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【第二章】長州の反撃
薩長同盟
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(一)
長州藩は幕府相手に最後の一兵まで戦う覚悟をかためた。
日本海と瀬戸内海にはさまれた防長二州は、古来より幾度も天下争覇の戦いにまきこまれてきた。源氏と平家が壇之浦で雌雄を決したの有名な話しである。その後、防長二州は大内氏のおさめるところとなる。
大内氏は室町時代、数ある守護大名の中でも指おりの力をもった名族中の名族である。大内氏二十五代の大内義弘は、山口に瑠璃光寺五重塔を建立した。そして山口を京の都に対抗して西の京、すなわち「西京」と称し、京風文化を積極的に導入する。そのこと自体が大内氏というより、時代をこえて受け継がれてきた、この地の中央への対抗意識のあらわれといっていいだろう。
その大内義弘の代、すでに大内氏は周防、長門、豊前、後には石見、紀伊、和泉の守護となる。将軍家に対抗できるほどの勢力にまで成長したのである。
最初は義弘は、室町幕府の三代将軍義満とたいへん良好な仲だったといわれる。有力な守護山名氏が将軍家に背いた明徳二年(一三九一)年の明徳の乱では、一騎討ちで敵の名だたる将の首をあげるなどして武功を輝かせた。
しかし義弘が、将軍義満の金閣寺造営費用の拠出を拒否したあたりから関係は悪化の一途をたどる。ついには当時将軍家と犬猿の仲だった鎌倉企方足利満兼と連絡を取り合い謀反に及ぶ。なんと自らの葬儀をすませた後戦いにのぞみ見事討ち死にした。
その後、大内氏は勢力を盛りかえし、戦国時代には出雲の尼子氏、九州の大友氏などと激しい争いをくりひろげる。その争いの中で大内氏は、重臣陶晴賢の反逆にあってついに滅亡する。安芸の国の弱小勢力にすぎなかった毛利氏が、この混乱に乗じて陶晴賢を滅ぼし、さらに尼子氏をも滅ぼしてしまう。
毛利氏は一代の英傑毛利元就の死後、九州の大友氏と関門海峡を挟んで争い、後には織田信長とも争う。しかし信長の後継となった豊臣秀吉のもとにおいては、当主の毛利輝元は五大老の一人となった。
その毛利輝元は、関ケ原の合戦では西軍の事実上の大将となる。しかしかって自らの葬式まですませ、足利義満との勝ち目のない戦に赴いた大内義弘と違い、毛利輝元の身のほどこし方は情けないものだった。
自らが西軍の大将でありながら、輝元は東軍の大将家康と不戦の密約なるものをかわし、その約定どおり戦場で一発の弓矢も放たなかった。天下の要害大坂城でさえあっさりと徳川方に明け渡してしまう。
しかし老獪な家康は、戦後あっさりと毛利との約定をなきものとした。山陰、山陽にまたがっていた毛利家の領土は、わずか防長二州のみとなり、毛利氏は幕末まで窮乏することとなる。そのことがまた、幕末における反幕府のエネルギーとなるのである。
こうして防長二州が天下の覇権をかけた争いに常にまきこまれるのも、なんといってもこの地が関門海峡経由で九州と連なり、そして朝鮮、中国ともつながり、海のルートを通じた交易で豊かであるからである。大内氏の時代には貿易の利権をめぐって当時ライバルだった細川氏と、中国すなわち明国の寧波で、寧波の乱なるものまでおこしている。
かって薩摩の前国主島津斉彬は、防長二州を直轄地にしない幕政ををして、ゆくゆく自らの首をしめるようなものであると批判したという。そして長州はついに、幕府に牙をむこうとしていた。
さて功山寺決起の後、高杉晋作は奇兵隊の規律にほとほと困りはてた。俗論党との戦いに勝利した後、奇兵隊士の中には上士の屋敷の押しいって婦女子をかどわかす者、あれいは盗みをはたらく者もいた。
また戦後行われた論功行賞でも、山縣はじめ多くの者が人事に不平をとなえる。
「人は艱難を共にできても、富貴は共にできるものではない」
晋作は古今の歴史の本質に迫る名言を残し、長州藩領から姿を消してしまう。時に慶応元年(一八六五)二月のことだった。藩から一千両を借り、腰ぎんちゃくの伊藤俊輔を連れ、晋作は本気で英国に留学する計画をたてていたようである。
