそうな坊主頭。年齢は老年と言っていい年齢。非常に優しそうな目をしてはいるが、その刻まれた額の皺がこの人物が智将である事を想起させる。
 閣下と呼ばれるからには将校なのであろう。

 閣下と呼ばれた男の隣に袈裟を着た僧がおり、ぶつぶつと経を唱えている。
 どうやら法要の邪魔をしてしまったらしい。青年は閣下と呼ばれた男の斜め後ろに立ち、老人と同じように位牌に向かって手を合わせた。

 静寂が位牌堂を包み込んでいる。僧が読む経の伴奏かのように、さわさわという竹林の音が奏でられる。

 経が終わり僧がおりんをチンと鳴らすと、三人は位牌に対し頭を下げた。

すみ少佐か。付き合わせてしまったようですまなかったな。せっかく来たのだ。一緒に茶でも飲んで行かぬか?」

 老人の横にいた僧も是非にと少佐に微笑みかけた。


 京都の奥、洛中の喧噪からは隔絶された地に、竹林に囲まれた天龍院という寺がある。かつては遠江の二俣城近くにあった寺であるが、この地に移されたのだという。
 上官の松井大将がこの寺に行っていると家族からうかがい、角少佐は車を飛ばしてやって来たのだった。

 和尚は寺の本堂の一室に二人を迎え入れた。部屋からは美しい枯山水の庭が一望でき、窓から外を眺めているだけで一日が過ぎてしまいそうである。

 和尚は慣れた手つきで茶を淹れ、松井大将、角少佐に湯飲みを差し出した。松井大将は和尚を一瞥すると、ゆっくりと茶をすすった。

「ここは当家の菩提寺でな。松井宗信の祖父宗能、父貞宗、兄信薫、以降歴代の当主の位牌が祀られておるのだ。今日は中興の祖宗信の三百五十回目の命日でな。こうしてささやかながら法要をしてもらっていたんだよ」

 松井大将があの近江金吾家の出自というのは噂では聞いていた。
 松井家は元は遠江の国人だった。それが、最終的には幕府の大老を何人も排出する近江の守護となった。
 松井大将は分家の出であり、本家は途絶えてしまっているとも聞く。今回松井大将が一人で法要を行っているというのは、その噂が事実だということを物語っているのだろう。

 ししおどしのカンという音が枯山水の庭を通り抜けていった。

 松井左衛門督さえもんのかみ宗信。
 その名は日本に生まれた者であれば誰しもが歴史の授業で習う。『今川十六神将』にして『義元公四天王』の筆頭。征夷大将軍となった松平元康の師であり盟友でもある。桶狭間の戦いで今川義元の影武者となって敵を蹴散らした忠義一徹の軍神としても有名。当時の資料には『摩利支天の化身』と評されていたと記載している物もある。

 上洛を果たした今川義元だったが、その途中で観音寺城を落城させ、六角ろっかく承禎じょうていという人物を討っている。
 六角家は将軍足利義輝が最も頼りとしていた家で、その事がしこりとして残ってしまい、どうにも義輝と義元は馬が合わず反発を受けることになってしまった。

 そんな義輝が新たに後見としたのは例の三好長慶であった。だが、この時点で今川家は新たに大和、北近江、越前を支配下に置いている。
 三好家は、和泉の石津いしづという地で松井宗信、岡部元信、朝比奈元智、松平元康という四天王の軍を相手に致命的な大敗を喫してしまうことになる。

 義輝は単身義元の元へやってきた。義元の前で平伏し、義元を己が養子とし征夷大将軍を譲りたいと申し出た。

 こうして足利幕府は滅び、今川幕府が始まる事になった。

 ところが義輝はそこで活動を止めなかった。一乗院という寺に逃げ、弟の覚慶と共に各地の大名に呼びかけ、今川家討伐を呼びかけたのだった。
 これに対し義元は征夷大将軍の座を嫡男の氏真に譲る事で対抗。既に今川幕府の体制は確立していると誇示してみせたのだった。

 丹波波多野家、播磨赤松家、但馬山名家、越後上杉家が猛反発。だが越後の上杉家以外はいずれも小勢力でしかなく、今川家の諸将に各個に撃破されてしまった。

 その一方で西国勢力の取り込みは積極的に行っており、安芸の毛利隆元と薩摩の島津貴久を懐柔して、周辺勢力を駆逐していった。

 足利義輝と覚慶は上杉政虎を頼って越後に落ち延びたのだが、武田、北条の連合軍に攻められ以後行方不明となった。
 近年の研究の結果、晩年の義輝は刀一本を頼りとして剣術に生きた事がわかっている。

