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【第三章】大政奉還
榎本の帰還
しおりを挟む急速に衰退しはじめた徳川幕府の命運を握る人物が遠く海の彼方にいた。フランス皇帝ナポレオン三世である。あのナポレオン・ボナパルトの甥にあたるこの人物は、自らも叔父にあやかろうと対外拡張政策を展開する。
ちょうどフランス産業革命の完成期でもあり、ナポレオン三世はアフリカに進出してアルジェリアを植民地化。またアジアではインドシナ半島に進出。コーチシナを植民地とし、カンボジアをも保護国とした。
イギリスと共に清国を屈服させたナポレオン三世の目は、さらに日本にも向けられる。まず幕府と交渉し表面上は友好国として近づいてくる。
幕府の側では、かって咸臨丸でアメリカを見た勘定奉行・小栗上野介忠順がフランスと交渉。フランスの援助のもとに横須賀製鉄所を建設。また株式会社兵庫商社や築地ホテルをも設立する。さらに軍艦四十四隻を購入、フランスより軍事顧問団を招き軍の洋式化もすすめる。しかしこれらのために小栗は、フランスより六百万ドルもの借款の約束までする。
欧米諸国から金を借りることは亡国への第一歩であるとし、薩摩や長州は慶喜と小栗そしてフランスの動きに強い警戒感をしめした。
そうした最中、榎本武揚はついに地球を一周して開陽丸とともに日本への帰国の途につくのであった。慶応三年(一八六七)二月二十六日のことだった。
ちょうど夜だった。横浜港は今日と異なり、つい数年前まで一寒村にすぎなかった土地である。ようやく開発がはじまったとはいえ、そこに広がる風景に、榎本は懐かしさと同時に夢の中にでもいるような錯覚を覚えた。周囲はまさに闇の世界で、ガス灯などというものは点灯していない。家屋にはガラス窓もなく、もちろん蒸気機関車が走っているわけでもなかった。
「これが俺の国か?」
恐らく今日の我々が、数百年後の時代に時間旅行をして、再び元の時代に戻るほどの衝撃があったかもしれない。
榎本は思わずため息がでた。何とかして近代化を急がねば、ゆくゆくこの国は圧倒的な欧米の文明の力に制圧されてしまうだろう。
幕府への帰国の挨拶をすますと、榎本はまず氷川町にある勝海舟の屋敷を訪問した。
「まさか幕府が、高々三十万石ほどの長州にむざむざ負けるとは! 開陽丸さえあればこんなことには」
榎本は興奮気味な表情でいう。日本に戻ってきて幕府の敗北と、権威の失墜は榎本たちにとりあまりに衝撃的だった。
「無駄だよ。開陽丸がいかほどすごい船か知らんが、軍艦一隻で時代の流れに逆らうには限度がある」
海舟はため息をついた。
「俺はな、長州との講和交渉のため安芸の国まで行ってきたんだ。実際に長州の連中と会った。正直、そこらへんのぼんくらな幕臣より、はるかに将来を見ているし肝も座っている。まあ敵ながらあっぱれといったところだな」
「感心しているばあいじゃないでしょう! もし幕府がなくなれば俺たちは、一体何のためにオランダまでいってきたんだ! 今度将軍に就任した徳川慶喜という方は一体どういう方なんですか勝さん」
「小利口な方ではあるな。だがしょせん生まれながらの貴人よ。今まで何不自由なく育ち、一つとして手に入らないものはない。そういう環境で育ったもんだから、幕府や日本を背負えといったところで、どうして自分が背負わなければいけないのか、納得がいかない様子だ。ああいう人は、本当に困難に遭遇したら簡単に心が折れるな。俺みたいにずっと下積みで苦労したような人間なら、ちっとは国難に立ち向かおうという気概も持てるところだが」
海舟は苦笑いをうかべた。
「あの方は今急速にフランスに接近している。一方、薩長の側にはエゲレスだ。戦すればこの国は真っ二つになって外国の思うつぼになるかもしれねえ。可能ならそれはさけたいところだ」
「それは薩長の人間にいうべきでしょう。こちらが戦を望んでいなくても、薩長が戦をしかけてくるかぎり幕臣は武器を取るしかない」
榎本は少し声を荒げた。
「全ては慶喜公次第だな。しょせん俺たちは幕臣だ。あの方が戦を望まぬというなら、俺たちは全力で戦をやめる手立てを考える。だが最後の一兵まで戦うというなら戦うしかない」
その時障子が開き、女中が食事を運んできた。
「腹がへっただろう。オランダじゃ蕎麦は食えなかっただろう。久々に江戸前の蕎麦でも味わってみるかい」
「勝さん、あんたって人は本当に洒落や冗談が好きな人だな」
榎本もまた苦笑しながら蕎麦をすすった。共に蕎麦を食うのは、初めて顔を合わせた時以来だろう。それからすでに十五年の歳月が流れていた。
「お互い偉くなったもんだな。いいかもし事があったら、その時は俺は陸で戦う。釜次郎おめえは海で戦うんだ。その覚悟はできているな!」
海舟は念をおした。