二人は長崎まで出た。しかしそこで英国の商人グラバーと会い、様々な話しをきくうち考えを変え長州に戻ってくる。晋作が長州藩をして幕府の支配から脱した一独立国家とし、五大州と対等に交易や外交を行うという遠大な構想を持つにいたるのは、この頃のことだった。
この構想を実現するためには、なんといっても関門海峡を通じての貿易の利権をがっちり掌握する必要がある。しかし馬関には、長府藩など複数の長州藩の支藩が支配する土地がある。これを長州直轄にすることを藩主に進言したため、晋作は長府藩の刺客に命を狙われることとなる。晋作は再び行方をくらまし、愛人のおうのという女性と共に、四国へと逃亡するのであった。
(二)
晋作がいない間にも、長州藩をめぐる情勢は激しく動いていた。四月には、長く但馬出石に潜伏していた桂小五郎が、長州に戻ってきた。その推挙により周防・鋳銭司村の村医だった村田蔵六という者が、長州藩の軍事の一切を任されることとなる。
この村田蔵六なる者は、豊後の国の咸宜園で漢籍、算術、数字を学び、大坂の適塾で蘭学と医術を学び塾頭までつとめたという秀才だった。その後、宇和島藩に召し抱えられ、軍艦の研究と砲台製造に関わった。
実に奇怪な面相をしていたといわれる。額が異常に広く、濃い眉に長い目、耳が大きく、鼻も高かったようである。「火吹きダルマ」というのが、長州人が蔵六につけた仇名だった。
「それでは、そなたは今のままでは長州はやはり幕府には勝てぬと申すか?」
山口で藩主に謁見した蔵六は、藩主の横に座る吉川経幹の質問に、
「そうであります」
と無表情のままいった。蔵六は今でいうところの典型的な理系人間である。機械のように極めて精緻で発達した頭脳をもつ一方、およそ人間性というものが皆無に等しかった。かって鋳銭司村で村医をしていたが、近隣の百姓が「お暑うございます」と挨拶したのに対し「暑中は暑いのあたりまえです」と返答するほどの無愛想ぶりで、医師としては挫折したといっていい。
「ええい! じゃからその勝ち目のない戦にいかにしたら勝てるか、それをそなたに問うておるのじゃ!」
経幹はいらだった。
「されば、今の長州の戦力をもって幕軍を撃退することは、古今のいかな名将でも無理でありましょう。またこの蔵六にも無理であります。まず火器が足りておりません。蔵六の計算によりますとミニェー銃が四千、ゲベール銃が三千は必要であるかと……」
「そげぃに必要なのか?」
座はどよめいた。
「また軍制の改革も必要であります。今までの武士階級や諸隊だけでは幕府軍には勝てませぬ。農民や町人からも兵士を募集すべきでしょう。それらの志願兵には給与が必要であります。その給与はもちろん藩が支払うべきでありましょう」
さらに蔵六は様々な改革案を藩に意見した。そしてそれに基づいて厳しい軍事訓練がおこなわれる。特に蔵六が重点を置いたのは、部隊の中核となる士官の育成だった。
士官候補生を育成する兵学校を創設し、階層や石高の上下に関わらず少壮の士が入学を許可された。兵学校を卒業した士官に対しては、四カ月で小隊指揮を錬成する三兵塾が開設される。そこでは歩兵、砲兵、偵察などの任務が主として教えられた。
特に砲兵塾は教育機関が三期にわけられた。第一期は大砲の使用法、火具製造法などの初歩的な内容が主である。第二期は教練場において砲隊の指揮実習、第三期はもっぱら戦術教育にあてられた。
長州藩は来るべき幕府との決戦に備えて、着々と準備を整えつつあった。
(村田蔵六こと後の大村益次郎)
(三)
一方、外交面でも長州藩は重要な岐路に立たされようとしていた。土佐藩の脱藩浪士・坂本龍馬、中岡慎太郎なる者が長州を訪れ、薩摩と長州の和解と同盟を説いたのである。小五郎は、この龍馬の申し出に困惑した。
「事はあまりに重大だ! すぐには返事をできん。しばし時をくれ」
桂は、この薩摩との同盟の話しを晋作に相談した。晋作は一カ月ほどの逃避行の末、長州本藩が長府藩に圧力をかけたことにより、長州に戻っていた。
ちょうど晋作は桜山の招魂場にいた。八・一八事件以降の一連の戦いで死んでいった長州藩士のいわば供養塔だった。ここで晋作は次のような詩をよんでいる。
同舎の有朋ことごとく忠死し
独り君と我と生をぬすむ有り
心を合わせて是より辛苦を共にせん
学ばんと欲す景清と幸盛とを
そこに桂が現れた。桂はおそらく晋作は薩長の同盟などには決して承諾せぬものと思っていた。しかし晋作の答えは予想外のものだった。
