退職届と紙飛行機

おやかた

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退職届と紙飛行機

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――誰かこの日常をぶっ壊してくれって、いつから思ってたんだっけ。

家族連れのお客さんが多いな、なんてレジを打ちながら思って、そこで初めて今日が日曜日だと気づいた。
行きも帰りもガラガラの電車。
シフト交渉のメール。
終わりのない、喜びもない、自転車が空回り続けるみたいな毎日。

早番の日、おやつどきと夕方の境みたいな時間に、真っ直ぐ帰る気にはなれなかった。
駅を通り過ぎて、適当に商店街の裏道を歩いていると、子どもたちの笑い声が聞こえた。
振り返ると、小さな駄菓子屋。
錆びた看板に「いらっしゃいませ」の文字がかすれている。
駄菓子を手にたむろする子供たちに、懐かしくなって、大人気なく羨ましくなった。
好きなものを選んで、笑って、時間を忘れている。
それだけのことが、どうして今の自分にはできないんだろう。
気づいたら、暖簾をくぐっていた。

「あ、いらっしゃい。うまい棒はそっちじゃないよ」
奥のカウンターから、軽やかな声が響く。
目を向けると、1人の女性が座っていた。
肩に触れるくらいのウルフカット、白いイヤホンを片耳だけ。
飾り気のないTシャツの上に、いかにも駄菓子屋らしいはんてん。
タブレットとペンを握ったまま、こちらを見て笑っていた。
「あ、いえ……見るだけで」
「そう?でも見るだけだと、たぶん何か買うより疲れるよ」
「え?」
「選ぶだけで頭使うじゃん。子どもはそこがすごいんだよ。何も考えずに“今食べたいもの”取れるから」
うまく返せなくて、適当にチョコをひとつ掴んだ。
「このチョコ、三十円になったんですね」
「うん。悲しいけど、子どもたちは気にしてないね」
その言い方が、やけに優しかった。

「あの、絵……描いてるんですか?」
「うん。趣味みたいな仕事みたいな感じ」
「すごいですね。自分の好きなこと、ちゃんとやってるって」
「すごくはないよ。ちゃんとやることを減らしただけ。そんで、“今食べたいもの”、取ってる」
「“今食べたいもの”…」
「なんて、私は子どもかな?」
薄く笑う彼女に、僕は返す言葉を持ってなかった。
代わりに、さっきのチョコを3つと、財布から100円玉を手に取って、カウンターに置いた。
「これ、ください」
「まいど。10円のお返しね」
会計を済ませて外に出ると、風鈴が鳴った。
茜色の空の下、少し冷たい風が通り過ぎる。
彼女の声がまだ頭の中に残っていた。
「何も考えずに“今食べたいもの”を取れる」──
たったそれだけのことが、どうしてできなくなったんだろう。



次も、その次も繰り返しの日々。ハンコを押したように変わり映えのない退屈な日常。
特に変わったことはなかった。
レジを打って、在庫を確認して、メールを送って、ため息をつく。
売り場で買ったカップ麺を事務所ですする時間は、ちっとも休憩なんかじゃない。
一つだけ違ったのは、どんな作業をしていても、ふとした瞬間に、あの声を思い出すようになったことだった。
「選ぶだけで頭使うじゃん。子どもはそこがすごいんだよ」
その言葉が、頭のどこかで引っかかって離れなかった。
今日もまた、チョコを一つ選ぶことさえできずにいる。
帰り道、電車の中でスマホを見ても、何も頭に入ってこない。
それで気づいたら、降りるはずの駅を一つ乗り過ごしていた。
「……まあ、いっか」
改札を出て、少し歩くと、聞き覚えのある風鈴の音がした。
暖簾の向こうに、オレンジ色の光。
あの駄菓子屋が、まだ開いていた。
ただ、それだけの理由で、また入ってしまった。

