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【第四章】京・伏見城攻防戦
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慶長五年(一六〇〇)七月京・伏見
島津義弘は、故太閤が残した巨大な遺産とでもいうべき伏見城の前で、思わぬ立ち往生を食っていた。晩年の太閤が精魂かたむけて築城した巨大要塞は、今徳川方の鳥居元忠が守る城と化していた。すでに伏見城と大坂城という天下をつかさどる二大政庁は、徳川方によって占拠されている。
「恐れながら、やはり交渉は無理でござる。鳥居元忠は、伏見城は徳川方のみで守ってみせる。よそ者は手出し無用と、それを繰り返すのみ」
と片膝をつきいったのは、薩摩から急ぎかけつけた長寿院盛淳だった。盛淳は庄内の乱の最中、敵の中に孤立し、味方であるはずの島津家中の者にまで見捨てられて以降、薩摩に己の居場所を見出すことができず、死をも覚悟で義弘のもとへ参じていた。
義弘は床机から立ち上がり、今一度伏見城天守閣の方角を見上げた。義弘はもともと家康を高く買っていた。朝鮮の役の後、豊臣家の法度に違反することながらも、五万石もの加増を許諾したのは家康である。
六月十八日、家康が会津征伐に赴く際、義弘は山科まで軍勢を見送り、
「恐れながら、石田治部少輔に怪しい動きあり。くれぐれも御油断めされるな」
とそっと耳打ちした。その時家康は鷹揚にうなづき、
「ご案じめされるな。すでに手は打ってござる。ただ心残りは伏見に残した我家臣鳥居元忠のこと。兵が少なすぎる故、御助力たまわれば家康思いのこすことはござらん」
と義弘の手をにぎりながらいった。
「あいは全て芝居であったか、所詮家康は、自らの譜代の家臣意外信用しておらんということか。それにしても、いま少し兵があれば……」
義弘は歯ぎしりした。幾度さいそくしても兵を送ろうとしない兄龍伯。義弘を慕う薩摩隼人達は、おいおい陸路山陽道、あれいは瀬戸内の海路をもって集結しつつある。それでもせいぜい一千ほど。いかに精強をもって知られる島津兵といえど、侮られるのもせんなきことであった。
その頃、薩摩では龍伯が事実上隠居し、義弘の三男である島津忠恒が、十七代目の島津家国主となっていた(通説では島津家第十七代当主は島津義弘となっていますが、この件に関しては多くの学者から否定的な意見が出ており、恐らく事実でないと思われますので、この物語では第十七代当主は島津忠恒とします。また島津忠恒は家督を継いだ後、家康から一字をもらい島津家久をなのっていますが、これではすでに世を去った家久とまぎらわしいので、この物語では以後も島津忠恒でとおすこととします)。
国許である薩摩が上方の義弘のもとへ軍勢を派遣できないのは、一つには他の西国大名の多くもそうであるように、朝鮮の役による莫大な負担が影響しての財政困難だった。だが薩摩・島津家の場合原因はそれのみではない。先年勃発した庄内の乱といわれる、薩摩人同士の血で血を洗う抗争もおおいに影響していた。この乱の詳細は省略するが、とにかく島津家には、遠く上方まで大軍勢を派遣できる余裕はもはやなかったのである。
「おまんら島津を敵にまわして、よかこつでんあると思うてか!」
城の方角に向かって声をはりあげたのは、薩摩から急ぎかけつけた島津豊久だった。
「やめい豊久、おまんが騒いだところで、城門が開くわけではなか」
義弘は無念であった。家康の腹の底をかいま見た以上、もはや徳川方につくことはできない。さりとて少ない手勢で中立を保つわけにもいかない。やむなく西軍の一翼を担うも、百戦錬磨の義弘には、三成がどうあがこうと家康に勝てるとは到底思えなかった……。
さて石田三成は、家康打倒のため大名妻子を人質に取るという当初のもくろみを、七月十三日から実行にうつそうとしていた。しかしこの計画は、細川忠興夫人ガラシア等による命を捨ててまでの抵抗により頓挫してしまう。