「承諾なさるがよろしかろう」
とあっさりいった。
「恐らくここに眠る者のだれしも、そして久坂も入江も他の者も納得せんでしょう。しかしわしはつい数日前、久方ぶりに息子と会いました。
あの子の将来のため自分になにができるか? もう幕府にはこの国の舵取りは無理です。今この国を動かせるのは、天下広しといえども我が長州と薩摩だけです。この国を第二の上海にせんために、薩摩との同盟にかけてみるより他ないのかもしれません。最も、それはあくまで薩摩が同盟を承諾したらの話しです」
この後、両藩の間で坂本龍馬と中岡慎太郎を挟んで内々に交渉が行われた。そしてついに薩摩側の西郷吉之助と桂のトップ会談が馬関で行なわれることとなった。ところが西郷は、なにを思ったか馬関を素通りして上方へのぼってしまった。
龍馬と慎太郎は顔面蒼白となり、面目をつぶされて桂もまた激怒した。しかし、この不始末の埋め合わせとして薩摩藩名義で兵器と軍艦を購入し、長州にこれを横流しする計画が進められる。
坂本龍馬という、この一連の龍馬伝説をつくりあげるほど、柔軟な発想と人間的魅力につつまれた不思議な浪人は、長崎で薩摩名義での武器購入の件を、英国の商人バークスにもちかけた。龍馬はこの商談は難航するものと予想していたが、意外にもバークスはあっさりとこの一件を承諾した。
その背景には、この頃英国にとっての宿敵フランスが、徳川幕府に急接近し始めたことがあった。一橋慶喜がフランスのナポレオン三世と手紙を通じて交流を深め、フランスの軍服を着て写真撮影を行い、フランス料理を好んだことは有名である。後に幕府はフランスから軍事顧問団を招き入れ、軍の洋式化をすすめてゆくことになる。
帝国主義下において、英国は世界中ありとあらゆる地域でフランスと争そってきた。北米新大陸では、現在のアメリカとカナダにおよぶ広い範囲で、アン女王戦争、ジョージ王戦争、フレンチ=インディアン戦争などが行われた。
またインドにおいてもムガル帝国の分裂と弱体化にともない地方政権の対立抗争に巻きこまれながら、英仏両国は一七四四年からのカーナティック戦争、一七五七年のプラッシーの戦いなどを戦った。
英国としてはここで薩長に恩を売り、幕府そしてフランスに対抗するという思惑があった。
ちなみに一八六五年、アメリカでは南北戦争が終結していた。その結果大量の銃や兵器が在庫として上海あたりに出回り、死の商人である英国商人は、たいへんな経営難におちいっていた。グラバーは新たな武器の市場として日本に目をつけた。長州藩には大量のミニェー銃などがもたらされるが、長州人のだれしもが、そこまでは知るよしもなかった。
こうした経緯をへて十二月十九日、薩摩から藩士を名乗る一人の容貌魁偉な男が馬関を訪れた。その男は黒田了介と名乗った。
「この前の一件、僕は非常に憤慨している!」
と木戸貫治(桂小五郎がこの頃改名)は、会見が始まるや否や不満を爆発させた。黒田はひたすら辞を低くくして謝罪につとめた。単に薩摩藩士の一人として責任を痛感していたからだけではなかった。人には苦手な人物という者がやはりいるものである。黒田は木戸に一目あった時から、その苦手意識を感じていたのである。
明治政府ができた後のことである。木戸と黒田は共に明治政府の高官として名をつらねていたが、ある年の正月、黒田が年始の挨拶に木戸邸を訪れた時事件はおきた。
黒田は明治の元勲になった後も、酒を飲んでの不始末がしばしばあった。事もあろうに木戸の屋敷で泥酔して暴れだしたのである。しかし木戸は柔術の心得もあった。黒田を背負い投げのうえでおさえこみ、巨大な袋に包んで屋敷へ送りかえしたというのである。
さてこの席には、木戸の他に井上聞多、山縣狂介、高杉晋作等、早々たる面々が顔を並べていた。晋作は、黒田と木戸のやり取りを一言も発せず沈黙して聞いていた。ところがその日の会見が一段落しようかという頃、ようやく晋作が口を開いた。
「黒田とやら、おまえさんは長州人と薩摩人はどこが違っていると思う?」
黒田は突然話しをきりだされ、晋作の真意がわからずしばし困惑した。
「ええか薩摩人というのは、いついかなる時でも、まるで生きていることが恥であるかのように、やみくもに死ぬことばかり考えちょる。