「あれ、またうまい棒探してる?」
その声で、心臓が少しだけ跳ねた。
奥のカウンター。前と同じ場所に、彼女がいた。
髪を耳にかけて、タブレットにペンを走らせている。
「……いえ、今日はキャラメルです」
「お、進歩したじゃん」
「何の進歩ですか」
「自分の“今食べたいもの”をちゃんと選べてる、ってやつ」
「……覚えてたんですか」
「うん。たぶん、忘れられない感じだったし」
彼女は笑って、少しだけ画面を傾けた。
背景には夕焼けみたいなグラデーション、
手前には、紙飛行機を放る子どものシルエットが描かれていた。
「それ、描いてるんですか?」
「うん。なんか、空飛べそうな絵が描きたくなって」
「……いいですね。飛べそう、です」
「ありがと。けど、飛んでる人って、たぶん地面にいた頃のことはもう覚えてないんだよ」
その言葉に、胸の奥が少しだけざらついた。
何かを手に入れた人間は、同時に何かを手放している。
そんな当たり前のことを、彼女は飄々とした声で、笑いながら言っていた。
キャラメルを一つだけ買って、外に出た。
夕暮れが、前より少しだけ深くなっていた。
冷たい風に、風鈴が揺られて、哀しい音が響いた。



次の日、店の照明がいつもより白く感じた。
何も変わっていないはずなのに、レジの音やお客の声まで、どこか遠くに聞こえる。
「飛んでる人って、たぶん地面にいた頃のことはもう覚えてないんだよ」
あの言葉が、何度も頭の中で繰り返されていた。
手に取った商品のバーコードをスキャンするたび、ピッ、という音が、右耳から左耳へ自分の中の空洞を通り抜けていく。
“飛んでる人”になりたかった。
何かを作って、認められて、どこか遠くまで行ける気がしていた。
それを信じていたのに、いつの間にか、地面に貼りつくようにして立っていた。
地面を蹴って、飛び跳ねることさえ忘れていた。
気づけば、手帳の端に紙飛行機の落書きをしていた。
形は歪で、飛びそうにもなかった。
でも、なぜだか捨てられなかった。
その紙片をポケットにしまって、退勤後の事務所で、何度も触って確かめていた。



気づけば、あの商店街の裏道を歩いていた。
仕事帰り、電車を一駅前で降りて、なんとなく足の赴くままに進んでたら、駄菓子屋の暖簾が視界に入った。
ボロ看板の掠れた「いらっしゃいませ」の文字が西日に照らされたその店は、前よりも少しだけ明るく見えた。
「あ、いらっしゃい。うまい棒はそっちじゃないよ」
前と同じ声。
でも、どこか安心する響きだった。
「また来たね」
「……はい。なんか、落ち着くんで」
「それ、褒め言葉として受け取っとく」
彼女はカウンターの端に腰を掛けて、ペンを回しながら、ゆるく笑った。
手元の画面には、色々な形の紙飛行機が描かれている。
「空、飛べそうですか?」
「どうだろ。でも、飛びたい。飛ぶのってさ、怖いけど、気持ちいいじゃん。どっかに行けるかもしれない感じ。……あなたも、そういうの好きそう」
「わかるんですか」
「なんとなく。目がそう言ってる」
彼女はそう言って、レジ横のガチャガチャの上に置かれたスケッチブックを開いた。
雲の上に、紙飛行機が舞っている絵。
けれどその端には、小さく人影が描かれていた。
片手を伸ばして、届かないまま止まっている。
「これ……」
「“届かないもの”シリーズ。最近のマイブーム」
「なんか、切ないですね」
「でも、届かないから描けるんだと思うよ」
その一言が、胸の奥で静かに沈んだ。
彼女は笑って、後ろのダンボールからラムネを2本抜く。
「サービス。常連割」
ビンとビンのぶつかる鈍い音が、夕暮れの中に溶けた。
「「ぬるい」」

「あの」
「ん?」
「親、とか……何か言われたりしないんですか」
「ん? ああ、“向いてない”って」
ラムネのビー玉を落としながら、れんは何でもない調子で言った。
「それだけ?」
「それだけ。それと、“普通の仕事したら”って」
まるで昨日の晩ごはんの話でもするみたいな声だった。
「それで、どうしたんですか」
「どうもしないよ。今ここにいるじゃん」
彼女はそう言って、ビー玉をつまんで、照明の光を透かしている。
「向いてるかどうかってさ、やってみないとわかんないし。やってみてダメなら、そのとき別のやつ探せばいいし」
「……簡単に言いますね」
「簡単だよ。面倒なことほど、簡単な言い方しないと続かないし」
そう言って、彼女はけろっと笑った。
それ以上、その話は続かなかった。
でも「向いてない」って言葉だけが、やけに頭に残った。