人質作戦には失敗したものの、三成のもとには諸国の武士・大名が続々と集結しつつあった。主な者の名をあげると立花宗茂・鍋島勝茂・小西行長・宇喜多秀家・小早川秀秋等で、その数およそ九万五千。真っ先に三成等西軍の攻撃目標となったのは、やはり伏見城だった。むろんこの攻城戦には、島津義弘も勇んで参加を願い出る。
城攻めに先立って毛利輝元の名で、城方に対する降伏勧告が行われたが、伏見城の守将鳥居元忠はにべもなくこれを拒絶し、三成に力攻めを決意させるに至る。攻め方四万に対し、伏見城守備兵は千八百。だがこの攻城戦は、三成等西軍にとって思わぬ展開を見せるのである。
城将鳥居元忠には、ある一つの強い思いがあった。伏見城を発つ前夜、家康は幼少の頃から側近くに仕え、六十二になるこの老臣に、不意に若年の頃の昔話などを始め、次いで沈黙した。元忠には長年の付き合いから、家康がなにをいわんとしているのか、はっきりとわかった。
「殿、この城の守りはそれがし一人で十分にござる」
家康は会津遠征のため、伏見城守備に多くの兵はさけない。せいぜい千ほどであろう。押し寄せる西軍諸将の数は、万をはるかにこえるはずである。
「治部が攻めてくれば、この城は孤立無援となる。命を捨てねばならぬかもしれぬぞ……」
そこまでいい終わると、不意に家康は目を赤くした。その夜主従別れの宴となり、老将は三方ヶ原の合戦の際痛めた片足をひきずりながら、家康のもとを辞去した。
家康という、存在自体が一個の政治機構のような人物が、ここまで感情を露わにしたという記録は、他に伝わっていない。元忠はわずか千五百の手勢ながら、三河武士というものの手強さを西軍諸将に知らしめた後、城とともに滅びる覚悟でいた。
七月十八日、ついに西軍の総攻撃が開始された。だがなにしろ十二もの曲輪をもつ巨大要塞である。元忠をはじめとする三河武士も、じつによく防戦に終始し、火矢、大筒、鉄砲等あらゆる兵器が動員されるも城はなかなか落ちない。元忠は万が一の時は、伏見城に貯蔵してある金銀塊を、銃弾に鋳直してよいと家康に伝えられており弾丸は潤沢にあった。また元忠配下の甲賀衆には射撃の名人も多く、城壁をよじ登ってくる西軍を、見事的確な狙撃で苦しめた。城攻めは三成等の予想に反して、長引く気配を見せ始めた。
「諸将、いったいなにをもたついておられる。高々二千にも満たない敵を蹴散らせぬでは、天下のあざけりをうけるは必定」
七月二十九日、たまりかねた三成は自ら陣頭に姿を現わし、軍議の席上諸将を前に不満を露わにした。
「金吾中納言殿(小早川秀秋)、そなたはなにを躊躇されておいでか。城兵の侮りをうけまするぞ」
もともと意思薄弱な秀秋は、三成の言葉の激しさに沈黙し、ただ頭をたれるのみであった。
「小西行長殿、聞けば清正公とそなたは朝鮮以来の不和とか。ここでいたずらに時を費やせば、今肥後の領国にある清正は、隣国である汝の領土を侵すやもしれませぬぞ」
小西行長もまた言葉を返せず、焦燥感からか唇をかむのみであった。
「あいや待たれい。この伏見城は今は亡き太閤殿下が、精魂かたむけて築かせた城でごわす。また城兵達も一丸となって城を死守する覚悟と思える。なかなかそうおいそれとはいかんでごわんと」
と島津義弘が言葉を挟んだ。
「義弘殿、御身も朝鮮の役のおりはあれほどの武勲をあげながら、何故に敵を滅ぼせぬ」
三成は青白い顔を興奮気味に赤らめた。
「三成殿、それがしに一つ策がござりまする」
進言したのは、豊臣五奉行の一人長束正家だった。
「それがしの配下に、甲賀の者がおりまする。その者に命じて、敵方の甲賀の者が寝返えるようしむけるのです。矢文を放ち内応を約束させましょう。もし応じぬ時は家族をことごとく磔に致すと」
「いいだろう、貴殿に任せよう」
三成は藁にもすがる思いでいった。
三十日子の刻(午前零時)、城内は嵐の前の静けさのように沈黙していた。静寂をやぶったのは一陣の火の手だった。
「松の丸から火の手があがったぞ!」
「何事だ失火か! 敵の火矢か!」
城兵達はただちに消火にむかおうとした。その時、城門が五十数間にわたって破壊され、敵兵が雪崩のごとく城内に侵入を始めた。ことここに至ってようやく城兵達は、内部に裏切り者がいることを敏感に感じ取ったが、時すでに遅し。さらに火は追っ手門の大鉄門をも焦がし、たちまちのうちに小早川、鍋島、相良等の将兵達が、我を先にと城内へ迫る。夜が白々と明ける頃には、名護屋丸、西の丸、太鼓丸も敵の手に落ち、城の運命はほぼ決した。