じゃが長州人がもっとも恐れていることは、いかな志もとげることない、全く無益な死だ。それをさけるため、時として逃げることも恥とは思っておらん。のう木戸さん、逃げ上手のあんたが一番よくわかっちょるだろう?」
高杉は、少し意地悪い目で木戸のほうを見た。
「こら高杉やめんか!」
と木戸はもともとこわばった表情を、さらに固くしていった。
「わが師、松陰先生もおおせられた。生きて大業の見込みあらば、いつまででも生きよとな。久坂も、入江も、皆おまえさんたち薩摩のために殺されたようなもんじゃ。その死を決して、決してただの無駄死にはしたくない。そのために当の敵であるおまえさんたちと手を組むのじゃ! 次はない。そうしかと西郷に伝えろ」
この晋作の言葉に、木戸も山縣も何事かを思いつめたように沈黙した。黒田は座の微妙な空気を察して、額に脂汗をうかべる。
「承知いたしもうした」
とかろうじて返答した。
会談はそれから数日続いた。その間、黒田と山縣は妙に馬があった。別れ際、黒田は山縣に一詩をおくった。
両心相結んで 相離れず
事業由来機を見るを 貴しとす
一諸君におくる 君よく記せよ
回天の志は 皇基をたてるにあり
これに対しての山縣の返歌も残っている
男子なにすれぞ 別れを嘆くぞ
計謀ひとたび定まって 機をあやまつなかれ
奇に出で変に処すれば 天日めぐろい
共に錦旗を掲げて 帝基をまもらん
この後、両藩の間で様々なやり取りあった後、今度こそ西郷、木戸のトップ会談が実現の見通しとなった。この時、長州側から京にある薩摩藩邸に赴いたのは村塾門下の一人品川弥次郎、奇兵隊隊長の三好軍太郎、そして土佐から田中光顕といったところであった。
巷間よくいわれるように、この時の会談は薩長いずれの側も同盟の話しをきりだそうとせず、腹のさぐりあいに終始した。
遅れて到着した黒田は、同盟の話しがまったく進んでいないことに驚き、困惑した。西郷と今後のことをいろいろと議論した後、話しは例の山縣との詩のやりとりに及んだ。
「共に錦旗を掲げて 帝基をまもらん……」
この時、西郷の中で何かが豹変した。
一方、長州側では木戸の我慢も限界に達しようとしていた。
「木戸さん、何を書いておるがですか?」
品川弥次郎もまた、長逗留で半ば疲れた顔でたずねた。
「西郷への置き手紙じゃ。もはやこれ以上待てん。しょせん薩摩との同盟など夢にすぎなかったということだ。そろそろ帰り支度をはじめてもよい時分だとおもう」
「一体、西郷に何を伝えるつもりなんですか?」
「恐らく我が長州一藩で幕府軍を迎えうっても、滅亡はさけられんじゃろう。どうだお前たち、長州が滅びるのは残念だが、日本国の後のことは薩摩にたくしてみないか?」
「木戸さん、何をいうとるんですか?」
品川は我が耳を疑った。
「薩摩も長州も幕府からしたら、関ケ原以来の因縁をもつ外様大名じゃ。わしが見たところ長州が滅んだとしても、幕府はそう長くは続かんよ。そしてそう遅くないうちに薩摩と幕府は戦になる。
わしは敵として相対してきて常々思うことがある。薩摩は戦いにおいては無類に強い。しかもそれだけではない。将来を見通す先見性もずばぬけている。政治も外交も悔しいが我が長州より数段上じゃった。幕府を倒し新たな日本をつくれるのは、やはり薩摩をおいて他にあるまい」
品川が唖然とした。その時だった。突如として襖が開いた。
「薩摩一藩にて幕府と戦せいいうことでごわすか。そいはあまりの仰せでごわんと」
木戸が見上げると、そこに巨眼の見あげるような大男が立っていた。西郷だった。
「遅くなりもうした。我が薩摩としてもここに及んでも様々な藩論があり、中々話しをきりだすことができもうはんで、そそういたしもうした。長州との同盟のこと、西郷吉之助こん通りでごわんと、よろしく頼みもうす」
と西郷は正座して頭をさげた。
「確かに、薩摩も長州も幕府とは三百年の因縁のある外様。幕府はこの時に及んでもなお幕府の行く末のことばかり、民の声も、この国の力なき者の声も届きもうはん。それだけではごわはん、幕府に任せておってはこん国はゆくゆく夷狄に踏みにじられるは必定。木戸さん頼みもうす。幕府と、そして夷狄の侵略と共に戦ってはいただけもうはんか?」
西郷は誠意の男である。木戸もまた心をうたれた。
「西郷殿、こちらこそよろしく頼む」
と西郷の手を握っていった。