午後三時を過ぎた店内は、サイネージの音声だけがやけに響いていた。
売り場で段ボールを潰しながら、いつものように、何も起こらない時間を消費している。
休日明けの火曜日。
客も少なく、レジの呼び出し音も鳴らない。
自分の靴の先を見ているとき、自動ドアが開く音がした。
「いらっしゃいませ」
反射的に言って、顔を上げた瞬間、息が止まった。
駄菓子屋の彼女が、そこに立っていた。
髪は相変わらずウルフカット。
でも、今日は明るいグレーのシャツに黒いパンツ。
手には、スケッチブックの角が覗くトートバッグ。
「……あ」
彼女も気づいたらしく、
目を丸くして、すぐに口の端を上げた。
「店長さん、だったんだ」
「あ、えっと……まあ、そんな感じです」
「似合ってるよ」
「どのへんがですか」
「この“お疲れモード感”。ほどよく生活感ある」
ふっと笑いながら、彼女は文房具コーナーのほうへ歩いていった。
まるで昔からこの店に通っているみたいに、自然な足取りだった。
「今日は……買い物ですか?」
「うん。近くで友達の展示会があってさ。帰りに寄ってみた。あなたがここで働いてるって言ってた気がしたから」
「……言ってましたっけ」
「たぶん、目がそう言ってた」
振り返ってそう言う顔が、どこか楽しそうだった。
しばらくして、彼女は売り場じゃなくて、僕のポケットからペンを取って、レジに置いた。
「これ、いいね。紙飛行機描くのにちょうど良さそう」
「なんで……」
「あの日、お会計の時にポッケから落としてたんだよ。返そうと思ったんだけど、帰っちゃったから」
「……」
「そんで勝手に見た、ごめん」
そう言って、少しだけ目を伏せた。
「でもさ、あれ、悪くなかったよ。歪でも、飛ぶ線だった」
その言葉が胸の奥に刺さって、一瞬、世界の音が遠のいた。
彼女はペンを僕のポケットにしまいながら、「また描きなよ」と軽く言った。
「そういう線、好きだから」
それだけ言って、あの駄菓子屋より5円高いチョコを2つ買うと、振り向きざまに手をひらりと上げて、ドアの向こうに消えていった。
自動ドアの閉まる音が聞こえる。
蛍光灯の下で、自分の影だけが少し長く伸びていた。



翌朝、目覚ましが鳴るより少し前に目が覚めた。
カーテンの隙間から射し込む光。いつもは突き刺さるように感じていたのに、今日は柔らかく感じた。
いつもと同じ通勤路。
同じ電車。
同じ車両の、同じ位置に立つ。
それでも、窓の外の景色が少し違って見えた。
雲のかたち。
ビルの影の長さ。
子どもがランドセルを背負って走る姿。
今まではただ流れていたそれらの光景が、今日はやけに輪郭を持って見えた。
ポケットの中には、
昨夜描いた紙飛行機が一枚、折らずに入っている。
触れるたびに、紙のざらつきとインクの線の跡が確かに指に残る。
職場に着くと、いつもより早く開店準備が終わっていた。
商品を並べながら、ふと棚の隙間を見た。
そこにあるものが、きれいでも汚くても、誰かが、手ずからひとつひとつ並べたんだと思うと、何か意味があるように見えた。
「店長、今日なんか機嫌いいっすね」
アルバイトの子が笑いながら言う。
「そうかな」
「はい。昨日と顔違います」
「……昨日がどんな顔だったんだろう」
「うーん、お菓子買ってもらえなかったちびっこみたいな感じ」
「案外、かわいい?」
そんなやり取りが妙に楽しかった。
少しだけ、今の日常を受け入れられたような気がした。
――また、あの駄菓子屋に行ってみよう。



