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伊庭の小天狗

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(一) 

 時はまさに幕末である。後に北海道とよばれることとなる蝦夷地は、事実上松前藩という小藩の支配下にあった。しかし北方ではロシアの脅威が迫りつつあり、松前藩などには任せてはおけぬという意見が、幕府内部からもあがっていた。その急先鋒が、徳川御三家の一つ水戸徳川家の徳川斉昭だった。蝦夷を水戸藩で開拓すること。それが斉昭の望むところであった。
   その斉昭の死から二年後の文久二年(一八六二)、ようやく春が訪れようとする頃のことである。小石川にある水戸藩上屋敷では、囲炉裏を囲んで二人の男が密談をかわしていた。一人は年は五十ほどにして相応に貫禄があり、水戸藩の中でもそれなりの身分であるように思えた。もう一人は恐らく三十ほどであろうか? 眼光が異様に鋭く、髪は結っておらず総髪である。
「松前藩の連中は、いまだに蝦夷全域の支配をあきらめきれぬ様子だ。度々幕府にも嘆願をくりかえしておると聞く。なれど今は国家危急の時。特に北はロシアの脅威があるというに松前藩ごときには任せられぬ。我が藩がじかに蝦夷におもむいて開拓を行う。これは先代以来の悲願じゃ」
   水戸藩の重役らしい男は小声でひそひそという。
   かって松前藩は、ロシアの脅威の影響で蝦夷地の大半を幕府に没収されたことがあった。その時は松前藩の必死の工作が実って、蝦夷地ほぼ全域を松前藩の支配地に戻すことに成功した。
   しかしペリー来航以降、再び北方の防備が幕府の懸案事項となる。特に水戸藩は水戸光圀の時代には、すでに石狩近辺を実地調査させるなどし蝦夷に深い関心を持っていたといわれる。
 亡き徳川斉昭は「北方未来考」という書物に、蝦夷開拓の構想を記していた。それは斉昭自らが蝦夷に出向き蝦夷全域を城塞化すること。特に夕張あたりに巨大な城を築き、アイヌをも兵士として北の防備にあてることなどが趣旨であった。結局、松前藩は嘉永七年(一八五四)江差・松前以外のほぼ蝦夷全域を再び幕府に没収される。
「我が藩としては、一刻も早く事を成就したいところ。なれど松前藩が抵抗して中々事はうまく運ばん。そこで汝の出番じゃ。松前藩の重臣のうち何人かを汝の手で始末してほしい」
 と言いつつ、重役らしい男は囲炉裏で熱したものを椀に注ぎ始めた。
「匂いまするな。それは何でござろう?」
 総髪の男が不思議そうに聞いた。
「これは牛の乳をしぼったものよ。欧米の国々では毎日あたり前のように飲まれているそうだ」
 すると総髪の男はぐいと酒を一気に飲みほした。
「いいでしょう。わしも地獄の青無癌と恐れられた男、その代わり報酬の用意はよろしいかな」
「当然じゃ、よいか耳を貸せ」
「あいや! 待たれよ!」
 突然、青無癌が重役の言葉をさえぎった。そして部屋の隅に立てかけてあった槍を手にし、天井に向かい一息に突き刺した。何者かの悲鳴があがった。女らしい悲鳴だった。
「出てこいそこの鼠! 逃がさんぞ!」
「忍びか!」
 上役は思わず驚きの声をあげた。
「心配御無用でござる」
 青無癌の姿が突如として消えた。
 女は黒装束に身を包み、必死に闇の中を走り去ろうとしていた。しかし青無癌は、まるで獲物を狙う狩人のように鋭い眼光で弓を引く。見事矢は黒装束の女の左肩に命中した。女は悲鳴とともに川に身を投じる。青無癌が川に目をやると水が真っ赤に染まっている。
「逃がしはせぬぞ!」
 と青無癌は興奮で赤くなった顔でいった。


(二)

 さて翌日早朝のことである。江戸・神田和泉町の界隈をほろ酔い気分でふらふらと歩く若者の姿があった。後に箱館戦争を榎本武揚たちと共に戦うことになる伊庭八郎・秀穎である。前途にいかな波乱が待っているかなど、この時は知るよしもない十八の美青年だった。
 八郎は、ようやく吉原での女遊びを覚えはじめた年ごろである。昨日は小稲という遊女の舞を堪能し、男女の契を結んだ。小稲と関係をもったのは今回が最初である。酒を飲みすぎて先に床に入ったところを、寝床で小稲の手がゆっくりと、あらぬところにのびてきたとこまでは覚えていた。
 翌未明、まだ夜も明けぬうちに店をでると途中下谷界隈にある太郎稲荷大明神に参詣し、御徒町をぬけ神田和泉町まで戻ってきた。

