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寧遠城の砲煙(二)
しおりを挟む(盛京城闕図)
さて出陣を前にヌルハチは、この地方に独特の床暖房設備オンドルにより暖められた部屋で、孝烈恭皇后と平素より激しい一夜を過ごしていた。
清の時代になって、この時の後金の都・瀋陽の様子を詳細に描いた絵図面で「盛京城闕図」というものがある。これを見ると中央の宮殿から、北に向かって中心軸がのび、北端に「汗王宮」と記された四合院風の建物がある。この汗王宮こそが、ヌルハチの私的な生活スペースとでもいうべきものだった。
ヌルハチはもう六十八になるが、常人と比較すると、それほど精力は衰えていないほうだった。その秘密は朝鮮人参にあった。朝鮮人参は、東北の地で栽培される貴重な物品として、明国との間で非常に高値で取引きされた。当時の明国は銀経済だったが、この人参と引きかえに、大量の銀が東北の地へと流れた。そしてその人参こそが、後金を富強たらしめた最大の要因であったともいわれる。
とはいえ、さしもヌルハチも若い頃に比べると精力も衰えがちだった。しかし皇后の体をつたう玉のような汗の香りは、ヌルハチの心と体を刺激せずにはいられなかった。戦場で鍛えられた太い脚が、ヌルハチの五体にまとわりつき、やがて皇后は叫びともあえぎともつかぬ声をあげた。
全てが終わるとヌルハチは素早く服を着て、寝台より立ち上がろうとした。すると皇后が、
「お待ちください」
とかすれた声でいった。
「今宵はもう寝るぞ」
ヌルハチは面倒くさそうにいった。皇后はときおり一夜に二度も、三度も求めてくるときもあった。しかしその夜のヌルハチは、とてもそのような気分にはなれなかった。
「戦のことで頭がいっぱいなのでござりましょう。どうか戦にはゆかないでください。ここでこうして私と、いつまでも共に……」
「女子のそなたには所詮わからんこと。わしが戦せねば、この国は成り立たぬ」
寝台の上で貂の毛皮を一枚はおっただけの皇后は、何故か悲しげな表情を浮かべていた。
「ここ数日、悪い夢ばかり見るのです。大汗が戦場が敵に五体を斬り刻まれる夢をです」
皇后は涙を浮かべていた。しかしヌルハチは冷厳な表情を浮かべている。
「戦なれば、必ず生きて戻るとそなたに約束することはできぬ。なれどわしはもう 六十八になる。精力も衰えた。目も耳も衰え、戦場でも若い頃のようにはいかん。なれどわしは、このまま老いて、人の助けなくば立って歩くことすらかなわぬ身になるくらいなら、戦場が敵に五体を斬り刻まれることこそ望むところ。例えこの身が戦場で原型をとどめぬほど無残な有様になろうと、子孫に何事かを残すことができれば、それもまた天命というものだ」
皇后は老いたヌルハチの贅肉のない、しきしまった体に、ゆるりと手を回した。しかしヌルハチは、すぐそれをふりほどいた。
「そなたに贈り物がある」
ヌルハチは小さな小箱を用意した。皇后が開くと、そこに靴が入っていた。満州族の女性は花盆靴(馬蹄靴とも呼ばれる) を履くことで知られている。中央が十センチ以上高くなっており、靴底は木製で白い布が被さっている。そして高価な翡翠にいろどられていた。
「わしは、いつか夫人は馬に乗るよりも、美しく着飾って歩けるような国にしたい。そのためにわしは戦にゆく」
「もし大汗が生きて戻ってこなかった時は……」
皇后はそこで言葉を切った。なかなか次の言葉が出ない様子だった。
「わらわは必ず、あの世までお供つかまつります」
ヌルハチの体に、皇后に体の震えが伝わってきた。そしてこれが両者の今生の別れになるのである。
(孝烈恭皇后)
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