「見よ天守閣が燃えているぞ、太閤殿下ゆかりの城を、自らの手で焼き払うことになるとはなんという皮肉」
三成は伏見城を煌々と焦がす炎を目にしながら、自らの勝利を確信し、一時だけ感傷にひたった。すでに伏見城の城兵達の多くは討ち死に、焼死もしくは自刃、千八百の兵は二百にまで減っていた。
「ふん、我ながらよく戦ったのう。三河武士がいかに手強いか、三成も西国の諸大名も、とくと思い知ったことであろう」
城将鳥居元忠は敵の返り血を浴びた顔に、かすかに笑みさえ浮かべいった。
「恐れながら、そろそろ敵が、この本丸にも迫ってまいりましょう」
「わしに自害せよと申すか、いやまだじゃ、まだ死ねぬ」
配下の石野小次郎のほうを向くと、元忠は意外なことをいった。
「さりながら、もしものことがあり敵の足軽・雑兵に討ち取られたとあっては恥辱かと」
「構わぬ、こたびわしは名誉のためではなく、一時でも多く時をかせぐための戦と心得ておる。例え小物に討ち取られたとて、わしはいっこうに構わぬ。鳥居彦左衛門元忠、これが殿への最後の忠義ぞ。よいか敵兵と出会ったら必ず殺せ。相手が大将なら刺し違えてでも殺せ。味方の戦死をかえりみるな」
西軍の総攻撃が開始された。この攻撃には島津兵も加わった。復讐の念にかられた島津兵であったが、元忠が率いる二百名は突撃し、天下に精強をもって知られる島津兵を三度にわたって撃退する。四度突撃したが、これによって守備兵のほとんどが戦死。元忠もまた身に五創を負う身となった。
「そこに見えるは敵の御大将とおみうけする。拙者、野村肥後守の家臣雑賀孫一郎重朝と申す。御首ちょうだい致すべく参上つかまつった」
意識が朦朧とする中、薄目を開くと、いつのまにか敵の将が目の前に立っていた。
「そうか、今はもうこれまで。孫一郎とやら、早く首を取って手柄といたせ」
「いや、御大将の戦の采配実に見事。そしてかくも潔い武士に、それがし一度も出会ったことがありませぬ。武人の鑑にござれば、それがしごとき者の手にかかったとあっては誠にもったいない。腹を召されるがよろしい。雑賀孫一郎重朝、謹んで介錯いたす」
「この老人に腹を斬れと申されるか、それもよかろう。孫一郎とやら、鳥居彦衛門元忠の最期しかと見とどけよ」
そういうや否や元忠は、腹に切っ先を突き立て十文字に斬ろうとしたが、すでにその余力は残されていなかった。
「介錯、御免」
老将の首は床に転がり落ちた。鳥居彦左衛門元忠享年六十二歳の見事な最期であった。ほどなく伏見城は全壊し、守備兵もまた、一人の生存者すらなく城とともに滅んだ。
夕闇の中、島津義弘は廃墟と化した巨大要塞を前に立ちすくみ、両手を合わせていた。
「豊久、敵ながら実に見事と思わぬか」
義弘は、かすかに背後に立つ豊久の方角を見ていった。
「左様でごわす。かくも忠義な臣を持った家康は、やはり果報な男でごわす」
「豊久よ、家康は手強いぞ。あれいはこん戦勝ち目がないかもしれぬ」
義弘は本格的な天下分け目の合戦を前に、不吉な言葉を発し豊久を驚かせた。義弘にとっての大事はすでに、戦の勝ち負け如何に関わらず、島津の名を汚さないこと。その一事となっていたのである。
島津義弘は、故太閤が残した巨大な遺産とでもいうべき伏見城の前で、思わぬ立ち往生を食っていた。晩年の太閤が精魂かたむけて築城した巨大要塞は、今徳川方の鳥居元忠が守る城と化していた。すでに伏見城と大坂城という天下をつかさどる二大政庁は、徳川方によって占拠されている。
「恐れながら、やはり交渉は無理でござる。鳥居元忠は、伏見城は徳川方のみで守ってみせる。よそ者は手出し無用と、それを繰り返すのみ」
と片膝をつきいったのは、薩摩から急ぎかけつけた長寿院盛淳だった。盛淳は庄内の乱の最中、敵の中に孤立し、味方であるはずの島津家中の者にまで見捨てられて以降、薩摩に己の居場所を見出すことができず、死をも覚悟で義弘のもとへ参じていた。
義弘は床机から立ち上がり、今一度伏見城天守閣の方角を見上げた。義弘はもともと家康を高く買っていた。朝鮮の役の後、豊臣家の法度に違反することながらも、五万石もの加増を許諾したのは家康である。