早上がりの日、心に足が生えたように、あの商店街を歩いていた。
前に来たときより風が冷たくて、西日がアスファルトを薄く染めていた。
駄菓子屋の軒先には、小学生たちが別れのあいさつをしていた。
のれんが少し揺れて、風鈴が優しく鳴る。
「あ、いらっしゃい。うまい棒はそっちじゃないよ」
相変わらずの声だった。
「……なんでいつもうまい棒決め打ちなんですか」
「あ、違った?」
彼女は少し笑って、カウンターに肘をついた。
「じゃあ今日は、なに買いに?」
「いや、ちょっと……この前、言ってたじゃないですか」
「んー、“歪でも飛ぶ線”ってやつ?」
「はい。それ、なんか……ずっと頭に残ってて。昨日、また描いたんです」
そう言いながら、ポケットから一枚の紙を取り出した。
折れ跡のついた紙飛行機のスケッチ。
彼女は受け取らずに、少しだけ身を乗り出して覗き込んだ。
「……いいじゃん」
「下手だけど、いいんですか?」
「うん、下手だね」
その言い方が優しくて、否定にも冗談にも聞こえなかった。
「でもさ」
彼女は視線を紙から上げて、ゆっくり言葉を選ぶように続けた。
「“描いた”んなら、もう描けるんだよ」
当たり前のこと、だけど、その通りだと思った。
「……なんか、また描きたくなりました」
「うん、描きなよ。どうせ誰も止めないし、誰も責任取ってくれないんだから」
彼女は飄々と笑った。
でもその笑みの奥に、かすかに彼女の本気がにじんでいるような気がした。
「また、来ていいですか」
「うん。うまい棒の補充があるときにね」
外に出ると、空気の冷たさが少し心地よく感じた。
扉を閉めながら、カウンターの彼女と目が合う。
「めんたい味、入れといてください」


その日の夜は、ただ描いていた。
痒いところをかくように、なんとなく髪を触るように。
線を引くたびに擦れる紙が心地いい。
DJがスクラッチするみたいに消しくずを手の甲で弾く。
気づけば、飛行機が書いた覚えのない雲の中を飛んでいた。 
線を引くうちに、手首が黒ずんで、それがまた紙を淡く汚していた。
指でこすってもティッシュで拭いても手首の汚れは取れない。 
洗ってこようと思って腰を上げると、膝が鳴った。

大きな紙飛行機、小さな紙飛行機。 
折り方が想像できない、4枚の翼がついた紙飛行機。 
ネットで見かけた、翼のない筒状の紙飛行機。 
黒一色で塗りつぶしてみたりもしたけど、そのどれもが、人を運ぶには頼りなく見えた。



西日を背に商店街を歩いていると、向こうから駄菓子を片手に握った子供たちが走ってきて、そのまま両脇をパタパタと駆け抜けていった。
伸びた影、アスファルトの向こうに落ちる自分の頭と目を合わせて、その影が誰ともぶつからないように歩き続ける。
やがて、にゅっと横から腕が伸びてきて、影が首ちょんぱにされる。 
「よっ。うまい棒なら、さっきのがきんちょが買ってったので最後だよ」
聞き馴染んだ声に引っ張られて顔を上げると、声の主と目が合う。 
「……残念」 
「思ってないだろう。……ぶっくし」 
彼女はいつもの黒いTシャツに、短パン、そしてサンダルを履いている。 
「それ、ちょっと寒いんじゃないですか?」 
「わかってんなら、さっさと入りなよ」
袖をつままれながら、店の中に入った。

「はー。さすがにはんてんなしだと少し寒いね」
「どうかしたんですか」
「洗濯中。ブタメンこぼした」
「ドジですね」
「もったいないことをした」
何気ないやり取りに、不思議と口角が上がる。
そのまま沈黙が5秒くらい続いた。 
彼女はいつものカウンターに戻る様子はない。
「あの……」
「描いてきたんじゃないの?」
 「……まあ、はい」
 「……飛べるヤツ?」 彼女は目を細めて言う。
 「わかんないです」 
そう言って取り出した紙切れは、少ししわが寄っていた。
「ふうん」 
彼女が、ほっ、と息をつきながら紙を盗み取る。 
「ま、飛ぶは飛ぶんじゃないかい」
 ぴらぴらと紙を揺らしながら、続ける。 
「人は乗れないだろうけど」 
いたずらに笑う彼女の手から紙を奪い返す。 
そこにあるのは、翼のない、筒状の紙飛行機だ。 
「一般的に、飛行機って言ったら、翼に何かを乗せたいって思うもんじゃない?」 
「よく飛ぶらしいです」 
「なんだ、飛ぶんじゃん」 
「ああ、いやぁ……」 
僕が口ごもると、彼女はおもむろに顔を近づけてくる。 
「次さ、人が乗るところ想像して描いてみなよ」
「人、誰を?」
「君と、私だよ」
「え……」
「照れちゃう?」 
「照れないです」
「それより、名前」 
「千代田くん?」 
「いや、お姉さんの」
 彼女はほんの一瞬表情を固めて、それから、ふっと笑った。
 「そっか、そういえば、まだ名乗ってなかったか」 
「君、とか私、とかばっかりで...」
「れんだよ。恋と書いてれんと読む。かわいいだろ」 
 「確かに、かわいいですね」 
「だろ」 
歯を見せて笑う彼女は、どこか子供っぽい。
「…紙、借りていいですか」 
「いいとも」 
「ペンも、借りていいですか」
 「いいとも、ツー」 
 飾り気のないシンプルなボールペン。
だけど、うちの店には置いてない。
きっと、彼女――れんのお気に入りなんだろう。  
 滑るように走る線が心地いい。
 ペンを動かしているのか、ペンに動かされているのか、わからなくなる。 
走り出したペンは止まらない。
線を引くたびに、頭の中にあったもやが、形あるものになっていく。
どんな形かはわからない。
ただ、それはとても澄んでいる。
澄んでいて、あたたかい。
夕日を背に受けながら伸ばした両翼は、少し歪だ。
だけど、悪くないと思えた。
翼の上に、黒い点を2つ打って、ペンをそっと置く。
「飛べました」
れんがのぞき込んで、ふっと笑う。
「へぇ、ちゃんと乗せてくれたんだ」
「言われたので」
「⋯⋯じゃ、ついてきて」
「え?」

