海将・九鬼嘉隆の戦略

谷鋭二

文字の大きさ
2 / 19

【志摩騒乱編】志摩の国という天地

しおりを挟む
 

(一)

 その時嘉隆は、まだ己が住む世界の狭さなど知るよしもなかった。
 
 波切(現在の三重県志摩市大王町)の海は、底の底まで透けて見えるほどに澄んでいた。 この澄んだ海を、三人の童が競うように泳いでいた。時は弘治三年(一五五七)まさに戦国の只中である。
 後ろの二人をはるかに突き放して泳ぐのは、後に織田水軍の重鎮的存在となる九鬼嘉隆である。この時はまだ十五歳の童にすぎない。後方を泳ぐのは、後に嘉隆の家臣として終生仕えることになる金剛九兵衛 と滝川市郎兵衛である。齢はいずれも嘉隆より一つ、二つ下である。
 

 嘉隆をはじめとする九鬼一族は水軍である。悪くいえば海賊といっていいだろう。その出自については、よくわからないことが多い。伝承によると遠祖は熊野水軍の流れを組むようだ。南北朝の終わり頃に初代三郎右衛尉隆義が、初めて波切を拠点としたようである。
 以来、波切一帯は九鬼氏の支配するところであった。だが、この土地に古くから住む者達にとってはよそ者であり、うとましく思われることも多々あった。当然多くの争いごとのすえに、隆義から数えて十代目にあたる嘉隆の父澄隆の代まで、かろうじて志摩半島の突端にあたる波切を守りぬいてきたわけである。

 
 九鬼嘉隆という人物は、日本の海の歴史を語るうえで、決して無視できない人物である。少し先走りすぎるかもしれないが織田水軍の重鎮となるこの童、すなわち九鬼嘉隆の生涯は、慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の合戦直後に終わる。慶長五年はまた、世界史的に見れば大英帝国が東インド会社を設立し、未知なる大海原へと漕ぎ出した年でもある。
  英国と日本。同じ島国でありながら英国は以後数百年にわたり版図を拡大し、その勢力は南の果ては喜望峰、すなわち南アフリカにまで及ぶ。海洋まで含めれば、あのモンゴル帝国をもってしても及ばない、世界史上未曾有の最大版図である。一方の日本は、世界地図の中で小さな小さな一個の『点』になっていく。九鬼嘉隆という人は、歴史の大きな分岐点を生きた。

 
 日本国を世界地図の中で一個の『点』であるとすれば、志摩の国は日本国の中で、そのまた一個の『点』といっていいだろう。
 なにしろ志摩の国といえば、現在の行政区画でいえば、三重県・志摩半島の東端である。やっと三重県の鳥羽市・志摩市、度会郡南伊勢町、大紀町の錦地区、北牟婁郡紀北町、尾鷲市全域ほどにあたる。当時の日本六十余州の中でも土地面積ではかなり狭い部類である。
 ちなみに慶長三年(一五九八)にまとめられた、検地による日本六十余州の石高換算によると、志摩の国の石高はどう多く見積もっても五万石に及ばない。
 そしてその狭い土地に、九鬼氏も含め十数名もの地頭衆が居をかまえ、九鬼氏はその中でやっと頭一つ抜き出た存在にすぎない。

 
 今、懸命に泳ぐ嘉隆、その波の彼方には尾張の国がある。そのくらいのことは嘉隆にもわかる。今更いうまでもないが、やがて天下は尾張の国からおこった織田信長によって統一される。
 だが尾張の国から海を隔て目と鼻の先に拠点をかまえながら、九鬼一族は天下などというものは、夢にも語れるものではなかった。九鬼一族の手下は、どう多く見積もっても二百人ほどでしかない。それほど微々たる勢力にすぎないのだ。


