戦国九州三国志

谷鋭二

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【第三章】文禄の役 閑山島沖海戦

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   一方、加藤清正は咸鏡道を北上。難所中の難所である馬息嶺山脈を越え、安辺府をも越え、そして海汀倉(現在の咸鏡北道大津市)に至り、朝鮮側の武将と一戦交え勝利した。
 清正はさらに、朝鮮王朝の二王子が太白山脈を越えて逃亡中という情報を手に入れ、自らも太白山脈を越えた。咸鏡北道の海岸線に沿って進軍し、やがて豆満江の東に位置する会寧に到達する。文禄元年七月のことである。そしてついに会寧で鎮撫・鞠景仁という者が、朝鮮王朝を裏切り、二王子を捕縛し清正に身柄を差し出したのであった。
 

 なおも清正は北上をやめなかった。豆満江をも越えて兀良哈(オランカイ)にまで達し、当時この地を治めていた女真族とも戦った。ここでようやくこれ以上北上することの難しさを悟った清正のもとへ、島津家家臣敷根仲兵衛と猿渡掃部兵衛という者が訪ねてきた。文禄二年(一五九三)一月のことだった。両者は、朝鮮に秀吉のもとから派遣された石田三成・大谷吉継・増田長盛の三奉行の命を伝えるため、はるばる咸鏡道まで旅してきたわけである。
  

 清正はその時、初めて衝撃的な報を耳にする。清正が咸鏡道をも越え、兀良哈まで侵攻している間に、朝鮮本土の戦局は重要な転機をむかえようとしていた。連戦連敗を続けてきた朝鮮王朝が、一人の水軍の将の出現により、反撃に転じはじめていたのである……。



 この時代、太平に弛緩しきった朝鮮王朝を蝕んでいたものに、東人党と西人党の対立というものがあった。これは李氏朝鮮が生んだ二大儒者、すなわち主理派の李滉と主気派の李珥、いずれの教えと正しいと信じるかの問題である。両者の対立は根深く、突如降ってわいたかのような日本との外交問題で、朝鮮側が後手、後手にまわったのも、両者の対立がからんでいる。だが朝鮮両班階級の中には、いずれにも染まらず、ひたすら国難に立ちむかおうとする無骨な軍人もいた。全羅左道水使李舜臣もまた、そのような無骨な軍人の一人だった。

  
 朝鮮王朝の水軍の編成を見ると、三面海に囲まれた朝鮮半島の南部に、四つの水営が置かれている。すなわち慶尚左道水使が朴泓、巨済島加背浦に置かれた慶尚右道水使に元均が、海南に置かれた全羅右道水使に李億祺が任命されている。そしてもう一つ、麗水にある全羅左道水使のポストは、永らく太平の世が続いたため空席となっており、ここに左議政柳成龍の強い推薦により、李舜臣が異例の特進でおさまった。これは実に柳成龍の慧眼といわざるをえない。
  だが異例の大抜擢を受けた李舜臣であったが、日本の水軍と干戈を交える前に、悩みの種が味方であるはずの朝鮮水軍内部にあった。

  
 慶尚右道水使元均は、実に酒好きな男だった。夜毎宴会を開き、朝鮮両班階級のお抱え芸者である妓生に舞いを踊らせ、まるで軍務のことなど眼中になきがごとき有様であった。
  ある夜、李舜臣は突如として元均を訪問し、宴会の席上に姿を現わした。元均は大食漢で肥満していた。そして人一倍臆病であったといわれる。酒が回り前後不覚の元均が気がつくと、そこに甲冑に身を包んだままの、体格のたくましい武人が立ちはだかっていた。
 

「李舜臣ではないか、真面目一徹もよいが、たまには軍務を解いて酒でも飲まぬか?」
  元均がいうが早いが、李舜臣は刀を一閃、差し出された杯を両断してしまった。
 「未曾有の国難でござる。これを職務怠慢といわず何と申されるか! 陛下に対して不忠と思われぬのか!」
  

 この李舜臣の大喝に元均は萎縮し、座は瞬時にして静まりかえった。妓生達も一斉に平伏した。
  李舜臣という武人の奇妙さは、自らが勇気・知略・胆力のいずれにも優れていたばかりでなく、いかに精神が虚弱な者の勇をも、奮いおかさずにはいられなかったという点にある。大喝された元均も翌日から酒断ちし、真剣に軍務にとりくむこととなった。

  
 李舜臣はこの年四十八歳。すでに一度日本の水軍と刃を交えている。文禄元年五月のことで、場所は巨済島周辺。巨済島は約三九〇平方キロメートルの巨大な島で、周囲はリアス式海岸となっている。
  五月七日、朝鮮水軍の先頭をいく見張りの船が、突如として合図の神機箭を天高く打ちあげた。白い煙が瞬時天空を横切る。そこには藤堂高虎の軍船約五十艘が停泊していたのである。おりしも高虎の部隊は、巨済島東岸の玉浦に上陸し、同地で放火、略奪等を繰り返していた。そのため李舜臣の水軍に気付きはしたものの、兵員全てが陸から上がり、戦闘体制に入るまで時間がかかった。李舜臣はこれを好機と見、ただちに全艦隊を一列に連ねる一字陣を敷く。時を経ることなく、朝鮮側の凄まじい艦砲射撃が開始された。虚を突かれた高虎の水軍は壊滅し、二十六艘の船を失い夕刻逃げ去った。
  

