戦国九州三国志

谷鋭二

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【第一章】今山合戦

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 宗麟は再び高良山に陣を構えた。攻囲戦は三月末から開始され、すでに五ヶ月が経過しようとしている。この間、幾度が小競り合いは繰りかえされたものの、佐嘉城城兵達も大将龍造寺隆信のもと懸命に防戦し、城は六万の大軍相手によく持ちこたえていた。大友軍率いる宗麟も、内心いらだちを募らせつつある。
 「皆よく聞け、十日後の八月二十日をもって総攻撃の日とする。総司令官は親貞とする」
  宗麟はよく響く声で軍議のため集まった諸将に最終決断を下した。大友親貞は亡き大内義長の遺児で齢十五。初陣を終えたばかりで、このような年少者を大事な戦の大将に任命するところに、宗麟がときおり見せる愚劣な一面をかいま見ることができる。


『尺寸の地も残さず大幕を打ちつけ家々の籏を立ちならべ……たちつづけたる篝火は沢辺の蛍よりもしげく、朝餉、夕餉の煙立ちて月も光を失える』

 
『肥陽記』は、肥前の山野を覆いつくすかのような大友軍の威容を伝えている。佐嘉城内では連日連夜のように軍議が開かれるが、はかばかしい結論はでない。やがて八月二十日総攻撃の報がもたらされると、城内は主戦派と降伏派、籠城派と決戦派とにわかれ議論は紛糾を極めた。
 「もうよいわい、敵の総攻撃までまだ時はある。軍議は明日にもちこしじゃ、わしは今日は寝る」
  夜が深くなり、ついにたまりかねた隆信は軍議の打ち切りを一方的に宣言した。
 「恐れながら、今が正念場でござる。ここで我等何事か策を練らねば、城を枕に討ち死に以外に道はなくなりまするぞ」
  龍造寺家重臣筆頭の地位にある鍋島信生は、必死に主を軍議の場にとどめようとした。
 「我が軍はせいぜい五千、敵は六万、なにか今の状況を打開する策でもあるというのか。だいたい我が肥前の国人は、皆どいつもこいつも議論するばかりで、事を決断する者がいない。ここでいつまで議論を続けても無駄だ。わしとて武士じゃ、いつでも討ち死にする覚悟くらいできているつもりじゃ」
  そういい残すと、隆信は奥へと姿を消してしまった。

  
  攻める大友方の将親貞はまだ十五歳、若さ故の気負いであろうか、親貞が将として赴任して以降、大友軍の軍規は極めて厳格なものとなった。大友軍の将兵達は佐嘉城総攻撃を前に、悶々たる日々を送っていた。そんな中、九月十九日に至って一つの騒動をきっかけに、将兵達の鬱憤は爆発することとなる。
「止まれ何奴!」
  夕刻をむかえ、今山にある大友軍本陣近くを怪しい人影が通過するのを、たまたま大友軍の兵士の一人が見とがめ声をかけた。
 「怪しい者ではござりません。我等は佐嘉城に酒を運ぶ者でございます」
  ただちに念入りな調査が実行にうつされ、やがて積荷はことごとく没収され、捕らえられた者達は釈放された。
 「城が危ういというに、龍造寺隆信は血迷いでもしたか。この重大な時に酒とは」
  足軽の一人が疑念をいだいた。
 「いや待て、これはひょっとしたら罠かもしれんぞ。以前の戦でも敵の大将は井戸に毒を入れたとか」
 「ほほう、ではこの酒は毒入りか? 五助お前飲んでみろ」
  五助という名の少々気の弱そうな足軽は、必死に断ったが、やがて他の足軽数名に押さえつけられ、頭から酒樽に漬けられてしまった。
  これが騒動の発端だった。毒が入っていないことがわかると、将兵達は勝手に酒を口にし大騒ぎを始め、ついには召集のつかない事態となった。

 
「ただ今敵の陣に放った我等の乱波が驚くべきしらせをもたらしました」
  信生が慌しく軍議の席に姿をあらわした。
 「敵の大将大友親貞の陣にて、先刻来から将兵達が酒を飲み食らい、もはや軍規はあってなきがごとき有様とか」
  諸将が驚く中隆信は、
 「その報せ、まことであろうな」
  と念を押した。
 「間違いござりませぬ。足軽達の中には、すでに立つことすらままならぬ者もおるとか。殿今こそ時にござりまする。奇襲をかければ我等に万に一つの勝算あるやもしれませぬ」
  信生がかすかに興奮して奇襲をすすめたが、隆信は長い間沈黙し返答しようとしない。
 「隆信、なぜ戦しようとせぬ」
  横から軍議に口を挟む者がいた。隆信の生母そして信生にとっても義理の母にあたる慶ぎん尼だった。
 慶ぎん尼は六十一歳、龍造寺家と鍋島家のよしみのため、自ら信生の父清房のもとへ嫁入りのため押しかけたという武勇譚(?)の持ち主である。さしもの隆信も、この気丈な生母にだけは頭が上がらない。
 「隆信そなたはもう坊主ではない。れっきとした武士じゃ。聞けば敵は足元おぼつかぬ者多数とか、かような好機に立たずいつ立つというのじゃ」
 「恐れながら、それがしも同じ意見でござりまする。今立たねば我等必ずや後悔するは必定かと」
  だが義理の弟と母の説得にも、ついに隆信は出陣を決心することができなかった。