「若、それ以上は危険でありまするぞ。そろそろ戻ってくだされ」
 滝川市郎兵衛が叫んだが、嘉隆には聞こえないも同然だった。
 己と己の一族の非力さ、それも幼かった嘉隆にも薄々ながらわかりはじめていた。果たして己の力で、この乱世でなにができるというのか? そのことを自問自答しながら、嘉隆はひたすらに波をけって泳ぎ続けた。
 やがて天候が予測もなくかわった。空は黒くなり波は激しくなった。突然、嘉隆の眼前に巨大な龍が出現したのはこの時である。滝川市郎兵衛と金剛九兵衛が見ている前で、嘉隆は忽然と姿を消してしまった。


(二)

 
 あとの二人はかろうじて浜へ戻った。ほどなく天候が回復したので、両者は周辺一帯を捜索したが、嘉隆の行方は全くつかめない。やがて夕刻をむかえた。両者ははるか波の彼方から、笛の音のようなものを聞いた。とても寂しい音で、両者が音のする方角へ誘われてみると、岸辺に嘉隆が仰向けになって寝かされていた。
 
 
 嘉隆は浜に寝かされたままの状態で、一人の夫人に介抱されている最中だった。どうやら、志摩半島周辺でよくみかけられる海女のようである。齢は嘉隆と同じくらいに見えるが、童顔でそれより幼いかもしれなかった。肢体がキリリと引き締まり、それだけで年頃の二人の興味をひくのに十分である。
 海女は二人に気付いた。恐れをなしたのか海へ逃げこんでしまった。
「待たれよ。そなたは何者ぞ」
 金剛九兵衛が叫んだが、海女は答えることなく、そのまま消えてしまった。
 
 
 嘉隆は無事だった。息を吹き返してから、命の恩人らしい海女に強い関心を抱いた。もう一度その海女に会いたいと思った。しかし手がかりはほとんどない。かすかに記憶に残っているのは、笛の音だけだった。そして満月のある晩、呆然と波切の海の前にたたずんでいた嘉隆は、再びあの笛の音を聞いた。
 奇妙な音だった。人の心を操る不思議な力がこめられているかのようである。その音に導かれ嘉隆は、激しく波がうちつける断崖に、夫人が一人座っているのを目撃した。振り向いたその姿に見覚えがあった。間違いなくあの時、海の底で意識を失いかけた時に見た海女だった。

 
 海女は嘉隆に気付くと再び逃げ出した。海へ飛びこんだのである。嘉隆もまた飛びこみ、懸命に海女を追った。やがて両者は陸へあがり、今度は砂浜で果てしない鬼ごっこを続けた。そしてついに嘉隆は海女をつかまえ、その場に押し倒す。両者は砂の上でもみ合い、ついには激しく唇をかわした。
 海女は名を篠といった。篠と嘉隆はそれからも度々会い言葉をかわし、ついには体をかわした。時には真珠の養殖でも知られる英虞湾まで行き、共に海底深くまで潜り、日が暮れるまで行動をともにした。

 
 ところがある日以降、篠はぷっつりと嘉隆の前から姿を消してしまった。波切一帯を探しても、その行方はまったくつかめない。しかしある夏が暑さが厳しかった日の夕刻、嘉隆はまたしてもあの笛の音を聞いた。果たして、篠は二人が初めて会ったあの断崖にたたずんでいた。しかし今度は逃げなかった。


「篠、探したぞ」
 嘉隆は再会を喜び、心なしか安堵して声をかけた。しかし篠は無言のままである。やがて、
「私がこの地の者ではありません」
 と、ようやくぼそりと声をだした。
「ならば、そなたはいずこの者ぞ」
 潮風が激しく吹きぬける中、嘉隆は興味深げに聞き返した。
「遠い異国、波の彼方に唐土がござります。彼の地より、私の先祖は、倭寇にさらわれてこの地にやってまいりました」
  嘉隆はしばし沈黙した。倭寇の話は祖父などから、幾度か聞いたことがあった。眼下に広がる伊勢湾から、遠く明国・朝鮮まで船を漕ぎ出したらしい。現地に住む者から多くの金目の物を奪い、人までさらったとのこと。いわば略奪行為なのだが、祖父の九鬼泰隆は、いかにも自慢そうに話していた。そのさらわれてきた異国の者の末裔が、目の前の篠だとでもいうのだろうか?