六月十八日、家康が会津征伐に赴く際、義弘は山科まで軍勢を見送り、
「恐れながら、石田治部少輔に怪しい動きあり。くれぐれも御油断めされるな」
とそっと耳打ちした。その時家康は鷹揚にうなづき、
「ご案じめされるな。すでに手は打ってござる。ただ心残りは伏見に残した我家臣鳥居元忠のこと。兵が少なすぎる故、御助力たまわれば家康思いのこすことはござらん」
と義弘の手をにぎりながらいった。
「あいは全て芝居であったか、所詮家康は、自らの譜代の家臣意外信用しておらんということか。それにしても、いま少し兵があれば……」
義弘は歯ぎしりした。幾度さいそくしても兵を送ろうとしない兄龍伯。義弘を慕う薩摩隼人達は、おいおい陸路山陽道、あれいは瀬戸内の海路をもって集結しつつある。それでもせいぜい一千ほど。いかに精強をもって知られる島津兵といえど、侮られるのもせんなきことであった。
その頃、薩摩では龍伯が事実上隠居し、義弘の三男である島津忠恒が、十七代目の島津家国主となっていた(通説では島津家第十七代当主は島津義弘となっていますが、この件に関しては多くの学者から否定的な意見が出ており、恐らく事実でないと思われますので、この物語では第十七代当主は島津忠恒とします。また島津忠恒は家督を継いだ後、家康から一字をもらい島津家久をなのっていますが、これではすでに世を去った家久とまぎらわしいので、この物語では以後も島津忠恒でとおすこととします)。
国許である薩摩が上方の義弘のもとへ軍勢を派遣できないのは、一つには他の西国大名の多くもそうであるように、朝鮮の役による莫大な負担が影響しての財政困難だった。だが薩摩・島津家の場合原因はそれのみではない。先年勃発した庄内の乱といわれる、薩摩人同士の血で血を洗う抗争もおおいに影響していた。この乱の詳細は省略するが、とにかく島津家には、遠く上方まで大軍勢を派遣できる余裕はもはやなかったのである。
「おまんら島津を敵にまわして、よかこつでんあると思うてか!」
城の方角に向かって声をはりあげたのは、薩摩から急ぎかけつけた島津豊久だった。
「やめい豊久、おまんが騒いだところで、城門が開くわけではなか」
義弘は無念であった。家康の腹の底をかいま見た以上、もはや徳川方につくことはできない。さりとて少ない手勢で中立を保つわけにもいかない。やむなく西軍の一翼を担うも、百戦錬磨の義弘には、三成がどうあがこうと家康に勝てるとは到底思えなかった……。
さて石田三成は、家康打倒のため大名妻子を人質に取るという当初のもくろみを、七月十三日から実行にうつそうとしていた。しかしこの計画は、細川忠興夫人ガラシア等による命を捨ててまでの抵抗により頓挫してしまう。
人質作戦には失敗したものの、三成のもとには諸国の武士・大名が続々と集結しつつあった。主な者の名をあげると立花宗茂・鍋島勝茂・小西行長・宇喜多秀家・小早川秀秋等で、その数およそ九万五千。真っ先に三成等西軍の攻撃目標となったのは、やはり伏見城だった。むろんこの攻城戦には、島津義弘も勇んで参加を願い出る。
城攻めに先立って毛利輝元の名で、城方に対する降伏勧告が行われたが、伏見城の守将鳥居元忠はにべもなくこれを拒絶し、三成に力攻めを決意させるに至る。攻め方四万に対し、伏見城守備兵は千八百。だがこの攻城戦は、三成等西軍にとって思わぬ展開を見せるのである。
城将鳥居元忠には、ある一つの強い思いがあった。伏見城を発つ前夜、家康は幼少の頃から側近くに仕え、六十二になるこの老臣に、不意に若年の頃の昔話などを始め、次いで沈黙した。元忠には長年の付き合いから、家康がなにをいわんとしているのか、はっきりとわかった。
「殿、この城の守りはそれがし一人で十分にござる」
家康は会津遠征のため、伏見城守備に多くの兵はさけない。せいぜい千ほどであろう。押し寄せる西軍諸将の数は、万をはるかにこえるはずである。
「治部が攻めてくれば、この城は孤立無援となる。命を捨てねばならぬかもしれぬぞ……」