  
    その夜遅く、信生は一人慶ぎん尼の部屋へ呼ばれた。
 「のう信生、隆信はすっかり弱気になり、今この好機に立とうとせぬ。ならばそなた一人でも、龍造寺の家のため命捨ててはくれぬか」
 「恐れながら、それがしいつなんなりと龍造寺の御家の為、命捨てる覚悟できておりまする。なれどいかになんでも殿のお許しなくば、出陣することかないませぬ」
  信生はかすかに無念を表情にうかべた。
 「そこでじゃ、わらわに一つ策がある」
  慶ぎん尼は直茂に何事か耳うちした。
「殿、火急の用件なれば失礼つかまつる」
  信生は、就寝中の主の部屋を夜半訪ねた。
 「殿、火急の用件にござりまする」
  信生は二度繰り返したが、隆信は横になったままである。信生は主が狸寝入りをきめこんでいるのも構わず、
 「しからば殿、これにてご免!」
  突如として刀を抜き、自らの腹におしあてた。
「なにをする信生!」
  隆信は驚き、はね起きた。
 「恐れながら、出陣のお許しなくば、それがしここで腹きって果てまする」
  さしも隆信も信生ほど功績ある将に、腹まで斬るといわれては、むげに出陣を却下するわけにもいかなかった。隆信はしばしの間、生きて会うことかなわぬかもしれぬ股肱の臣の顔を見つめた。
 「信生、生きて戻れよ」
  と最後にいった。
  だが信生は主君の巨大な両のまなこと再び目を合わせることなく、
 「御免」
  とだけいい背を向けた。隆信は次第に遠ざかる信生の影を、だまって見送るより他なかった。

  
   時に鍋島信生すなわち後の直茂三十二歳、従う兵わずかに十七騎ほどだったといわれる。この小部隊が敵本陣のある今山へと向かう道中、背後から追いついてくる一団があった。隆造寺家家臣で、後に龍造寺四天王の一人と称せられることになる百武賢兼と、その妻で女ながら武勇に秀でた美代に率いられた一団だった。
 「母上が手を回したのか、わしとともに死する者はついてくるがよい」
  信生は、ただちに馬首を返した。
  さらに進軍を続ける信生の軍に、同じく後に龍造寺四天王の一人として知られることになる、円城寺信胤の一隊なども追いつき、部隊は八百ほどにまでふくれあがった。
 やがて大友軍の大陣容がかすかに信生等の前に展開し始める頃には、ようやく夜が明けようという時分だった。
  後年、鍋島藩に伝わる『武士道とは死ぬことなり』の有名な章句で始まる『葉隠』は説く。

  
 分別ありては突破する事ならず、無分別が虎口前に肝要なり

 
   果たして今山の敵本陣では、多くの兵が泥酔して前後不覚の有様と化していた。見張りの兵が目の前の見慣れぬ一団の部隊に気付き、
 「何者じゃ止まれ」
  と声をかけたが、その声にも生気が今一つ感じられない。
 「美代射ろ」
  百武賢兼に命じられ、美代が放った矢は見事見張り役の兵に命中した。ほぼ同時に、
 「撃て!」
  と、信生はついに鉄砲隊に射撃を命じた。轟音が静寂をやぶった。
 たちまち敵本陣へと迫る信生の部隊、だがまだ前後不覚の大友軍将兵には、なにがおこっているのかわからない。気がついた時には、全身殺気あるいは狂気ともとれる異常な緊張感に身をつつんだ鎧武者が、眼前で刀を手にしている。やがて信生配下の中山掃部介が大音声をあげた。
 「我こそは神代長良なり。故あってただ今より龍造寺の殿にお味方つかまつる。寝返り御免!」
  この偽情報が大友軍の混乱に、さらに拍車をかけることになった。
「どうなっているのだ! 誰ぞ状況を報告致せ」
  まだ年若い大友親貞は、恐れそして混乱した。やがて眼前で展開している阿鼻叫喚の地獄が瞬時静まった時、いつのまにか巨大な馬にまたがった敵の将が、親貞を見下ろしていた。
 「我こそは龍造寺家家臣成松信勝、御首ちょうだいつかまつる!」
  親貞は戦慄し、味方に助けを求めようとしたが、誰一人として役に立つ者などいない。成松信勝のふりかざした槍は、たちどころに親貞を首にしてしまった。

  
   勝敗の帰趨は決した。総大将の死に、圧倒的大軍であったはずの大友勢は再起不能と化した。宗麟はやむなく全軍に撤退の命令をだす。この合戦は今山合戦といわれ、死生を越えて戦った鍋島信生の手柄により龍造寺隆信は、後に大友・島津とともに九州を三分する端緒をつかんだのである。


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