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4章 選挙と特訓

9、侍脳

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振司と呼ばれる雲水の鳴らす振鈴が起床の合図だ。時刻は朝4時。
さっと身支度を済ませて、座禅と、掃除を行い、麦飯に一汁一菜の朝食を済ませた後に、修行が始まる。
 
トシは朝からご機嫌斜めだった。
「こんな朝っぱらから起こされて、やってられねえぜ。せっかくの夏休みに…」
 
「こらトシ。文句を言わずにしっかり修行に励まんか!京都のときみたいにまた呆気なく負けたいのか!?」檄を飛ばすのはケンモツさんだ。
 
 
―――――――――――――――――
 
その日の修行も素振りと体力作りを中心とした基礎的なものだったが、次の日は八王子市の西の端にある九頭龍の滝に向かった。
 
滝に打たれる修行は、テレビの世界だけだと思っていたが、ぼくとトシは滝に打たれている。
 
そのとき、宗輝さんから興味深い話があった。
「お前たちにこの合宿の目標を教えておこう。それは、侍脳を身につけることだ」
 
「さ、侍脳?」
 
「これは、レジェンド・藤岡弘さんがよく使っている言葉だ。
`侍脳`とは、迷いがなく、一瞬に体が動いて対応していく状態のことだな。
お前たちもこの合宿で修行を積む中で、自らの迷いを捨てるんだ。そして、侍脳を身に着けろ!」
 
侍脳…
ぼくはその言葉が妙に頭に残った。
 
武士より武士らしくあろうとした新選組も、'侍脳'を備えていたんだろうか。
 
 
―――――――――――――――――
 
4日目からは基礎訓練に加えて、実践練習に入った。
 
宗輝さんが打ちかかる打ち太刀を演じ、ぼくらがそれに対応して反撃する仕太刀で太刀筋を学ぶ、という伝統的な稽古法を実践する。

「太刀筋なんてものは、どんなに奇をてらったところで、結局は真ん中と左右、そして上中下段の三×三=九つしかねえ。だから俺の太刀筋をよく見て、それを体で覚えこむんだ」
 
「はい!」
 
「剣術は体力と胆力、先を読む眼力が要求されるが、それらを身につけた新選組の若者が実戦で強かったのは当然だ。お前らもそれを身につけるよう意識するんだ。

あともうひとつ。剣の基本は、斬られねえようにするより、斬るってことだ。一にも先、二にも先、三にも先をとれ。
 
それとな。相手の剣先が下がったら面、相手の剣先が上がったら小手という、セオリーばかりにこだわるな。
自分から攻め入って、相手の反応を見るんだ」
 

ぼくらは宗輝さんから剣の理論を学びながら、実践で体を鍛えていった。
少しでも、新選組に近づけるように…
 
 
 
その後、侍さんはぼくに語りかける。
「勇、京都で、お主と父の戦いを見ていて気付いたのじゃが、お主にはひとつ弱点がある。それは中心が取れていないのじゃ。やはりまだ恐怖が残っておるのかもしれんなあ」
 
侍さんの言葉を聞いて、宗輝さんは説明を加える。
「中心をとるというのは相手とまっすぐ構えた状態の時に、自分の剣先が相手よりも中心にある状態のことだ。たしかに勇は、簡単に刀を中心から外して防御態勢に入ることが多いな」
 
「どうして中心をとる必要があるの?」
 
「それは刀を素早く振るためだ。振りの速度にかなりの差があれば別だが、振りのスピードが同じくらいであれば、スタートの位置が大切になる。中心をとれるようになれば、相手が遠い間合いからフェイントをしかけたとしても慌てることがない」
 
その後、ぼくは中心をとれるように特訓を行った。
 
 
合宿も中盤に差し掛かったころ、ぼくらは敵のお頭、つまりぼくの父の対策に励んでいた。
 
侍さんは父と戦った感想をぼくらに伝える。
「彼は相当の使い手じゃ。真っ直ぐに攻め込んでも、なかなか反応しない。そして、あの巻き技は厄介じゃ」
 
ここで宗輝さんが答えた。「俺は巻き技対策を知っているぞ…それは...」
 

ぼくらがこの寺に来てからあっという間に2週間が経った。
 
合宿最終日は新選組のゆかりの地を訪ねて気持ちを奮い立たせた。そして、武州多摩での修行を終え、高知県への帰路についたのだ。
 
宗輝さんはぼくらの町にバイクを置いているのでまだ行動を共にしているが、高知県に着けば宗輝さんともお別れだ。2週間共に過ごした彼との別れは、非常に寂しいものがある。気のせいか侍さんも、感慨深い表情をしていた。
 
新幹線に乗っているとき、ぼくはトシに話しかけた。
「こんなに修行をしても、長元組がもう何も動きがないかもしれないね」
 
「いや、このまま終わるとは思えない」トシはそう答える。
 
彼の予想は当たっていた。何事もない平和な日々は、終わりを告げようとしていたのだ。


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