 天下静謐せいひつまであと一歩。今川家だけでなく、日ノ本中が何となくそんな雰囲気に包まれていた。

 だが、そんな時に今川義元が病を得て急死してしまったのだった。同じ年に毛利隆元も急死しているので、流行り病が発生していたのかもしれない。

 二代将軍の氏真は民を慈しみ、家臣を大事にする理想的な二代目と言われていた。どこか強引に物事を運ぼうとする父義元を、時には諫めるといった事もあった。
 だが、大御所がいなくなった事で将軍氏真は明らかに増長した。その粗暴な態度から徐々に諸将の信頼を失っていった。
 忠臣として名高かった松井宗信ですら距離を置いた。

 ある日、氏真は荒木村重という摂津の国人の治める有岡ありおか城へ向かう事になった。

 その二月ふたつきほど前、氏真は姉妹たちが嫁いでいた松井元恒、松平元康、北条氏政、武田義信、毛利輝元、島津義久を集めて饗応きょうおうをしている。その接待を任されたのが村重であった。
 その際、何やら献立で気に入らない事があったらしい。氏真は客人たちの前で村重を何度も殴りつけた。

 その後、村重から書状が届き、接待の失敗を反省し謝罪を行いたいと申し出てきたのだった。さらには嫡男の烏帽子親を務めてもらいたいとの求めもあった。

 鞘に綺麗な装飾の施された刀を、謝罪の証だと言って村重は献上。氏真がその刀の鞘を手にした瞬間、村重は襲い掛かり、氏真の持つ鞘から刀を引き抜き、氏真を斬り殺してしまった。

 今川幕府はたった二代、極々短期間でその役割を終えたのだった。

 氏真には跡継ぎとなる嫡男がいたのだが、まだ赤子でしかなく、到底跡を継げるような状況ではなかった。その為、氏真の姉妹の夫たちが後継者争いをはじめる事になってしまった。

 松井宗信、元恒親子は松平元康の説得に応じ手を組んだ。
 松井宗信は北条氏政、武田義信を説き伏せ、毛利輝元、島津義久の連合軍と摂津湊川みなとがわにて対峙たいじ。この大戦に勝利した松平元康は、亡き今川氏真の養子として征夷大将軍の座を引き継いだのだった。


「あの時、もし近江佐和山城の松井宗信が伊勢安濃津城の松平元康じゃなく他の諸侯と手を結んでいたらどうなっていたのでしょうね。例えば昵懇じっこんにしていた相模小田原城の北条家とか」

 角少佐はきらきらとした目で松井大将に問いかけた。

 昔から何度も口の端に上る仮想話である。もし雪斎か勘助が生きていて、松井、松平とは別の諸侯と手を組んでいたらとか。松平元康ではなく松井宗信が征夷大将軍になっていたらとか。

 そんな角少佐に松井大将は、「軍人は過ぎた過去に対するの話はしないものだ」と言って静かに笑った。
 返答を拒否する松井大将に代わって和尚が答えた。

「少なくとも松井宗信という方は人脈という点では今川家中でも随一でしたからね。おまけに戦の天才で。だからこそ、元康も宗信を味方に付けて天下静謐に乗り出した。もしあそこで宗信が乱世を望んだら、我が国は伴天連ばてれん共に支配されていたかもしれませぬな」

 和尚も歴史が好きで、幼い頃から何度もそういった妄想を繰り返してきたらしい。天龍院には、おあつらえ向きにもその手の文献が数多く存在している。なぜあの時、松井宗信が松平元康の説得に応じたのかという事については、その文献の研究によってある程度わかってきている。

 日本に来ていた西洋人たちが日本人を拉致し、奴隷として海外に連れ去っている事が発覚していたらしい。どこかでという事ではなく、全国各地の教会で拉致は行われていたらしい。宗教施設だから、神を祀る神聖な施設だからといって信者以外の立ち入りを禁止しておいて、裏ではそんな事を公然と行っていたらしいのだ。どうやら三河や伊勢にもそういう教会があり村が丸ごと消えたというような事も起こっていたらしい。
 松平元康は教会を打ちこわし、西洋人を捕縛し尋問。その西洋人が喋ったのが日本の征服計画だったらしい。

 これについては長く教育委員会によって松平元康が松井宗信を引き入れるための方便という言われ方をされていた。だが、松井宗信も同様の情報を遠江や近江で得ていたという文献が天龍院の倉から発見されたのだった。


「ところで少佐、私を呼びに来たのは何の用であったのだね?」

 松井大将に指摘され、角少佐は自分が急用でここに来た事を思い出した。
 実はかくかくしかじか。角少佐から報告を受けると松井大将はやるせないという顔で息を漏らした。

「そうか。また大戦おおいくさが始まるのか……」


『奥遠の龍 ~今川家で生きる~』 ―完―
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