こうして薩長同盟という、歴史を旋回させる事態はついに現実のものとなろうとしていた。
長州藩は幕府相手に最後の一兵まで戦う覚悟をかためた。
日本海と瀬戸内海にはさまれた防長二州は、古来より幾度も天下争覇の戦いにまきこまれてきた。源氏と平家が壇之浦で雌雄を決したの有名な話しである。その後、防長二州は大内氏のおさめるところとなる。
大内氏は室町時代、数ある守護大名の中でも指おりの力をもった名族中の名族である。大内氏二十五代の大内義弘は、山口に瑠璃光寺五重塔を建立した。そして山口を京の都に対抗して西の京、すなわち「西京」と称し、京風文化を積極的に導入する。そのこと自体が大内氏というより、時代をこえて受け継がれてきた、この地の中央への対抗意識のあらわれといっていいだろう。
その大内義弘の代、すでに大内氏は周防、長門、豊前、後には石見、紀伊、和泉の守護となる。将軍家に対抗できるほどの勢力にまで成長したのである。
最初は義弘は、室町幕府の三代将軍義満とたいへん良好な仲だったといわれる。有力な守護山名氏が将軍家に背いた明徳二年(一三九一)年の明徳の乱では、一騎討ちで敵の名だたる将の首をあげるなどして武功を輝かせた。
しかし義弘が、将軍義満の金閣寺造営費用の拠出を拒否したあたりから関係は悪化の一途をたどる。ついには当時将軍家と犬猿の仲だった鎌倉企方足利満兼と連絡を取り合い謀反に及ぶ。なんと自らの葬儀をすませた後戦いにのぞみ見事討ち死にした。
その後、大内氏は勢力を盛りかえし、戦国時代には出雲の尼子氏、九州の大友氏などと激しい争いをくりひろげる。その争いの中で大内氏は、重臣陶晴賢の反逆にあってついに滅亡する。安芸の国の弱小勢力にすぎなかった毛利氏が、この混乱に乗じて陶晴賢を滅ぼし、さらに尼子氏をも滅ぼしてしまう。
毛利氏は一代の英傑毛利元就の死後、九州の大友氏と関門海峡を挟んで争い、後には織田信長とも争う。しかし信長の後継となった豊臣秀吉のもとにおいては、当主の毛利輝元は五大老の一人となった。
その毛利輝元は、関ケ原の合戦では西軍の事実上の大将となる。しかしかって自らの葬式まですませ、足利義満との勝ち目のない戦に赴いた大内義弘と違い、毛利輝元の身のほどこし方は情けないものだった。
自らが西軍の大将でありながら、輝元は東軍の大将家康と不戦の密約なるものをかわし、その約定どおり戦場で一発の弓矢も放たなかった。天下の要害大坂城でさえあっさりと徳川方に明け渡してしまう。
しかし老獪な家康は、戦後あっさりと毛利との約定をなきものとした。山陰、山陽にまたがっていた毛利家の領土は、わずか防長二州のみとなり、毛利氏は幕末まで窮乏することとなる。そのことがまた、幕末における反幕府のエネルギーとなるのである。
こうして防長二州が天下の覇権をかけた争いに常にまきこまれるのも、なんといってもこの地が関門海峡経由で九州と連なり、そして朝鮮、中国ともつながり、海のルートを通じた交易で豊かであるからである。大内氏の時代には貿易の利権をめぐって当時ライバルだった細川氏と、中国すなわち明国の寧波で、寧波の乱なるものまでおこしている。
かって薩摩の前国主島津斉彬は、防長二州を直轄地にしない幕政ををして、ゆくゆく自らの首をしめるようなものであると批判したという。そして長州はついに、幕府に牙をむこうとしていた。
さて功山寺決起の後、高杉晋作は奇兵隊の規律にほとほと困りはてた。俗論党との戦いに勝利した後、奇兵隊士の中には上士の屋敷の押しいって婦女子をかどわかす者、あれいは盗みをはたらく者もいた。
また戦後行われた論功行賞でも、山縣はじめ多くの者が人事に不平をとなえる。
「人は艱難を共にできても、富貴は共にできるものではない」
晋作は古今の歴史の本質に迫る名言を残し、長州藩領から姿を消してしまう。時に慶応元年(一八六五)二月のことだった。藩から一千両を借り、腰ぎんちゃくの伊藤俊輔を連れ、晋作は本気で英国に留学する計画をたてていたようである。
二人は長崎まで出た。しかしそこで英国の商人グラバーと会い、様々な話しをきくうち考えを変え長州に戻ってくる。晋作が長州藩をして幕府の支配から脱した一独立国家とし、五大州と対等に交易や外交を行うという遠大な構想を持つにいたるのは、この頃のことだった。
