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1章 運命の出会い
2、からっぽ
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<からっぽ>
ぼくがからっぽになったのは、5歳の頃に剣道という趣味を失ったからだ。
物心ついた頃から竹刀を握っていた。
幼い頃の記憶で真っ先に思い出すのは、一條神社の境内で鬼のような形相の父に見守られながら手の皮がボロボロになるまで素振りをしたことだ。
父は本当に怖かった。稽古をしてくれと頼んだわけでもないのに、父はぼくを厳しく指導した。呪文のように唱えられる「強くなれ。とにかく強くなれ」という言葉は、ぼくに大きなプレッシャーを与えた。
父のその言葉とは裏腹に、ぼくは剣道が上達しなかった。参加していた剣道教室では最年少だったこともあり、門下生の中で一番弱かった。
誰よりも強くあることを求めていた父は、弱い息子が許せなかったのだろう。その指導が厳しさを増したこともあり、ぼくは少しずつ力をつけ始めていた。
そんなある日、あの忌々しい事故が起こった。
同い年の門下生と実践形式の地稽古に臨み、お互い1本ずつ取り合っていたときだ。
ぼくは小手で相手のバランスを崩し、止めの面を打とうとしていたが、そのとき相手は、禁止されていた突きを繰り出したのだ。相手の竹刀は一直線に、面を着けていなかった顔面に飛び込んできた。
竹刀の先は、ぼくの右目を思い切り突き刺した。視界が真っ白になると同時に、右目に激痛が走った。急いで病院に運ばれ、診断を仰いだ結果、網膜裂孔と診断された。手術の結果、右目の視力は大幅に低下してしまった。
手術だけでなく、さらに大きな問題がおこった。稽古に励んでいる最中に、あの事件の恐怖が蘇り、思い切って竹刀を振ることができなくなったのだ。
父は、そんなぼくを、「臆病者」と罵った。父は何度も、「お前は強くあらねばならない。強くあるためには剣を振ることは絶対条件だ」と、どなりつけた。しかし罵られても竹刀を振ることができるようにはならない。それどころか、ぼくは父から「剣を振ること」しか求められていないのか、と思うようになった。
父はぼくを大切にしているわけではなく、「息子が強い」ということだけに関心があったのだ。なぜ強さに拘っているのかはわからなかったが、熱心に指導していたのは、愛ではなく、自らの欲求のためだということに気づいた。
その後、剣道を拒絶したぼくに対して、父はもう何も言わなくなったが、明らかに態度が変わった。夜遅くに母と口論をすることも多くあった。両親がぼくのことで言い争っているのはつらかったが、もう一度剣道を始めようとは思わなかった。剣道が好きという気持ちよりも、父の勧めに従っていただけなのかもしれない。
ぼくが剣道から離れて1か月ほどが経ったある日、父は家に帰らなくなった。
母が泣きながら、ぼくにこう言った。
「父さんと母さんはね、お別れをしたの」
「ぼくのせいなの?剣道をできなくなったから?」
「イサミのせいじゃないのよ。イサミのせいじゃないの。母さんが、あのことを隠していたから…」
「あのこと…って?」
母は何も答えてくれずただすすり泣いた。そして、不安そうに母を見つめるぼくを、ギュッと抱きしめてくれた。
その日からぼくは心を閉ざすようになり、母は物思いにふけることが多くなった。母は朝から晩まで働いたが、生活水準は高いとは言えなかった。しかし、ぼくにはその環境が辛いとは思わなかった。父がいなくなってから、母は女手一つでもぼくに立派な大人になってほしいと必死で働いてくれているのだ。だからぼくは、早く働きに出て母に恩返しをしよう、と思うようになった。
いい人生の定義は人それぞれだけれども、ぼくの人生は周囲の人から評価されることが少なかった。きっとこれからの人生も…
ぼくがからっぽになったのは、5歳の頃に剣道という趣味を失ったからだ。
物心ついた頃から竹刀を握っていた。
幼い頃の記憶で真っ先に思い出すのは、一條神社の境内で鬼のような形相の父に見守られながら手の皮がボロボロになるまで素振りをしたことだ。
父は本当に怖かった。稽古をしてくれと頼んだわけでもないのに、父はぼくを厳しく指導した。呪文のように唱えられる「強くなれ。とにかく強くなれ」という言葉は、ぼくに大きなプレッシャーを与えた。
父のその言葉とは裏腹に、ぼくは剣道が上達しなかった。参加していた剣道教室では最年少だったこともあり、門下生の中で一番弱かった。
誰よりも強くあることを求めていた父は、弱い息子が許せなかったのだろう。その指導が厳しさを増したこともあり、ぼくは少しずつ力をつけ始めていた。
そんなある日、あの忌々しい事故が起こった。
同い年の門下生と実践形式の地稽古に臨み、お互い1本ずつ取り合っていたときだ。
ぼくは小手で相手のバランスを崩し、止めの面を打とうとしていたが、そのとき相手は、禁止されていた突きを繰り出したのだ。相手の竹刀は一直線に、面を着けていなかった顔面に飛び込んできた。
竹刀の先は、ぼくの右目を思い切り突き刺した。視界が真っ白になると同時に、右目に激痛が走った。急いで病院に運ばれ、診断を仰いだ結果、網膜裂孔と診断された。手術の結果、右目の視力は大幅に低下してしまった。
手術だけでなく、さらに大きな問題がおこった。稽古に励んでいる最中に、あの事件の恐怖が蘇り、思い切って竹刀を振ることができなくなったのだ。
父は、そんなぼくを、「臆病者」と罵った。父は何度も、「お前は強くあらねばならない。強くあるためには剣を振ることは絶対条件だ」と、どなりつけた。しかし罵られても竹刀を振ることができるようにはならない。それどころか、ぼくは父から「剣を振ること」しか求められていないのか、と思うようになった。
父はぼくを大切にしているわけではなく、「息子が強い」ということだけに関心があったのだ。なぜ強さに拘っているのかはわからなかったが、熱心に指導していたのは、愛ではなく、自らの欲求のためだということに気づいた。
その後、剣道を拒絶したぼくに対して、父はもう何も言わなくなったが、明らかに態度が変わった。夜遅くに母と口論をすることも多くあった。両親がぼくのことで言い争っているのはつらかったが、もう一度剣道を始めようとは思わなかった。剣道が好きという気持ちよりも、父の勧めに従っていただけなのかもしれない。
ぼくが剣道から離れて1か月ほどが経ったある日、父は家に帰らなくなった。
母が泣きながら、ぼくにこう言った。
「父さんと母さんはね、お別れをしたの」
「ぼくのせいなの?剣道をできなくなったから?」
「イサミのせいじゃないのよ。イサミのせいじゃないの。母さんが、あのことを隠していたから…」
「あのこと…って?」
母は何も答えてくれずただすすり泣いた。そして、不安そうに母を見つめるぼくを、ギュッと抱きしめてくれた。
その日からぼくは心を閉ざすようになり、母は物思いにふけることが多くなった。母は朝から晩まで働いたが、生活水準は高いとは言えなかった。しかし、ぼくにはその環境が辛いとは思わなかった。父がいなくなってから、母は女手一つでもぼくに立派な大人になってほしいと必死で働いてくれているのだ。だからぼくは、早く働きに出て母に恩返しをしよう、と思うようになった。
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