身代わり神子の、失恋のあと

さき

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 午後は公務がないようなので、ミレは食事を終えたあと、聖書をぱらぱらとめくってみた。目次は旧約と新約の二編で構成されていて、旧約の初版が不明なのに対し、新約はまだ五十年ほど前に作られたばかりのようだった。
 旧約聖書は、原語と訳語の二つが併記されていたが、原語はみみずが這ったような文字で、どこが単語の区切りなのかも分からない。訳語には太陽神がもたらした人類繁栄の歴史のほか、太陽神と人間の王が言葉を交わし、恋に落ちた伝承が記されていた。描かれた太陽神は感情豊かで、親近感がわき、まるで孤児院の絵本のように瞬く間に読んでしまった。
 ページをめくる手が遅くなったのは新約聖書に入ってからだ。見慣れた文字に安心したのもつかの間、太陽神は突然、おそろしい一面をあらわにする。笑えば飢饉が起こり、泣けば人が死に、国土は二回、焼け野原に変わったと記されている。同じ神の所業なんてにわかに信じがたかったが、神とは人知を超えた存在だから、受け入れるしかないのかもしれない。理不尽な変化に頭を抱えながら、一行ずつ読み進めていると、扉がノックされ、ミレは急いで眉間の皺を消した。
「あんたの婚約者が呼んでいるらしいが、客間に移動するか?」
 気づけば、床に伸びる自身の影が、ずいぶん長くなっていた。やってきた運び屋は、相変わらずの悪人顔だったが、昼に見たときより髪が乱れて、少しだけ若返って見えた。鼻の頭が赤らんでいて、どうしたんだろうと思っていると、節ばった指が聖書に伸びて、その上にブリキの楕円を置いていった。ミレはぽかんと口を開けたまま、楕円と運び屋を交互に見た。少し形が潰れているが、なくしたはずの、おもちゃの指輪だった。
「なんで……? 昨日諦めろって言ってたのに」
「夜に探すのは無理だろうが。日が出たから拾ってきただけだ、いらないなら捨てていい」
 ミレは、赤鼻を穴が開くほど見つめた。孤児院から王城までの果てしない道を、これだけのために、辿って探してくれたのだろうか。
 胸がくすぐったくて、じんわり温かくなるが、同時に苦い思い出がよみがえるから、何を言えばいいのか分からなくなる。口を開くが、言葉にならなくて、水の中でもないのに溺れそうになる。
「移動するのか?」
 ミレが逡巡するうちに、運び屋は指輪への関心をなくし、最初の質問に戻ってしまう。ミレは何の話だっけと記憶を辿りながら、指輪を鎖に通して首にかける。その動作を頷いたと受け取ったのか、間髪入れず横抱きに持ち上げられ、ミレは慌てて運び屋の首に抱きついた。至近距離で目が合い、頬が勝手に熱くなる。
「びっくりして、反射で」
 意図的ではないと言い訳したいのに、悪人顔は最後まで言わせてくれない。
「オレは、あんたが落ちなければ何だっていい」
 客間に移動するまでの間、ミレは言いそびれたお礼の代わりに、運び屋に抱きついたままでいた。この腕を通して、名前のつけられないこの気持ちが、届けばいいのにと思った。
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