この構想を実現するためには、なんといっても関門海峡を通じての貿易の利権をがっちり掌握する必要がある。しかし馬関には、長府藩など複数の長州藩の支藩が支配する土地がある。これを長州直轄にすることを藩主に進言したため、晋作は長府藩の刺客に命を狙われることとなる。晋作は再び行方をくらまし、愛人のおうのという女性と共に、四国へと逃亡するのであった。
(二)
晋作がいない間にも、長州藩をめぐる情勢は激しく動いていた。四月には、長く但馬出石に潜伏していた桂小五郎が、長州に戻ってきた。その推挙により周防・鋳銭司村の村医だった村田蔵六という者が、長州藩の軍事の一切を任されることとなる。
この村田蔵六なる者は、豊後の国の咸宜園で漢籍、算術、数字を学び、大坂の適塾で蘭学と医術を学び塾頭までつとめたという秀才だった。その後、宇和島藩に召し抱えられ、軍艦の研究と砲台製造に関わった。
実に奇怪な面相をしていたといわれる。額が異常に広く、濃い眉に長い目、耳が大きく、鼻も高かったようである。「火吹きダルマ」というのが、長州人が蔵六につけた仇名だった。
「それでは、そなたは今のままでは長州はやはり幕府には勝てぬと申すか?」
山口で藩主に謁見した蔵六は、藩主の横に座る吉川経幹の質問に、
「そうであります」
と無表情のままいった。蔵六は今でいうところの典型的な理系人間である。機械のように極めて精緻で発達した頭脳をもつ一方、およそ人間性というものが皆無に等しかった。かって鋳銭司村で村医をしていたが、近隣の百姓が「お暑うございます」と挨拶したのに対し「暑中は暑いのあたりまえです」と返答するほどの無愛想ぶりで、医師としては挫折したといっていい。
「ええい! じゃからその勝ち目のない戦にいかにしたら勝てるか、それをそなたに問うておるのじゃ!」
経幹はいらだった。
「されば、今の長州の戦力をもって幕軍を撃退することは、古今のいかな名将でも無理でありましょう。またこの蔵六にも無理であります。まず火器が足りておりません。蔵六の計算によりますとミニェー銃が四千、ゲベール銃が三千は必要であるかと……」
「そげぃに必要なのか?」
座はどよめいた。
「また軍制の改革も必要であります。今までの武士階級や諸隊だけでは幕府軍には勝てませぬ。農民や町人からも兵士を募集すべきでしょう。それらの志願兵には給与が必要であります。その給与はもちろん藩が支払うべきでありましょう」
さらに蔵六は様々な改革案を藩に意見した。そしてそれに基づいて厳しい軍事訓練がおこなわれる。特に蔵六が重点を置いたのは、部隊の中核となる士官の育成だった。
士官候補生を育成する兵学校を創設し、階層や石高の上下に関わらず少壮の士が入学を許可された。兵学校を卒業した士官に対しては、四カ月で小隊指揮を錬成する三兵塾が開設される。そこでは歩兵、砲兵、偵察などの任務が主として教えられた。
特に砲兵塾は教育機関が三期にわけられた。第一期は大砲の使用法、火具製造法などの初歩的な内容が主である。第二期は教練場において砲隊の指揮実習、第三期はもっぱら戦術教育にあてられた。
長州藩は来るべき幕府との決戦に備えて、着々と準備を整えつつあった。
(村田蔵六こと後の大村益次郎)
(三)
一方、外交面でも長州藩は重要な岐路に立たされようとしていた。土佐藩の脱藩浪士・坂本龍馬、中岡慎太郎なる者が長州を訪れ、薩摩と長州の和解と同盟を説いたのである。小五郎は、この龍馬の申し出に困惑した。
「事はあまりに重大だ! すぐには返事をできん。しばし時をくれ」
桂は、この薩摩との同盟の話しを晋作に相談した。晋作は一カ月ほどの逃避行の末、長州本藩が長府藩に圧力をかけたことにより、長州に戻っていた。
ちょうど晋作は桜山の招魂場にいた。八・一八事件以降の一連の戦いで死んでいった長州藩士のいわば供養塔だった。ここで晋作は次のような詩をよんでいる。
同舎の有朋ことごとく忠死し
独り君と我と生をぬすむ有り
心を合わせて是より辛苦を共にせん
学ばんと欲す景清と幸盛とを
そこに桂が現れた。桂はおそらく晋作は薩長の同盟などには決して承諾せぬものと思っていた。しかし晋作の答えは予想外のものだった。
「承諾なさるがよろしかろう」
とあっさりいった。
「恐らくここに眠る者のだれしも、そして久坂も入江も他の者も納得せんでしょう。しかしわしはつい数日前、久方ぶりに息子と会いました。
