上 下
92 / 94
5章 決戦と別れ

16、さようなら、侍さん

しおりを挟む

ケンモツさんが消えてしまったあと、侍さんにも異変が起こった。彼の姿も薄くなってきたのだ。

「さ、侍さんも体が薄くなってきているよ…もしかして成仏しちゃうの!?」

侍さんは、「ああ、そうみたいじゃのう。長宗我部家に復讐を果たしても成仏できなかったのに、やっとあの世にいけるのか…」と落ち着いた口調だ。

「そんなこと言わないでよ…けど、どうして今?」

「ケンモツから儂の暗殺の真相を聞けたからじゃろうなあ。
兼定様が儂を裏切り者だと思っておらんかったことがわかっただけで、もう満足じゃ。さらに、兼定様は、苦渋の思いで、泣く泣く儂を粛正したんじゃろう?
その気持ちも痛いほどわかる。まさに、`泣いて馬謖を切る`という故事と同じじゃったのだからなあ」

`泣いて馬謖を切る`、律を保つためには、たとえ愛する者であっても、違反者は厳しく処分することの例えだ。蜀の諸葛孔明が臣下の馬謖を泣きながら斬罪に処したことが語源だ。

「そうだったね。侍さんは、自分が殺された真相が知りたかったんだ。それを知ることができて、ついに成仏するということか…」

「それにのう、勇。これ以上、儂がお主に憑依すれば、命の蝋燭がさらに短くなり、寿命が短くなるぞ?」

「ぼくの寿命なんてどうでもいいよ!ぼくはもっと侍さんと一緒にいたいんだ!」

「バカモノ!」侍さんは声を張り上げた。「そんなことを言うでない。勇が早死にすれば雪が悲しむぞ…?」

侍さんの声は雪には届いていないはずなのだが、気のせいか彼女も悲しそうな顔をしている。ぼくが寿命の話をしているからだろうか。

話をしているうちに、侍さんはさらに薄く透けてきた。もう別れの時が近づいている…
「でもぼく、自信がないんだよ…侍さんから自分の気持ちを表現する大切さを学んだけど、それは侍さんがそばにいたからだよ。ぼく一人じゃ…」

「そんなことはないぞ?勇が逞しくなっていったのは、お主自身の努力のおかげじゃ。京都の一件以降は、儂がおらんでも立派に過ごしておったんじゃろ?自信を持つのじゃ…」

「そうかなあ…」

「もっと自信を持て!もう儂も宗輝もおらん。これからはお前が雪を守ってやるんじゃぞ?」

「うん…わかったよ…」ぼくは雪を見つめながらそう答えた。

侍さんと話していると、思い出が走馬灯のように浮かび上がってくる。恐怖の夜の出会いも、バッティングセンターでの特訓も、京都での決闘も、全てが昨日のことのようだった。

侍さんは、にっこりと笑う。
「では、そろそろお別れの時間じゃが、最後に言っておきたいことがある。
よいか、勇?自分の心の声に従うのじゃぞ?そして、どんなにつらいことがあっても、心の中の侍を思い浮かべるのじゃ。」

「心の声…か。今後の人生で何か迷ったときは、侍さんのことを思い出すよ。そして侍さんならどうするかを考える」

「そうじゃ。そしてのう。効率や簡単なことだけを求めるでないぞ。機械の画面ばかり見てはならんぞ。人生とは画面を通して生きることではない。生きているその瞬間を楽しむのじゃ。トシや雪、そして家族。大切な人との血の通う時間を大切にするのじゃぞ?

ぼくはじっと、侍さんを見つめた。その髭も、ちょんまげも、触れようとしても触れられない。しかし、侍さんの体に触れようとすると、なぜかぬくもりを感じた。

そうしているうちにも侍さんの体はどんどん透明になっている。もうその姿は幽かに見えるほどだ。

「勇…お主には本当に感謝しておる。ありがとうよ。みんなと、達者で暮らせよ…」そして、これが侍さんの最後の言葉になる。

ぼくは今にも消えかけている侍さんに向かって、最後の思いを伝えた。
「侍さん…君を心配させたくないからさ。この言葉を伝えるよ。
今まで本当にありがとう。侍さんのおかげで、ぼくは心の強い少年になれたよ。だから安心して成仏して、あの世でも幸せに暮らしてね…
さようなら…土居宗珊さん…」

ぼくの言葉を聞いた侍さんは、今まで見せたことがないほどの白い歯を見せた。その瞬間、ガラスの結晶が空に同化していくように、侍さんの姿は消えてしまった。もう誰にもその姿は見えない。きっと、成仏したのだろう。

それはあまりにも突然だった。ずっと一緒にいると思っていた侍さんは、僕の目の前で砕けるように消えていったのだ。
ぼくは両膝をついて、枯れ果てるほど泣きはらした。

しおりを挟む

処理中です...