そこまでいい終わると、不意に家康は目を赤くした。その夜主従別れの宴となり、老将は三方ヶ原の合戦の際痛めた片足をひきずりながら、家康のもとを辞去した。
家康という、存在自体が一個の政治機構のような人物が、ここまで感情を露わにしたという記録は、他に伝わっていない。元忠はわずか千五百の手勢ながら、三河武士というものの手強さを西軍諸将に知らしめた後、城とともに滅びる覚悟でいた。
七月十八日、ついに西軍の総攻撃が開始された。だがなにしろ十二もの曲輪をもつ巨大要塞である。元忠をはじめとする三河武士も、じつによく防戦に終始し、火矢、大筒、鉄砲等あらゆる兵器が動員されるも城はなかなか落ちない。元忠は万が一の時は、伏見城に貯蔵してある金銀塊を、銃弾に鋳直してよいと家康に伝えられており弾丸は潤沢にあった。また元忠配下の甲賀衆には射撃の名人も多く、城壁をよじ登ってくる西軍を、見事的確な狙撃で苦しめた。城攻めは三成等の予想に反して、長引く気配を見せ始めた。
「諸将、いったいなにをもたついておられる。高々二千にも満たない敵を蹴散らせぬでは、天下のあざけりをうけるは必定」
七月二十九日、たまりかねた三成は自ら陣頭に姿を現わし、軍議の席上諸将を前に不満を露わにした。
「金吾中納言殿(小早川秀秋)、そなたはなにを躊躇されておいでか。城兵の侮りをうけまするぞ」
もともと意思薄弱な秀秋は、三成の言葉の激しさに沈黙し、ただ頭をたれるのみであった。
「小西行長殿、聞けば清正公とそなたは朝鮮以来の不和とか。ここでいたずらに時を費やせば、今肥後の領国にある清正は、隣国である汝の領土を侵すやもしれませぬぞ」
小西行長もまた言葉を返せず、焦燥感からか唇をかむのみであった。
「あいや待たれい。この伏見城は今は亡き太閤殿下が、精魂かたむけて築かせた城でごわす。また城兵達も一丸となって城を死守する覚悟と思える。なかなかそうおいそれとはいかんでごわんと」
と島津義弘が言葉を挟んだ。
「義弘殿、御身も朝鮮の役のおりはあれほどの武勲をあげながら、何故に敵を滅ぼせぬ」
三成は青白い顔を興奮気味に赤らめた。
「三成殿、それがしに一つ策がござりまする」
進言したのは、豊臣五奉行の一人長束正家だった。
「それがしの配下に、甲賀の者がおりまする。その者に命じて、敵方の甲賀の者が寝返えるようしむけるのです。矢文を放ち内応を約束させましょう。もし応じぬ時は家族をことごとく磔に致すと」
「いいだろう、貴殿に任せよう」
三成は藁にもすがる思いでいった。
三十日子の刻(午前零時)、城内は嵐の前の静けさのように沈黙していた。静寂をやぶったのは一陣の火の手だった。
「松の丸から火の手があがったぞ!」
「何事だ失火か! 敵の火矢か!」
城兵達はただちに消火にむかおうとした。その時、城門が五十数間にわたって破壊され、敵兵が雪崩のごとく城内に侵入を始めた。ことここに至ってようやく城兵達は、内部に裏切り者がいることを敏感に感じ取ったが、時すでに遅し。さらに火は追っ手門の大鉄門をも焦がし、たちまちのうちに小早川、鍋島、相良等の将兵達が、我を先にと城内へ迫る。夜が白々と明ける頃には、名護屋丸、西の丸、太鼓丸も敵の手に落ち、城の運命はほぼ決した。
「見よ天守閣が燃えているぞ、太閤殿下ゆかりの城を、自らの手で焼き払うことになるとはなんという皮肉」
三成は伏見城を煌々と焦がす炎を目にしながら、自らの勝利を確信し、一時だけ感傷にひたった。すでに伏見城の城兵達の多くは討ち死に、焼死もしくは自刃、千八百の兵は二百にまで減っていた。
「ふん、我ながらよく戦ったのう。三河武士がいかに手強いか、三成も西国の諸大名も、とくと思い知ったことであろう」
城将鳥居元忠は敵の返り血を浴びた顔に、かすかに笑みさえ浮かべいった。
「恐れながら、そろそろ敵が、この本丸にも迫ってまいりましょう」
「わしに自害せよと申すか、いやまだじゃ、まだ死ねぬ」
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「さりながら、もしものことがあり敵の足軽・雑兵に討ち取られたとあっては恥辱かと」