「私は祖国に帰ります。今日はお別れにまいりました」
「突拍子もないことを申すな。だいたいそなたの祖国とは、ここからいかほどの場所にあるというのだ? 泳いで行ける距離だとでもいうのか?」
 やはり志摩半島という、狭い世界だけを天地として生きてきた嘉隆には、遠い異国というものが感覚としてわからなかった。嘉隆が困惑するのを見て篠は軽く微笑んだ。


「この波の彼方には私の故郷唐土があり、その先には天竺があり、そのはるか彼方のことは私にもわかりません。この海の彼方は広大無辺です。嘉隆様、もしよろしければ、私とともに参りませんか海の彼方へ」
 篠は手招きした。嘉隆には篠が淡く、はかなげに思えた。一方で引き寄せられる強い力を感じた。ふらふらふらふらと、篠のいる断崖の方へ引き寄せられる嘉隆、ところがその時異変がおこった。突如として、数本の矢が篠めがけて放たれたのである。


「何者だ!」
 我に返った嘉隆が背後を振り返ると、そこに祖父の泰隆が、眼光を鋭くして立っていた。泰隆はこの年六十五歳になる。九鬼一族が志摩半島一帯の地頭衆の中で、頭一つ抜け出た存在になれたのは、この祖父の力量によるところが大きかった。しかし今は隠居し、洞窟の中で木彫りなどをして終日過ごしているはずだった。
「いや虫の知らせでのう、そなたに危急が迫っていることを察したので、かけつけたまでじゃ」
「いかなる意味です? おじい様」
「そなたはしばらく伏せておれ」
 泰隆はむりやり嘉隆を、屈強な手下達の背後へおいやった。同時に泰隆の配下は一斉に弓を引く。


「おやめくだされ、何ということをなさいます! 篠が死んでしまいます」
 嘉隆は叫んだが、次の瞬間信じられない光景を目にする。確かに矢が数本命中したはずなのに、しのは一滴の血すら流していないではないか。
「見たであろう。これがこの女の正体じゃ。こやつは数日前に潜水中の事故で、すでにこの世の者ではない。嘉隆を冥土まで連れてゆくつもりであったな。じゃがそうはさせんぞ」
 呆然とする嘉隆とは対照的に、篠は冷静な表情を浮かべていた。やがてあきらめたように軽く微笑み、
「嘉隆様、この海の彼方でお待ちしております。さらばにござります」
 と、背を向けたかと思うと、断崖の方向にむかって歩みはじめた。しかし転落はしなかった。宙に浮いたかたおもうと、そのまま姿を消してしまったのである。

 
 篠はまるで遠い異国の幻影のように消えてしまった。
 嘉隆は篠のことをいつまでも忘れなかった。同時に狭い志摩の国の外に広がる、無限の世界を初めて意識した。やがて嘉隆は十八になった。
『いつか大船を建造して遠い海の彼方まで旅をしたい。可能なら遠い唐土まで旅をしたい』
 そんなはかない夢を抱き始めた矢先、嘉隆と九鬼一族に恐ろしい災いがふりかかろうとしていた。











 
 
 



 

 
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

対ソ戦、準備せよ!

湖灯
歴史・時代
1940年、遂に欧州で第二次世界大戦がはじまります。 前作『対米戦、準備せよ!』で、中国での戦いを避けることができ、米国とも良好な経済関係を築くことに成功した日本にもやがて暗い影が押し寄せてきます。 未来の日本から来たという柳生、結城の2人によって1944年のサイパン戦後から1934年の日本に戻った大本営の特例を受けた柏原少佐は再びこの日本の危機を回避させることができるのでしょうか!? 小説家になろうでは、前作『対米戦、準備せよ!』のタイトルのまま先行配信中です!

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

処理中です...