奥遠の龍 ~今川家で生きる~

浜名浅吏

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~転生の章~ 『元服編』 享禄元年(一五二八年)

第2話 明星丸って誰?

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 萎えた体を無理やり起こそうとし、首の奥の激痛で諦めた。

 そのまま布団に横になっていると、廊下を走って来る複数人の足音が近づいて来る。

「明星丸、大丈夫か? ちゃんと手足は動くか? どこかおかしいところは無いか?」

 若い男性がドスドスと音をたてて近づいてきて顔を覗き込んできた。

 この顔!!
 先ほど木刀を持っていた人だ!

 だけどイマイチ状況が飲み込めない。
 そんな表情をしていたのだろう。横にいる女性が私たちが誰かわかりますかと丁寧な口調で聞いてきた。

 わかるわけがない。
 小さく左右に首を振ると首の奥に激痛が走り、思わず顔が歪んでしまう。

 女性は優しい声で「無理はしないで」と言って微笑んだ。

 男性は少しバツの悪そうな顔をし、鼻から息を漏らしてこちらをじっと見つめている。

「命に別状が無いようで良かった。何かあったら父上に何を言われるかわかったものでは無いからな」

 乾いた笑いをして男性が周囲に同意を求めた。

 「ムキになるからいけないのですよ」と男性にチクリと小言を言ってから、横にいた女性が「お父上に報告してきます」と部屋を出て行った。

「痛むのは首だけか?」

 男性が優しく聞いてきた。

「首の後ろとおでこが痛いです。それ以外は特に」

 そうかそうかと言って男性はほっと胸を撫で下ろした。


 剣術の稽古をつけてやろうとしたらしい。
 最初は余裕の態度だったのだが、打ち込みの中に明らかに鋭く良いがあった。それを防ごうと木刀を弾いたのだが、戻した木刀が見事に眉間に当たってしまった。さらに倒れるところを癖のように首の後ろを叩いてしまった。
 その後、倒れたまま死んだように眠ってしまい、ずっと目を覚まさなかったのだそうだ。

「ここはいったいどこなのですか?」

 その質問に男性は「記憶が飛んだのか」と渋い顔で呟いた。

「自分が誰かはわかるのか?」

 男性は逆に質問してきた。

 「いえ」と短く答えると、男性は小さくため息をつき、「後で医師を呼ぶから今日は大人しく寝ていなさい」と言って布団をポンポンと叩いた。


****


 翌朝早くにトイレに行きたくなり目が覚めた。だがトイレの場所がわからない。
 何とか布団から起き上がり、よろよろとした足取りでトイレを探した。

 何となくの勘であちこちの戸を開け、やっとそれらしき場所を見つけた。
 この鼻を突く独特な匂い……間違いないだろう。

 下半身を見てかなり驚いた。『ふんどし』である。

 資料や時代劇で見た事はあるが、実際にしているのを見るとどうなっているのかよくわからない。
 ただ男性というものは便利なもので、横から摘まみ出して無事用を足し終える事ができた。

 トイレが床板に穴を空けただけのものというのも衝撃的であった。
 ……この縄は一体何に使うものなのだろう?

 さらにトイレの窓から外を見て、何かが無い事に気が付いた。
 ガラスが付いていない。

 トイレから出て念のため周囲を見渡してみるも、靴が無く草履が置いてある。
 戸には障子が貼ってある。
 外に電線が無い。

 ここが時代劇のセットじゃないのなら、少なくとも明治時代よりは前の時代。江戸時代かそれより前か。

 しばらくして一人の女性に遭遇した。

 この女性は見覚えがある。確か最初に自分の様子を見に来てくれた人。
 いまいち年齢がわかりづらいのだが、二十代後半か三十代前半といったところだろうか。

 「おはようございます」と挨拶をすると、「おはようございます」と元気に返してきた後、「もう動いても大丈夫なんですか?」とたずねられた。

「ええ。少しお腹がすきましたね」

 女性はくすりと笑うと、「胃に優しい芋粥でも煮ますね」と微笑んだ。

 「顔を洗いたい」と言うと、女性は少し首を傾げ、「井戸ならそこに」と庭の井戸を指差した。

 まさか裸足で井戸まで行くわけにもいかない。
 縁側に腰かけ草履を手に取ってみると、藁で編んであるというだけでビーチサンダルとあまり変わりない物である事がわかる。

 ところが今度は井戸の使い方がわからない。
 何となくの記憶でロープを引き上げてみるが桶はほぼ空だった。

「おう! 明星丸! ずいぶんと朝が早いのだな」

 元気な声に振り返ると、昨日の壮年の男性が腹をぽりぽり掻きながら縁側に立っていた。

 「おはようございます」と挨拶すると男性は笑い出し、「おはよう」と言った後で空を見上げ、「よい天気だ」と言って微笑んだ。

 男性が出てきた部屋の障子が開いており、その奥に昨日の優しそうな女性が寝ているのが見える。
 よく見ると白い着物が乱れ、白い膨らみが露わになっている。

 男性は草履を履き井戸にやってきて、空の桶を見て首を傾げた。

 その桶を井戸に落とし、もう片方の桶を一度持ち上げてから、ゆっくりと先ほどの桶を引き上げる。
 桶には水が並々と入っており、手ですくって、おもむろに顔をじゃぶじゃぶと洗い出した。

 男性を真似て顔を洗うと、男性はその姿をじっと見つめていた。

 手拭いが無く男性を真似て袖で顔を拭くと、男性はげらげらと笑い出した。

 昨日あの後、医師が来て脈を診てくれたらしい。だが眠っていて全然起きなかった。医師は「心配は無い、寝る子は育つと言うから」と笑っていたのだそうだ。

「なあ明星丸。今日は後で共に領地の視察にいかぬか?」

 領地!
 この人は自分の領地を持っているのか。
 という事は間違いなく、自分は江戸時代より前にタイムスリップしてきたという事になるだろう。

 「よろしくお願いします」と頭を下げると、男性は肩をがっしりと掴んだ。

「そんなにかしこまる事は無い。同じ母上から生まれた兄弟ではないか」

 そう言って優しくほほ笑んだ。

 「さああさげにしよう、今日は膳を共にしようぞ」と言って、男性は縁側に向かって歩き出した。


 二人で食事をする部屋に入ると、先に中年の男性が待っていた。

 「おはようございます」と挨拶すると、中年男性はあまり表情を変えず、「もう良いのか?」と聞いてきた。「まだちょっと痛みます」と答えると、「何かあったらどうしてくれようと思っていた」と言って壮年の男性を睨んだ。

 三人で板の間に座っていると朝の女性が膳を運んできた。

 朝食が終わると壮年の男性に、再度「ここはどこですか?」とたずねてみた。
 男性は中年の男性の顔を見て二人で困り顔をした。

「本当に何も思い出せないのか? ここは遠州えんしゅう豊田とよだ二俣ふたまただよ」
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