 さらに李舜臣は帰路、熊浦の洋上で偶然日本の大型軍船五艘を発見、そのことごとくを撃沈した。そして八日未明には、固城郡の赤珍浦でも大型軍船九艘、中型軍船二艘を沈没させる。
  これが李舜臣の第一次出兵といわれるもので、快勝した李舜臣が大きな自信をもったことは確かである。

  
 この頃すでに、陸の上でも朝鮮側の反撃が始まっていた。それは李氏朝鮮王朝の正規兵によるものではなく、民間が組織した義勇軍によるものであった。朝鮮の各地で民衆が山に逃げ込み、ゲリラとなって果敢に抵抗した。無人の田畑は荒れ果て、日本側の各諸将は、兵糧米の不足にも悩まされることとなる。

  
 李舜臣は日本軍の大挙襲来という、この非常時が来るまで、実にうだつの上がらない軍人だった。それは生来の生真面目さから東人、西人いずれにも属さず、両班階級の上位にある者と、しばしば衝突したからでもある。彼は生涯で幾度か、腐敗しきった官界を後にし、隠遁して花鳥風月を愛でる日々を送る機会があった。特に四十四歳の時、全ての職を辞し幼少時を過ごした忠清道牙山に籠もった時は、山河の清らかさの中に、何やら悟りらしきものを開いた節がある。そして日本軍に荒らされた後の漢城を目撃し、拳を震わせた。そこは一面の廃墟で、血の匂いとともに、見るも無惨な死骸が山をなしていた。李舜臣が手にした剣に記された文字がある

 
  三尺誓天 山河動色
  一揮掃蕩 血染山河

  
 李舜臣の第二次出兵は五月二十九日のことだった。日本側の部隊は、水陸並行で釜山から金海、金海から馬山、馬山からさらに泗川と進み、昆陽に迫っていた。昆陽から李舜臣の本拠地麗水までは、直線距離にして約五十キロである。李舜臣はなんとしても、日本軍の進出を食い止めなければならなかった。
  

 
  その日、泗川周辺は深い霧につつまれていた。日本側の船は約十三隻。この時日本水軍の不幸は、見張りに出した偵察船が李舜臣に発見され、すでに海中に没していたことだった。未明霧が晴れた。そして日本側の将兵は思わず息を飲んだ。
 

「見ろなんだあれは! なんだあの船は!」
  それは李舜臣がこの日のため、船大工に急ピッチで建造させた亀甲船と命名された、日本の将兵が今まで見たことのない奇怪な形をした船だった。
  亀甲船は全長約二十メートル、幅四メートル、舳幅三メートル、艫幅三メートル、高さ四メートル。李舜臣と共に海戦に参加した甥の李芬は、『李舜臣行録』の中で亀甲船について、


 『亀甲船は、板屋船(当時の朝鮮側の主力戦艦)とほぼ同じく上を板で覆い、その板の上には十字型の細道が出来ていて、やっと人が通れるようになっていた。そしてそれ以外は、ことごとく刀錐をさして、足を踏み入れる余裕も無い。前方には竜頭を作り、その口下には銃口が、竜尾にもまた銃口があった。左右にはそれぞれ六個の銃口があり、船形が亀のようであったので亀甲船と呼んだ。戦闘になると、かや草のむしろを刀錐の上にかぶせたので、敵兵がそれとも知らず飛び込むと皆刺さって死んだ。また、敵船が亀甲船を包囲するものなら、左右前後からいっせい砲火が浴びせられた』
  と、書き記している。


 亀甲船は船足が日本の船と比べて異常に速く、動きが流麗である。日本側は海上で翻弄され、さらには体当たりを食らい多くが座礁した。この時李舜臣は、日本船の致命的な弱点に気付いた。竜骨がない日本船は衝撃に弱く、船と船とのぶつかり合いに予想外に脆いのである。
  李舜臣は沈没していく日本船をまの当たりにしながら、酒を口にしていた。李舜臣もまた酒を好んだが、それは戦場で勇を奮いおこすための酒だった。飲むほどに胸中の憂いが深くなり、不意に脳裏を、廃墟と化した漢城の光景がよぎった。李舜臣はついに激し立ち上がった。