「構わぬ、こたびわしは名誉のためではなく、一時でも多く時をかせぐための戦と心得ておる。例え小物に討ち取られたとて、わしはいっこうに構わぬ。鳥居彦左衛門元忠、これが殿への最後の忠義ぞ。よいか敵兵と出会ったら必ず殺せ。相手が大将なら刺し違えてでも殺せ。味方の戦死をかえりみるな」
西軍の総攻撃が開始された。この攻撃には島津兵も加わった。復讐の念にかられた島津兵であったが、元忠が率いる二百名は突撃し、天下に精強をもって知られる島津兵を三度にわたって撃退する。四度突撃したが、これによって守備兵のほとんどが戦死。元忠もまた身に五創を負う身となった。
「そこに見えるは敵の御大将とおみうけする。拙者、野村肥後守の家臣雑賀孫一郎重朝と申す。御首ちょうだい致すべく参上つかまつった」
意識が朦朧とする中、薄目を開くと、いつのまにか敵の将が目の前に立っていた。
「そうか、今はもうこれまで。孫一郎とやら、早く首を取って手柄といたせ」
「いや、御大将の戦の采配実に見事。そしてかくも潔い武士に、それがし一度も出会ったことがありませぬ。武人の鑑にござれば、それがしごとき者の手にかかったとあっては誠にもったいない。腹を召されるがよろしい。雑賀孫一郎重朝、謹んで介錯いたす」
「この老人に腹を斬れと申されるか、それもよかろう。孫一郎とやら、鳥居彦衛門元忠の最期しかと見とどけよ」
そういうや否や元忠は、腹に切っ先を突き立て十文字に斬ろうとしたが、すでにその余力は残されていなかった。
「介錯、御免」
老将の首は床に転がり落ちた。鳥居彦左衛門元忠享年六十二歳の見事な最期であった。ほどなく伏見城は全壊し、守備兵もまた、一人の生存者すらなく城とともに滅んだ。
夕闇の中、島津義弘は廃墟と化した巨大要塞を前に立ちすくみ、両手を合わせていた。
「豊久、敵ながら実に見事と思わぬか」
義弘は、かすかに背後に立つ豊久の方角を見ていった。
「左様でごわす。かくも忠義な臣を持った家康は、やはり果報な男でごわす」
「豊久よ、家康は手強いぞ。あれいはこん戦勝ち目がないかもしれぬ」
義弘は本格的な天下分け目の合戦を前に、不吉な言葉を発し豊久を驚かせた。義弘にとっての大事はすでに、戦の勝ち負け如何に関わらず、島津の名を汚さないこと。その一事となっていたのである。
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毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
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歴史・時代
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。
尾張徳川家(尾張藩)の第14代・第17代当主の徳川慶勝が、美濃高須藩主・松平義建の次男・秀之助ではなく、夭折した長男・源之助が継いでおり、彼が攘夷派の名君となっていた場合の仮想戦記を書いてみました。夭折した兄弟が活躍します。尾張徳川家15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬、特に会津藩主・松平容保と会津藩士にリベンジしてもらいます。
もしかしたら、消去するかもしれません。
札束艦隊
蒼 飛雲
歴史・時代
生まれついての勝負師。
あるいは、根っからのギャンブラー。
札田場敏太(さつたば・びんた)はそんな自身の本能に引きずられるようにして魑魅魍魎が跋扈する、世界のマーケットにその身を投じる。
時は流れ、世界はその混沌の度を増していく。
そのような中、敏太は将来の日米関係に危惧を抱くようになる。
亡国を回避すべく、彼は金の力で帝国海軍の強化に乗り出す。
戦艦の高速化、ついでに出来の悪い四姉妹は四一センチ砲搭載戦艦に改装。
マル三計画で「翔鶴」型空母三番艦それに四番艦の追加建造。
マル四計画では戦時急造型空母を三隻新造。
高オクタン価ガソリン製造プラントもまるごと買い取り。
科学技術の低さもそれに工業力の貧弱さも、金さえあればどうにか出来る!
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