 八郎は心形刀流の剣の使い手として、後に「伊庭の小天狗」の異名で知られることになる。江戸四大道場というものがある。北辰一刀流の玄武館、神道無念流の練兵館、鏡心明知流の士学館、そして心形刀流の練武館である。
 心形刀流の八代目は八郎の父の伊庭軍兵衛・秀業で、本来であれば八郎が九代目となる予定であった。ところがさる事情により、八郎が十二歳の時に父の秀業が若くして隠居。十二歳では道場は任せられないので、高弟の塀和惣太郎が九代目となった。
 幼い頃の八郎は病弱であった。喘息の持病を持っており、剣術の修行などよりむしろ読書を好む少年であったといわれる。最も愛読したのは中国の「水滸伝」であった。なにやら八郎の運命を暗示しているかのようである。
 だが成長するにつれ病弱だった八郎もたくましく成長し、持ち前の剣士としての才を発揮しはじめる。その一方で容姿ということになると、一見して女性と見間違えられるほどのかなりの美男子であったと伝えられる。


 その八郎が吉原から、神田和泉橋近くにある伊庭道場へ帰る途中のことである。神田川のたもとで信じられないものを発見した。女が倒れていたのである。年齢は二十ほどであろうか? なぜか芸者のような恰好をしている。朝早くのことでまだ誰も気づいていない。背中には矢で射られたような傷あとまであった。
「これは大変だ! 幸い道場も近い。連れて行って看病しよう」
 八郎が女を抱きかかえた時だった。
「待てい!」
 八郎がふりむくと、そこに異様に青白い顔をした総髪の男がいつのまにか立っていた。例の青無癌だった。
「ずいぶんと探したぞ。どうやらまだ生きておるようだな。その女をこちらへ渡してもらおうか」
 青無癌は声に凄みをきかせていった。
「渡してどうするつもりだ?」
「知れたことよ。その女はいずこかの藩が放った忍び。天下の水戸徳川家の屋敷に忍びいった大胆不敵な輩よ。ゆくゆく拷問にかけていずこの藩の者か吐かせ、その後殺す」
「いかに忍びだからといって、女の人をそんなひどい目に合わすなんて許せん!」
 とまだ若い八郎はいう。
「邪魔だていたすと痛い目を見るぞ小僧!」
 青無癌は刀の鍔に手をかけた。八郎がまだ若造なのであなどっている気配さえあった。同時に八郎も刀に手をかける。
 先に仕掛けたのは青無癌だった。素早く鯉口を切るも、八郎もさすが名門練武館の後継者だけのことはある。実に俊敏に青無癌の刀をかわす。頃合いを見計らって八郎は長刀を左に持ち下段に構え、脇差しを右手に持ち上段に構えた。
「愚かな者めが!」
 と青無癌は地につばを吐いた。
「覚悟!」
 次の瞬間、青無癌は右中段から八郎の脇を狙ったが、八郎の脇差しがこれを受けた。そして左足で踏みこみながら長刀の手の内を帰し、そのまま青無癌の左肩を刺しつらぬいた。激痛のあまり片膝をつく青無癌。その時信じられないことがおこった。
「己! どうやらそなたを侮っていたようだな。だが次に会った時は必ず殺す」
 そう叫ぶや否や、青無癌は突如として八郎の前で蛇に化け、そのままいずこかへ姿を消してしまった。
「世に妖怪や化物の類というのは実在するのか?」
 八郎はしばし茫然としていたが、今度こそ女を助け伊庭道場まで戻った。


(三)