 「さあこい倭兵! 見事わしを討ち取ってみろ!」
  楼上に姿を現わした李舜臣は、両手を広げ大音声をあげた。直後、一発の流れ弾が李舜臣の左肩を貫通した。李舜臣は片膝をついたが、なおも仁王のような形相で前方をみすえた。
この日、日本側は十二隻の船を失った。ほぼ壊滅といっていい。さらに六月二日、李舜臣は弥勒島の南岸唐浦というところで、亀井武蔵守率いる水軍を撃破、亀井武蔵守は討ち死にした。六月五日には、朝鮮本土と巨済島の間にある見乃染でも日本水軍を壊滅させ、大将の来島通之は全身に矢を受け憤死した。

  
 相次ぐ敗報は、日本側の将兵に衝撃を与えずにはいられなかった。朝鮮水軍は竜頭をかざした奇怪な船をおし立て、水軍を操るのは李舜臣という、並々ならぬ将であるという。日本側の将兵は覚悟し、釜山基地の西方三十キロの熊浦という基地に、脇坂安治を急行させた。脇坂安治に続く第二軍は九鬼嘉隆、第三軍は加藤嘉明である。大型層楼船七艘を含む約七十艘からなる大船団であった。
  

 脇坂安治の水軍は弥勒島の唐浦を目指した。そして巨済島の西方閑山島近くで朝鮮船団を発見する。この時朝鮮側の水軍は、全羅右道水使李億祺と慶尚右道水使元均の船を合わせて約六十艘、その中に十四艘の亀甲船が含まれていた。
  

 脇坂安治は有名な賤ヶ岳の七本槍の一人である。だが同じ七本槍の加藤清正が肥後半国十九万石、福島正則十一万石に比べ、淡路洲本三万石の主でしかない。焦りがあった。そしてその焦りは、安治をして致命的な失態へと至らしめてしまうのである。
  一方李舜臣は、日本軍来襲に際し素早く伝令をだし、六十艘の船のうち四十七艘を近隣の花島、大竹島等の島影に隠してしまった。

  
 脇坂安治は前方の敵水軍を凝視した。そこには数えるほどの船しかいない。
 「よし攻撃開始だ、あれしきの船たちどころに蹴散らしてくれよう」
 「恐れながら、九鬼嘉隆殿、加藤嘉明殿の来着を待ってからにするべきでは」
  側近が制止したが、安治は聞こうとしない。
 「なにをいうか、あれしきの船隊わし一人で十分じゃ」
  脇坂安治の水軍は先に攻撃を開始した。さすがに数の差は大きく朝鮮水軍は後退し、ついには逃げ出した。
 

「追え、一艘たりとも逃がすな!」
 『輪違い』の旗をなびかせ、脇坂安治の水軍は十三キロもの距離を追走した。追撃しすぎたといっていい。やがて朝鮮水軍は、やや広い閑山島の沖合いに出た。李舜臣はこの時、花島の影に隠れた板屋船の楼上にいた。頭頂に玉鷲をいただく鉄冑をかぶり、黄土色の同じく鉄製の中国風の鎧をまとった李舜臣は、
 「天よ我に加護を……」
  と一言つぶやき、ほぼ同時に剣をぬく、
 「全艦出撃!」
  

 号令一下、大太鼓が鳴り響き、督戦旗や令旗が一斉に風になびく。その時島影に伏せていた朝鮮船団が一斉に出現し、あれよという間に脇坂安治の船団を取り囲んだ。謀られたと気付いた時はすでに遅かった。朝鮮水軍は、海上に鮮やかな鶴翼の陣を敷いたのである。
 

「大砲用意!」
  再び李舜臣の号令が全船団に伝えられた。朝鮮国は陸地での戦いこそ、日本の火縄銃に歯が立たなかったが、大砲の技術では日本側をはるかに凌駕していた。天字砲、玄字砲、地字砲、朝鮮水軍の砲台が一斉に火を噴き、構造の弱い日本の船舶は激震した。着弾の際の衝撃で日本軍将兵の多くが宙高く放りだされ、そのまま海の藻屑と化す。そして多くの兵士が、逃げ場のない船の中を、必死に砲撃から逃れようとあがいた。やがて亀甲船が眼下に迫ってくる。日本兵は戦意を喪失しパニックに陥った。
  

 脇坂安治は後悔し、全船に撤退を命じた。狭い海峡の水路に逃げ込むことさえできれば、朝鮮水軍の猛威をかわすことができるはずである。ところがこの時、李舜臣の待ちに待っていたことがおこった。潮の流れが変わったのである。むろん李舜臣は潮流まで計算済みだった。
  逃れることができなくなった脇坂安治の水軍は、今はこれまでど必死の抵抗をこころみた。だが勝敗はすでに決したも同じだった。実に七十艘の船のうち、六十艘近くの船を失ったのである。脇坂安治もまた、命からがら閑山島沖を脱出するのが精一杯だった。

  
 この閑山島沖海戦は、文禄の役の戦局を大きく左右することとなる。単に一戦場で大敗を察したというだけではない。以後日本側は制海権を李舜臣に握られ、日本からの兵糧・物資の輸送にも支障をきたすこととなるのである。日本の将兵は、この敗戦で水軍提督李舜臣の名を心胆に刻むこととなった。







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