海将・九鬼嘉隆の戦略

谷鋭二

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【序章】海の関ヶ原

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 海上には、さっそうと九鬼家の定紋である七曜の旗が風になびいていた。潮風がいつになくここちいい。五十八歳の九鬼嘉隆は船上にて、すでに死を覚悟していた。
 
 
   時は慶長五年(一六〇〇)九月十一日、すなわち天下分け目の関ヶ原の四日前である。場所は関ヶ原の地から、それほど離れていない志摩の国(三重県)の鳥羽湾沖合いである。
 かって九鬼嘉隆は織田信長の配下であり、水軍の将であった。石山本願寺や毛利家の村上水軍と戦い、秀吉の朝鮮出兵でも日本水軍の一翼を担った。しかし今はすでに老いた。老いたといっても、海の将としての嘉隆の眼光は、いまだその鋭さを失ってはいない。
 
 
   関ヶ原の合戦に先立ち嘉隆は水軍を率い、その本拠鳥羽城から出でて、海から家康を将とする東軍をかく乱していた。朝鮮の役でも活躍した大安宅船『日本丸』を主力船とし、伊勢の国(三重県)北部の安濃津浦に進出して、安濃川を漕ぎ上り、まず手始めに東軍方の安濃津城を陥落せしめた。
 さらに尾張知多半島先端の羽豆岬に上陸。付近の村々を荒らし回った後、木曽川河口をさかのぼり、西軍にとって重要な美濃・大垣城へ奪った兵糧を運び入れた。ついには家康の生まれ故郷である三河にまで進出し、東海道一帯を散々に荒らしまわった。


 余談だが安宅船というのは、当時の主力艦とでもいうべき大型船で、その特徴は和船の大板構造を基本に、その上に木の装甲で船体をグルリと囲う。これを『押し廻し造り』といった。そして、この木の装甲に狭間を幾つもつくり、そこから鉄砲(火縄銃)や矢を射かけられる仕組みになっていた。
 また船底のかじきの部分を切石や漆喰で塗り固め、敷板を二重にし、中には防水区画を設けて浸水しにくい構造になっていた。いかにも軍船らしい構造といえる。さながら水に浮かぶ城というイメージがぴったりくる。戦術においても海路の封鎖などが主な使われ方で、また輸送力が大きいということを考えると、海上輸送に使用されていたとも考えられる。

   



  ちなみに九鬼嘉隆が秀吉の命により製造した『日本丸』は、現在その船のおよその寸法については、


 全長 - 約105.5尺(32.0m)
 長さ - 約83.0尺(25.2m)
 筒関幅 - 31.3尺(9.5m)
 深さ - 10.0尺(3.0m)
 総矢倉の長さ - 約90.0尺(27.3m)
 計算石数 - 2,600石
 実績石数 - 約1,500石
 排水量 - 約300t
 櫓数 - 小櫓100丁

 
 といったところが、現在明らかになっている。船体は上級武士居住区と下級武士居住区があり、さらには小規模ならが天守閣まで存在したといわれる。
 

 さて一旦は本拠地である鳥羽城に帰還した嘉隆は、鳥羽湾沖合いにて、あらたな敵を向かえうたねばならなかった。しかし今度の敵は、いつもとまったく異なる存在であった。敵もまた九鬼家の七曜の旗をなびかせていたのである。そう率いる将は九鬼守隆、すなわち嘉隆の次男だったのである。

 
 九鬼家の居城たる鳥羽城は、志摩国答志郡鳥羽(現在の三重県鳥羽市鳥羽)にあった。大手門が海側へ突出して築かれたため『鳥羽の浮城』といわれた。また城の海側が黒色、山側が白色に塗られていたため『二色城』または『錦城』とも呼ばれていた。
 この城で嘉隆・守隆の父子は一月ほど前、沈痛な表情で九鬼家の後のことを議論していた。関ヶ原において東西いずれが勝利するかは、伊勢湾の潮の流れを読むより難しい。嘉隆が出した結論は親子で東西にわかれることにより、いずれが勝利しても家名を存続させるというものであった。むろん守隆はこれに反対した。
「他になんぞ良策がござろう。それがしここで父上と袂をわかつは、耐えがたきことにござる」
 守隆は声を震わせながら反論したが、嘉隆は考えを変えるつもりはなかった。
「誰ぞある。酒をもて」
 嘉隆はいかにも海に育った者らしい、野太い声でいった。

 
 守隆は今一度、父の顔をまじまじと見た。鼻梁が細くて高くとがり、凹んだ両の眼は巨大である。一方で海の将にしては色白で、現存する嘉隆の肖像画からも穏やかな雰囲気が伝わってくる。出自は海賊に等しい者ながら、茶の湯にも造詣が深かったともいわれている。
 やがて別れの宴となった。両者ともいかなる言葉を発してよいかわからず、沈黙のまま時だけが流れた。やがて嘉隆が深くため息をつくと、
「おまえと、はじめて船で釣りに行った時のことを思いだす」
 と、万感の思いで口を開いた。
 
 
 守隆はついに耐えかねた。
「ならば、父上これにて今生の別れにござる」
 と立ち上がり、廊下を足早に去っていった。
 守隆が去った後も嘉隆は、沈黙のまま酒を口にし続けた。酔うほどに胸にこみあげてくるものがあった。嘉隆は、己の死が間近であることが薄々わかっていた。その嘉隆の脳裏に、織田水軍の将として数多の合戦に参加した栄光の日々が、今さらながら蘇ろうとしていた。



 

 
 
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