 女は高熱が続いたが、三日目には口がきけるほどに回復した。しかし八郎が何を問いかけてもただ名は志津であると名のる以外、己の素姓などに関して語ろうとしなかった。
 そして数日が過ぎ事態は急変する。八郎が道場での稽古から戻ってみると、寝床に志津が姿がなかったのである。代わりに壁に張り紙がはってあった。
「女の身柄は預かった。返してほしければ清洲橋のたもとに明後日、日が昇る頃一人で来い。この前の借りは必ず返す。逃げれば女の命はないものと思え」
 八郎は驚き、とりあえず普段から出稽古などに赴き、交流がある試衛館道場に加勢を求めることにした。試衛館は、八郎の練武館などと比較すると規模はそれほどでもない。しかし天然理心流という、極めて実戦型の剣術を教えることで知られていた。頭は近藤勇である。
 八郎は、取次にでた試衛館の門人永倉新八に事情を説明する。新八は近藤勇のもとへ赴き、八郎はだいぶ待たされた。やがて新八が戻ってきた。
「我が主が申されるには敵が人間であれば加勢もするが、化物相手に戦う術はしらぬので、こたびばかりは如何ともしがたく、ご容赦たまわりたいとのことでござる」
 そういわれると八郎も、これ以上食いさがる気もおきず、そのまま市谷の試衛館道場を後にするより他なかった。

 やむなく約束の時刻に八郎は清州橋のたもとに姿を現した。そこで八郎が見たものは木に縛りつけられた志津の姿だった。すぐに縄をほどこうとするも、背後で声がした。
「約束通りやって来たな。逃げたのかと思ったぞ」
 背後で声がした。青無癌だった。しかも手下が五人ほどもいた。
「今日こそは覚悟してもらうぞ!」
 八郎は奮闘するも多勢に無勢である。ついに敵の放った矢が左足に命中し、激痛のあまり立つこともままならなくなってしまう。
「これまでか……」
 八郎が無念のあまり唇をかんだ時だった。突如として橋の上から一本の流れ矢が飛来し、青無癌の鼻先をかすめた。
「何奴だ!」
 ちょうど朝日がのぼろうとする頃だった。陽の光が橋の上に立ちはだかる二つの人影を鮮明に映し出した。一人は年のほど二十五から三十の間ほどであろう。見るからに頑健でゴツゴツとしており、ちょうど「岩」を連想させた。
 もう一人は二十前後ほどでまだ若い。試衛館の館長近藤勇と、天才剣士として後に名を残すことになる沖田総司だった。
 突如として馬のいななき声がした。
「八郎君大丈夫か!」
 馬上叫んだ男は八郎に負けず劣らず、まるで役者のような美男子である。後の新選組副長土方歳三だった。この時二十七歳。八郎にとり、しばしば共に遊郭に足を運ぶほど親しい仲だった。
「来てくれたんですか?」
 八郎はかすかに安堵の笑みを浮かべた。
「当たり前だ! 見捨てるわけないだろう」
 土方は馬首を返すと、そのまま自らの愛刀和泉守兼定をふりかざし青無癌に襲いかかった。
「己! 邪魔だてしおって許せん!」
 土方が馬上ふりかざす刀を青無癌が必死に防ぐ。両者はしばし川沿いで必死の攻防を繰り広げるも、そこはやはり青無癌は蛇特有の俊敏さか、土方をもってしても中々しとめることができない。
 やがて一陣の烈風が吹き荒れ、土方が自らの長髪に一時視界をさえぎられた次の瞬間のことだった。青無癌の姿が消えた。気がつくと、蛇の姿に変化し土方の体に巻き付いていた。たちまち土方はバランスを崩した。馬の手綱を取ることができなくなり、そのまま川へ転落し流されてしまったのである。
「他愛もない奴よ!」
 人の姿に戻った青無癌は吐き捨てるように言った。

「おいおまえら! その大口野郎を片付けておけ! 任せたぞ」
 と青無癌は近藤指さしながら部下に命じた。そして眼前で刀を構える沖田に鋭い眼光をむけた。
「己!」
 近藤は敵に背を向けて走りだした。しかし近藤の真意はただ逃げることではない。敵を引きつけることにあった。やがて鬱蒼とした茂の前までくると突如として刀を抜く。敵の方角に向きなおり、恐ろしい殺気をあらわにした。それは尋常一様なものではなく、青無癌の手下達も瞬時戦慄を覚えた。
 しかもその時、背後の茂みで煙がもあもあと上がる。さらに何者かの叫び声が周囲に響きわたった。これを見た青無癌の手下達は恐れをなした。こうなると畜生の悲しさである。背後に伏兵が多数潜んでいると予知し、姿を蛇に変え逃げ去った。
 実はこれは、近藤が前日に近隣の農夫たちに、わずかな金を渡し仕くんだものだった。煙を炊いたのも、雄叫びをあげたのも、実はわずか数名の農夫の演出であり近藤の作戦勝ちだった。