あの子の将来のため自分になにができるか? もう幕府にはこの国の舵取りは無理です。今この国を動かせるのは、天下広しといえども我が長州と薩摩だけです。この国を第二の上海にせんために、薩摩との同盟にかけてみるより他ないのかもしれません。最も、それはあくまで薩摩が同盟を承諾したらの話しです」
この後、両藩の間で坂本龍馬と中岡慎太郎を挟んで内々に交渉が行われた。そしてついに薩摩側の西郷吉之助と桂のトップ会談が馬関で行なわれることとなった。ところが西郷は、なにを思ったか馬関を素通りして上方へのぼってしまった。
龍馬と慎太郎は顔面蒼白となり、面目をつぶされて桂もまた激怒した。しかし、この不始末の埋め合わせとして薩摩藩名義で兵器と軍艦を購入し、長州にこれを横流しする計画が進められる。
坂本龍馬という、この一連の龍馬伝説をつくりあげるほど、柔軟な発想と人間的魅力につつまれた不思議な浪人は、長崎で薩摩名義での武器購入の件を、英国の商人バークスにもちかけた。龍馬はこの商談は難航するものと予想していたが、意外にもバークスはあっさりとこの一件を承諾した。
その背景には、この頃英国にとっての宿敵フランスが、徳川幕府に急接近し始めたことがあった。一橋慶喜がフランスのナポレオン三世と手紙を通じて交流を深め、フランスの軍服を着て写真撮影を行い、フランス料理を好んだことは有名である。後に幕府はフランスから軍事顧問団を招き入れ、軍の洋式化をすすめてゆくことになる。
帝国主義下において、英国は世界中ありとあらゆる地域でフランスと争そってきた。北米新大陸では、現在のアメリカとカナダにおよぶ広い範囲で、アン女王戦争、ジョージ王戦争、フレンチ=インディアン戦争などが行われた。
またインドにおいてもムガル帝国の分裂と弱体化にともない地方政権の対立抗争に巻きこまれながら、英仏両国は一七四四年からのカーナティック戦争、一七五七年のプラッシーの戦いなどを戦った。
英国としてはここで薩長に恩を売り、幕府そしてフランスに対抗するという思惑があった。
ちなみに一八六五年、アメリカでは南北戦争が終結していた。その結果大量の銃や兵器が在庫として上海あたりに出回り、死の商人である英国商人は、たいへんな経営難におちいっていた。グラバーは新たな武器の市場として日本に目をつけた。長州藩には大量のミニェー銃などがもたらされるが、長州人のだれしもが、そこまでは知るよしもなかった。
こうした経緯をへて十二月十九日、薩摩から藩士を名乗る一人の容貌魁偉な男が馬関を訪れた。その男は黒田了介と名乗った。
「この前の一件、僕は非常に憤慨している!」
と木戸貫治(桂小五郎がこの頃改名)は、会見が始まるや否や不満を爆発させた。黒田はひたすら辞を低くくして謝罪につとめた。単に薩摩藩士の一人として責任を痛感していたからだけではなかった。人には苦手な人物という者がやはりいるものである。黒田は木戸に一目あった時から、その苦手意識を感じていたのである。
明治政府ができた後のことである。木戸と黒田は共に明治政府の高官として名をつらねていたが、ある年の正月、黒田が年始の挨拶に木戸邸を訪れた時事件はおきた。
黒田は明治の元勲になった後も、酒を飲んでの不始末がしばしばあった。事もあろうに木戸の屋敷で泥酔して暴れだしたのである。しかし木戸は柔術の心得もあった。黒田を背負い投げのうえでおさえこみ、巨大な袋に包んで屋敷へ送りかえしたというのである。
さてこの席には、木戸の他に井上聞多、山縣狂介、高杉晋作等、早々たる面々が顔を並べていた。晋作は、黒田と木戸のやり取りを一言も発せず沈黙して聞いていた。ところがその日の会見が一段落しようかという頃、ようやく晋作が口を開いた。
「黒田とやら、おまえさんは長州人と薩摩人はどこが違っていると思う?」
黒田は突然話しをきりだされ、晋作の真意がわからずしばし困惑した。
「ええか薩摩人というのは、いついかなる時でも、まるで生きていることが恥であるかのように、やみくもに死ぬことばかり考えちょる。
じゃが長州人がもっとも恐れていることは、いかな志もとげることない、全く無益な死だ。それをさけるため、時として逃げることも恥とは思っておらん。のう木戸さん、逃げ上手のあんたが一番よくわかっちょるだろう?」