榎本は帰国後、わずか十日たらずで軍艦役並となり、さらに軍艦役(大尉格)、軍艦頭(中佐格)と昇進していく。一方私生活の面では、下谷和泉町に屋敷を与えられ正式に従五位下和泉守武揚を名乗る。もっともごくごく親しい仲の者は、後年まで釜さんと呼んだようである。そして共にオランダに留学した林研海の妹たつと婚儀をあげる。榎本は三十一歳、たつは十六歳だった。
(榎本武揚夫人・たつ)
その後も榎本と勝はしばしば会い、政治的な会合を行う。五月を迎え、榎本はようやく日本での暮らしの感覚が戻りはじめた。上野寛永寺近くにある即席料理屋「松源楼」で榎本と勝それに数名の幕臣は、新たにフランスから来日した軍事顧問団の処遇などをめぐって、長時間の議論をした。やがて議論が一段落すると、酒が運ばれ芸者が姿を現した。
白粉の香りとともに五人ほどの芸者が座敷に入ってくる。ほぼ同時に膝をついて会釈すると、三味線の音にあわせて、扇子を広げて舞いはじめた。
月はおぼろに吉野山
霞む夜影のかがり火に
夢もいざなう紅桜
しのぶ思いを振袖に
君が恋しや 愛しき人よ
榎本は西洋式の軍服を着て座り、その隣には海舟が紋付羽織姿で着座していた。榎本は、猪口は面倒とばかりにどんぶりに酒をついで飲みはじめる。唄が佳境をむかえる頃のことだった。五人の中で、紫に近い衣装をした芸妓と榎本の目が合った。
「どこかで会ったことがあるような?」
しかし何者なのか思いだせない。突然異変はおきた。問題の芸妓が突然よろめき、榎本の方角めがけて倒れてきたのである。当然、座は騒然となった。
「梅太郎! しっかり!」
五人の中で一番年長と思われる芸妓が源氏名で女の名を呼び、思わず叫んだ。
「おい! 誰が医者を呼んでこい」
海舟もまた叫んだ。
この時、問題の芸妓が薄目を開いて思わぬことをいった。
「釜次郎様……また会えてうれしい」
「なぜ俺を名を知っている?」
釜次郎もまた驚きの色を浮かべた。生暖かい感覚と同時に、かすかに梅太郎と呼ばれた芸者は涙をうかべた。
医師の診療では軽い貧血程度で大事ないという。隣の座敷に収容され布団も用意された。
「それでは後は頼んだぞ」
仲間の芸妓たちが固唾を飲んで梅太郎の様子を見守る中、榎本は立ち去ろうとした。
「榎本様……」
梅太郎は目を覚ましていた。
「なぜ俺の名を知っている?」
榎本は、梅太郎に背を向けたままいった。
「あなたが病気になった時、私はあなたの手を取って必死に祈った。あの時、私はまだ幼かった……。これはいつかあなたが私にくれたもの」
かすれた声で梅太郎は語りはじめた。そして懐から何かをとりだした。それはオルゴールだった。榎本はその音に確かに聞き覚えがあった。
「すまぬお前たち少し席を外してくれ。俺はこいつに話しがある」
榎本がおもいつめたようにいうので、芸者たちは部屋を去り二人きりになった。
「お前、お柳だな? どうして江戸で芸者なんてしているんだ?」
榎本は改めて、梅太郎の顔をまじまじと見た。まさしく彼女こそ、榎本が江戸下谷三味線掘りにいた時分に妹のようにかわいがったお柳だった。その後別れ、長崎海軍伝習所時代に再会したが、それ以来会っていない。榎本の記憶が正しければ今頃は二十前後になっているはずだった。
「父は……異国の言葉を話すというだけで、攘夷派の侍に斬られたのです」
お柳は空ろな目で語りはじめた。
「うちは、母様といっしょにつてを頼って江戸まででてきた。ばってん父が死ぬ間際にいうた清七って人は、もう江戸にはおらんかった。うちは雇ってくれるとこば探してあてもなくさまよった。そして三味線ができたんで芸者になるしかもう道はなかと……」
と柳は長崎なまりになっていた。
「芸者の仕事は楽じゃなかとよ。歌や踊りの稽古で先輩芸者に怒鳴られるし、たちの悪い客にからまれて関係を迫られたことも一度や二度でなかばってん」
柳は声がかすかに震えていた。
「そうか色々つらいことがあったんだな。後のことは先輩芸者に任せる。わしは用があるので……」
立ち去ろうとする榎本に、柳が背後から抱きついた。
「うちを一人にせんといて!」
柳は髪が乱れ、呼吸もまた乱れていた。手足の震えがかすかに伝わってきて、榎本は困惑した。不謹慎だが、榎本はこの時結婚したばかりの新妻・たつのことを思いだしていた。十六歳のたつはまだあどけなく、榎本がしゃぼん玉を作ってやると、まるで子供のようにはしゃいだ。しかし年齢が離れていることもあり、性の対象としてはいささか物足りなかった。
あのあどけない妻のことを考えると、他の女性とあまり関わり合いを持ちたくはなかった。しかし彼女の身の上を聞くと気の毒でもある。そして彼女に語学の才能があったことを思いだした。結局、榎本は彼女のその後の面倒を見ることとなるのであった。
一方、幕府政治はいよいよ動揺が激しくなりつつあった。
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