 一方河原では、今にも沖田総司と青無癌の決闘が始まろうとしていた。しばしの間お互い隙を見いだせずにらみ合いが続く。尋常一様の相手でないことを悟った青無癌は術を使う。忍術でいうところの分身の術である。
「うぬ! 何だこれは?」
 三人に分かれた敵に、さすがの総司も手の打ちようがなく防戦一方になる。やがて青無癌の鋭い一撃が総司のこめかみを切りさいた。その時、青無癌の背後から八郎の声がした。
「総司さん! 真ん中が本物だ! あとは影のない偽物だ」
 八郎は背後から青無癌の影を見ていたのである。偽物には影が存在しなかった。その一言で総司はかろうじて青無癌の次の一撃をかわした。そして青無癌に猛烈な突きを連打した。今度は青無癌が防戦一方になる。気がつくと偽物は消えていた。
「中々やるな! だがこれまでだ」
 青無癌は後退し総司と距離をおく。そして刀を上段に構える。通常上段からの攻撃は威力は大きいが、その分肩より下の防御が難しい。総司ほどの使い手にしてみると隙だらけに思えた。刀を下段に構えると、そのまま青無癌の胴を狙ったが、その時信じられないことがおきた。剣を構えた青無癌の両腕が、平常時の二倍ほどに伸びたのである。
「己! 化け物め!」
 致命の一撃はなんとかかわした。しかし、まったく想定外の事態に総司は再び刀をかまえたまま後退せざるをえなくなる。
「わずかな隙さえあれば……。そしてあの懐に入ることさえできれば」
 総司は歯ぎしりする。
「覚悟!」 
 青無癌が再び上段から、通常の二倍はあるリーチを生かして総司に襲いかかる。その時だった。橋の上からこの光景を目の当たりにした近藤が、御札を大量に青無癌の前にばらまいた。 
 それにより青無癌にかすかだが隙ができた。それを総司は見逃さなかった。まるで水に映った月を斬るような鮮やかに刀を振る。両者の剣が空中で激突した。ガツンという鈍い音がした。 
 天然理心流もまた相打ち覚悟の必殺剣である。稽古の際には三尺五寸もの巨大な木刀を用いるという。その威力たるやすさまじく、青無癌は衝撃のあまり、不覚にも刀を落としてしまった。
「覚悟!」
 防御を失った青無癌の左脇に、総司の強烈な一撃が入った。さしもの青無癌もついにその場に昏倒した。
「八郎君大丈夫か?」
 勝負あったと思い、刀を鞘に戻し八郎のもとにかけよる総司。ところがその時、信じられないことがおきた。
「己! こんなことで死んでたまるか!」
 瀕死の重傷のはずの青無癌が起き上がったのである。そして再び総司に襲いかかる。ところが青無癌の前に立ちはだかる者がいた。それは先ほど川に流された土方だった。
 片膝をつくと、土方は冷静に青無癌相手に胴をはらった。さすがに重症の青無癌に、これをかわす力は残されていなかった。大量出血とともについに絶命したのである。
「生きてたんですか? 土方さん」
 総司は思わず土方にかけよる。
「生憎と、俺は泳ぎは達者なんだよ」
 と土方は水を払いながらいった。


(四)


 八郎は志津を助け出し、後に新選組として歴史に名を残す三人に幾度も礼をいって別れた。
  それから志津は次第に病状が回復するにつれ、八郎を見る目が女が男を見る目にかわっていった。ある夕暮れ時のことである。
「志津さん食事を持ってきましたよ」
  卓に御粥と味噌汁を置くと、突如志津が寝床から起き上がった。
「八郎様、私は貴方様に恋焦がれてしまいました。この胸の内いったいどうしたらよいのでしょう?」
   もちろん八郎は動揺し困惑した。吉原などで女と交わったことなら幾度もあるが、このような事態は初めてである。どうしたらいいかわからない。
「放してくれ! 何をする!」
   困りはてた八郎は、つい志津を乱暴に床に倒してしまう。そしてそのまま部屋を後にする。障子の向こうから志津の泣く声がしたが、八郎はそのまま自分の部屋へと戻ってしまった。


