戦国九州三国志

谷鋭二

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【第一章】豊後の異端児・十字架と大砲

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   一四九四年、当時ヨーロッパにおいて覇権を競っていたスペインとポルトガルの間に、トルデシリャス条約が結ばれた。西アフリカのセネガル沖に浮かぶカーボベルデ諸島の西三百七十リーグ(一七七〇キロメートル)の海上で、子午線にそった線(西経四十六度三十七分)の東側の新領土がポルトガルに、西側がスペインに属することを定めた条約である。日本もまたポルトガル領の一部となる。もちろん当時の天皇、将軍、大名、町人、百姓にいたるまで知らぬことではある。
 トルデシリャス条約は、ローマ教皇の権威のもとに正当化された。そして新たに結成されたイエズス会を先鋒に、ポルトガルの国をあげての東方進出が開始される。一五四二年には、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルがインドのゴアに到着。一五四九年ついに日本に到達する。ザビエルは平戸、京、堺、山口など各地で布教活動を行うが思うような成果を得られない。一五五一年、一旦インドへ戻ろうとした矢先、さる大名の招きを受けることとなる。宣教師達のいう豊後の国の王・大友義鎮(後の宗麟)である。時に大友義鎮二十一歳。
  

  大友義鎮という人物は若い頃から奇行多く、当時としては極めて型破りな人物であった。特に性欲が尋常一様ならず、宗麟の父大友義鑑は義鎮の廃嫡を画策し、ついにはこれに反対する重臣によって、大友屋敷二階で殺害された。世にいう大友二階崩れの変である。
 義鎮がキリスト教の布教を許可したのは他の多く大名同様、南蛮との貿易により、得るものが大きかったこともある。だが義鎮の場合それだけではなかったかもしれない。母は早くに亡くし、父に疎まれて育った義鎮は常に神か仏か、もしくはもっと得がたい何者かに救いを求めていた節があった。いずれにせよキリスト教は義鎮の保護のもと、着実に豊後の国に根をおろしていった。


    当時の府内(大分市)の城下図が現存している。
  城下図によると千手堂町・小物座町・柳町など三十六町が、格子上に整然と区画されて並んでいる。街の出入り口は治安上の都合か柵が設けられていた。街の北端には時宗の善巧寺が、西の方角には大雄寺・大智寺等が、そして東南の方角には東西二百三十歩、南北三百六十歩の最大の区画をようして、大友家の菩提寺万寿寺が描かれている。
  大友家の屋敷は、ちょうどこれら寺院に取り囲まれるように存在した。また絵図には唐人屋敷も描かれている。さらに義鎮がキリスト教を保護したことにより孤児院、西洋医術を導入した病院、神学校等が続々と建設された。当時の豊後は、西国と中国の明国及び南蛮とを結ぶ一大交易拠点だったのである。
  義鎮は、家督を継承した年に肥後の菊池義武を隈本城に破り、天文二十一年(一五五二)には肥前の龍造寺・有馬の諸氏を従わせた。後に大友の存在を脅かすことになる島津家も、この時はまだ九州南端の一弱小勢力にすぎない。
  当時の九州に大友家を凌ぐ大名家は存在しない。いや日本国中見渡したところで、織田も徳川もあれいは武田信玄も、せいぜい一国か二国を従えているにすぎず、大友に力及ぶ大名などほとんどいなかったかもしれない。
  当然キリスト教は極東の島国において勢力を増す一方だった。義鎮自身もまた時として、教会のミサに通い神の福音に耳を傾けた。だが一方で義鎮の異常な性癖は、キリスト教の力をもってしてもいっこうに治まる気配がなかった。
 義鎮は十四歳の時、丹後の一式左京大夫義孝の娘を娶り最初の妻とした。だがその年のうちに離縁。奈多八幡宮の大宮司奈多鑑基の娘を嫁としてむかえている。その後奈多姫の嫉妬にも関わらず、関係をもった夫人は数知れない。容色にすぐれた夫人を見ると、例え家臣の妻であろうと強奪し、自らのものにするという漁食ぶりであった。
 天文二十二年(一五五三)、一万田鑑相という大友家の家臣が謀反した。謀反の原因は、義鎮に妻女を奪われた鑑相の報復であったと伝えられる。謀反はほどなく鎮圧され、義鎮は鑑相に加担した服部右京亮の一族をことごとく滅ぼした。
  しかし右京亮の妻安岐だけは殺さず軟禁する。間もなく、大友家中にあらぬ噂がたった。義鎮がついに剣を抜き安岐の服を切りさき、無理矢理関係に及んだというのである。義鎮という人物は、孤児院や病院を建設し幼子や貧民を救済する一方、こうした悪魔のような顔も持っていたのである。


   義鎮がこうした乱行におよんでいる間にも危機が進行していた。
  周防の国は、かって数ある守護大名の中でも最も強大な力を持った大内家の領土だった。だが大内家国主大内義隆は天文二十年(一五五一)、重臣陶隆房の反逆にあって自刃する。謀反人陶隆房は大内義隆死後、義鎮に使いを出し義鎮の弟で大友晴英を、大内家の新たなる国主として迎えたいと申しいれてきた。
「もしそなたが、大内家の主となったところで、陶隆房の傀儡になるだけやもしれぬぞ。それでも行くか」
 義鎮は、はっきりこの件に難色をしめした。ところが晴英は乗る気でいる。
「決して、陶の好きなようにはなりません」
 と、きっぱりといった。
「最悪、命奪われるやもしれぬぞ。その覚悟はあるか」
 義鎮は今一度念を押した。
「武士である以上、いつ何時でも死ぬ覚悟は必要かと」
 晴英は、これもはっきりといった。
 結局、義鎮は折れた。やがて大友の府内の城に陶隆房からの迎えの者がやってきて、晴英はわずかな従者を連れただけで旅立っていった。一行の姿が見えなくなりかけた頃、城壁からその光景を見守っていた義鎮は思わぬ行動に出た。
「よし国崩を用意せよ」
 突如として姿を現したのは、南蛮の宣教師達が義鎮のもとにもたらした大砲・国崩だった。仏狼機砲とも呼ばれ口径九十五ミリ、砲口部外径二百六十四ミリ、全長約三メートル。主に鋳型に青銅を流し込む鋳造式で造られた。日本人が大砲というものに接したのは義鎮がはじめてである。その威力の大きさに驚いた義鎮が、国をも崩せるという意味で『国崩』と名付けたのである。
『弾込め!』
『発射用意!』
 鈍い衝撃音とともに国崩は近くの砂地に着弾した。その威力は凄まじく砂煙が巻き上がると同時に、周辺の鳥や烏が一斉に飛び上がった。もちろん陶家からの迎えの者達も、何事がおきたのかわからず激しく動揺した。
 もちろん晴英は国崩のことは知っている。
「いやはや、兄上らしい別れの挨拶じゃ」
 そういって、からからと笑った。


  すでに九州南端の地薩摩では、島津家が鉄砲の実戦使用を行っていた。そして義鎮もまた、新技術の導入に躊躇しなかった。やがてこれらの技術は九州を、いや日本の歴史を大きく変えていくのである。



 


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