高杉は、少し意地悪い目で木戸のほうを見た。
「こら高杉やめんか!」
と木戸はもともとこわばった表情を、さらに固くしていった。
「わが師、松陰先生もおおせられた。生きて大業の見込みあらば、いつまででも生きよとな。久坂も、入江も、皆おまえさんたち薩摩のために殺されたようなもんじゃ。その死を決して、決してただの無駄死にはしたくない。そのために当の敵であるおまえさんたちと手を組むのじゃ! 次はない。そうしかと西郷に伝えろ」
この晋作の言葉に、木戸も山縣も何事かを思いつめたように沈黙した。黒田は座の微妙な空気を察して、額に脂汗をうかべる。
「承知いたしもうした」
とかろうじて返答した。
会談はそれから数日続いた。その間、黒田と山縣は妙に馬があった。別れ際、黒田は山縣に一詩をおくった。
両心相結んで 相離れず
事業由来機を見るを 貴しとす
一諸君におくる 君よく記せよ
回天の志は 皇基をたてるにあり
これに対しての山縣の返歌も残っている
男子なにすれぞ 別れを嘆くぞ
計謀ひとたび定まって 機をあやまつなかれ
奇に出で変に処すれば 天日めぐろい
共に錦旗を掲げて 帝基をまもらん
この後、両藩の間で様々なやり取りあった後、今度こそ西郷、木戸のトップ会談が実現の見通しとなった。この時、長州側から京にある薩摩藩邸に赴いたのは村塾門下の一人品川弥次郎、奇兵隊隊長の三好軍太郎、そして土佐から田中光顕といったところであった。
巷間よくいわれるように、この時の会談は薩長いずれの側も同盟の話しをきりだそうとせず、腹のさぐりあいに終始した。
遅れて到着した黒田は、同盟の話しがまったく進んでいないことに驚き、困惑した。西郷と今後のことをいろいろと議論した後、話しは例の山縣との詩のやりとりに及んだ。
「共に錦旗を掲げて 帝基をまもらん……」
この時、西郷の中で何かが豹変した。
一方、長州側では木戸の我慢も限界に達しようとしていた。
「木戸さん、何を書いておるがですか?」
品川弥次郎もまた、長逗留で半ば疲れた顔でたずねた。
「西郷への置き手紙じゃ。もはやこれ以上待てん。しょせん薩摩との同盟など夢にすぎなかったということだ。そろそろ帰り支度をはじめてもよい時分だとおもう」
「一体、西郷に何を伝えるつもりなんですか?」
「恐らく我が長州一藩で幕府軍を迎えうっても、滅亡はさけられんじゃろう。どうだお前たち、長州が滅びるのは残念だが、日本国の後のことは薩摩にたくしてみないか?」
「木戸さん、何をいうとるんですか?」
品川は我が耳を疑った。
「薩摩も長州も幕府からしたら、関ケ原以来の因縁をもつ外様大名じゃ。わしが見たところ長州が滅んだとしても、幕府はそう長くは続かんよ。そしてそう遅くないうちに薩摩と幕府は戦になる。
わしは敵として相対してきて常々思うことがある。薩摩は戦いにおいては無類に強い。しかもそれだけではない。将来を見通す先見性もずばぬけている。政治も外交も悔しいが我が長州より数段上じゃった。幕府を倒し新たな日本をつくれるのは、やはり薩摩をおいて他にあるまい」
品川が唖然とした。その時だった。突如として襖が開いた。
「薩摩一藩にて幕府と戦せいいうことでごわすか。そいはあまりの仰せでごわんと」
木戸が見上げると、そこに巨眼の見あげるような大男が立っていた。西郷だった。
「遅くなりもうした。我が薩摩としてもここに及んでも様々な藩論があり、中々話しをきりだすことができもうはんで、そそういたしもうした。長州との同盟のこと、西郷吉之助こん通りでごわんと、よろしく頼みもうす」
と西郷は正座して頭をさげた。
「確かに、薩摩も長州も幕府とは三百年の因縁のある外様。幕府はこの時に及んでもなお幕府の行く末のことばかり、民の声も、この国の力なき者の声も届きもうはん。それだけではごわはん、幕府に任せておってはこん国はゆくゆく夷狄に踏みにじられるは必定。木戸さん頼みもうす。幕府と、そして夷狄の侵略と共に戦ってはいただけもうはんか?」
西郷は誠意の男である。木戸もまた心をうたれた。
「西郷殿、こちらこそよろしく頼む」
と西郷の手を握っていった。
こうして薩長同盟という、歴史を旋回させる事態はついに現実のものとなろうとしていた。
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