理解が追いつかないうちに、カウンターの奥まで招かれる。
そのまま階段を上がると、屋上に出た。
「紙、もらうね」
さっき書き上げたばかりの紙飛行機を、ひょいと取り上げられる。
「何をするんですか」
「ま、見てなよ」
れんは迷いなく、紙を一定のスピードで折り曲げていく。その手順は、見覚えのあるものだった。
「じゃん、上手く折れたよ」
それは、その紙に描いてあったのと同じ形の紙飛行機だった。
そりゃ、とそれを空へ投げる。
「おっ、飛んでる、飛んでる」
フラフラとした軌道を指でなぞりながら、れんは笑っている。
やがて、夕日に照らされながら、その歪な線は、商店街の雑踏の中に消えていった。
「飛びましたね」
「次はどこまで飛ばす?」
「次⋯⋯」
れんと目を合わせて、答える。
「もっと、遠く。見えなくなるくらいまで」
れんがふっと笑う。
それは、夕日が沈みかける瞬間の光みたいに、短くて、やさしい顔だった。
「なら、私が風になる」
「あなた、乗客だろ?」
ふたりして笑う。
駄菓子屋の外では、子どもたちの笑い声がまだ残っている。
その音と、西日に染まる空気が混ざり合って、何故か目頭に熱いものを感じた。
れんが教えてくれた、日常に空いた風穴。
その風に乗って、今なら。



それから1週間が経った。
静かな部屋でノートパソコンと向かい合う。
傍らに、描きかけの紙飛行機の束。
どれもまだ折られていない。
画面の中央に、短い文章が並んでいる。
応募フォームの最終確認。

「大募集! 町おこしコピーライト」

タイトル、本文、連絡先。
送信ボタンの上に、カーソルを合わせる。

——どうせ、誰も止めないし、誰も責任は取ってくれない。

ふっと息を吐いて、クリックした。

「送信が完了しました」

その一文だけが画面に残った。
タブを閉じると、裏で開きっぱなしになっていたファイルが表示される。

【退職届】

決まりきった文で埋め尽くされたそれは、日付だけが空白のままだ。
カーソルが点滅している。
その小さな光が、何故だか少しだけ心強くて、そのままパソコンを閉じた。



翌日、駄菓子屋を訪れると、暖簾が下げられ、扉が半分開いていた。
中へ入ると、子供たちとれんがカウンター越しに向かい合っている。
「今日で、ここ最後なんだ」
れんはいつも通りの声で言った。
子どもたちは一瞬だけ黙って、それからすぐに騒ぎ出す。
「えー、じゃあ明日から誰が店番するの?」
「知らないおばちゃんじゃない?」
「ヤダー」
「大丈夫大丈夫。ちゃんと次の人くるから」
子供たちは不満そうだったけど、泣きもせず「またね」と言って帰っていった。

「辞めちゃうんですね」
「十分あったまったし、食べたいもの、まだまだあるからね」
そういってはんてんを脱ごうとするれんに、売り場からうまい棒を2本取って渡す。
「餞別ってことで」
「……まいど」
いつも通りの声色で、いつも通りに笑っていた。
「じゃあ、また」
彼女との再会はそう遠くない、確信がある。
「うん、またね」
軽い返事が、茜差す駄菓子屋の空気を揺らした。
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