 その夜、八郎は寝床で胸騒ぎを覚えた。志津の部屋を訪ねるとそこに志津はいなかった。八郎は罪悪感を覚えた。屋敷の外に出て、必死に志津の姿を探した。
 気がつくと闇の中、周囲には延々と草わらが続いている。そこがいずこであるのか八郎にもすでにわからなかった。やがて八郎は遠くで女の悲鳴を聞いた。聞き覚えのある声だった。近よるとやはり志津が倒れていた。
「しっかりしろ! しっかりするんだ!」
   八郎が志津を抱きおこすと、首筋に蛇に噛まれた後がある。よく見ると周囲に蛇の死骸が大量に散乱していた。
「今、医者を呼んでまいる」
   八郎がその場をはなれようとすると、志津が八郎の着物の袖をつかんだ。
「私はもう助かりませぬ。せめて、せめてお側に……」
「弱気なことを申すな!」
「いえ、私は必ずまた八郎様の側近くに戻りまする……」
   そこまでいうと志津はついに息絶えた。
「しっかりしろ! 死んではならぬ!」
   八郎は叫んだが、ついに志津は返事をしなかった……。



「しっかりしろ!」
   八郎は、羅紗張りの五枚布団の上でようやく目を覚ました。周囲には白粉のにおいがする。そこはもとの遊郭だった。近くで小稲が内輪で胸をあたりを扇いでいる。
「おやお目覚めどすか? ずいぶんとうなされていたようで、何か悪い夢でも見なはったのですか」
   と小稲は廓言葉でいう。
「そうか全ては夢であったか、本当に夢でよかった……」
   その時である。八郎は小稲の首筋に蛇に噛まれた後を見た。立ち上がろうとしたが、左足に痛みを覚えた。突然、小稲がカラカラと笑いだした。
「何がおかしい!」
「残念ながら全てが夢ではありんせん」
「それはどういう意味だ小稲!」
   八郎がかすかに声を震わせながらいうと、小稲は八郎が耳を疑うようなことをいった。
「小稲ではござりません。志津と呼んでくんなまし」
  八郎の背筋に冷たいものが走った。
「そのように幽霊を見るような目をせずとも……。私はお前さんに惚れた。惚れたからには全てを話しましょう」

 
   小稲いや志津は素性を語りだした。志津の父は松前藩の下級役人だったという。松前藩内部の派閥争いにまきこまれ、闇討ちにあい命を落とした。志津は下谷にある江戸松前藩屋敷で生まれ成長したが、無残にも川に捨てられたという。
 ところが彼女を拾って育てる者がいた。それが人間ではなく狐だったというのである。
 狐に育てられた身ながらも、彼女は聡明に美しく成長した。そして狐から様々な術を教えこまれたという。やがて養い親の狐は死んだが、彼女は松前藩の重役に色じかけで接近する。そして自ら刺客となり、藩内で権力を握っていたかっての親の仇を滅ぼすことに成功する。以来忍びとして松前藩に仕えていたが、今回の騒ぎに遭遇し再び不幸に転落したという。
「確かに私はあの時死にました。なれどこうして小稲なる女にとり憑くことにより、魂だけは生き永らえることができるのです。なれど常に男の精を吸わねばそれさえ維持できぬこの無念さ」
 その時、志津は突然簪をはずした。腰あたりまである髪が垂れさがった。帯をほどき黒い長襦袢をゆっくり脱ぎはじめると、次第、次第に肢体が露わになっていく。燭台の灯りの中に浮かぶシルエットがあまりに鮮やかで、八郎はしばし魂を奪われてしまう。そのまま志津は八郎の首に手をまわすと、ゆっくりと羽織の帯をほどきはじめた。
「私は悪い女です。幾度も関わりあった男は必ず不幸が待ち構えているのです。なれど今宵一晩は私の相手をしてほしいのです」
 八郎は相手が狐の化け物とわかっていても、誘惑を拒むことはできなかった。
「お前との夜を楽しめるなら、例えこの身を切り刻まれ、無残な屍を晒してもいっこうにかまわん」
 八郎は志津を支配しながら、逆に次第、次第に飲み込まれていくかのような感覚がし、それがさらに八郎を夢中にさせた。こうして八郎にとって今までの人生で、一番長い夜が過ぎた。
 その後八郎は二度と小稲に会うまいと誓ったが、歴史の波に翻弄されるさなかに、再び運命の邂逅をするのだった。




















 
























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