聖者の金杯 〜魔術師の慚愧、魔王の安息〜

雪月黒椿

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2章 コルマトン編

食後の運動

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突如、耳に女性の悲鳴が割り込んで、はて、とカサネは首を傾げた。何故人の声が聞き取れない自分の耳が、女性の悲鳴など捉えたのか。

「はいはいはい、今行くよっと」

しかし理由などどうでもいい、聴こえたならば行くべきなのだ。この耳が捉えたのなら必要なことに違いないと、カサネは駆け出した。

「やめてって、ちょっと!」

「そうだよー、やめなやめなー」

「いって!」

女性が酔っ払いに腕を掴まれているのを見て、カサネは槍で酔っ払いの腕を叩いた。男たちは合計で3名だが、だからと言ってカサネは怯む様子はない。

「何すんだお前!」

「んだよ、お嬢ちゃんも混ざりたいのか?」

「ないわー、嫌がってる人に無理に迫るとか、ないわー、なしよりのなし」

背に隠した女性が何か言っているのは分かるが、カサネはその内容までは分からない。割り込んで助けた時点で女性の声はほとんど聞き取れなくなった、となると必要なのはおそらくこの女性ではない。男たちの声もほとんど聞き取れない、この男たちでもない。

この耳が自分をどう導こうとしているのか検討がつかず、それでもカサネは耳に従うことにした。

「おい、そいつカサネ・シキじゃないか? 最年少で金階級の」

「んなわけねーだろ。お嬢ちゃん、混ざりたいならそう言やあいいんだよ」

「酔っ払いマジキモいわー。顔洗って帰んなよ、そこに丁度良さげな水たまりあるからさあ」

カサネの肩に触れようとした男の手が槍の柄で叩き落とされた。男は米神を引きつらせた。

「お嬢ちゃん、世の中には逆らわない方が得なことがあんだよ」

「お姉さん災難だねー、送ってこっか?」

「おい、聞いてんのかお前」

「あっはは、べーわ、これじゃ私のがナンパしてるくさい」

ぶわわ、男の振り上げた腕が空気をかき混ぜる音。ざ、踏み込んだ足が地面に着く一瞬の音。

耳は目で見るよりも数瞬早く、カサネに男の初動の一瞬目を伝えてくる。カサネは男の鳩尾を蹴ろうとして、そこで別の音が聴こえてくることに気が付いた。ひゅううん、と何かが飛んでくる。

「あでっ」

それは男の頭に当たって落ちた。正体はドングリで、男は苛立ちながら振り返った。

「おじさん、やめなよ。女の人に3人で詰め寄って、恥ずかしくないの?」

存在感のあるその声は、カサネにもはっきりと聴こえた。そこにいたのはつい先程別れたばかりのエルヴィスだ。何故ここにいるのかは置いておいて、カサネはそこで気が付いた。たまたま耳の調子が良いわけでも、気のせいでもない、エルヴィスの声はよく聴こえるのだと。

「おいおいなんだ、今日は運がいいなあ? こんな可愛いお嬢ちゃんが俺の前に来てくれるなんて」

「お嬢ちゃん?」

男の口の端はぴくぴくと引きつっていて、視線はまるでネズミを睨み付けるようだ。話している内容と表情が噛み合っていない。

「おじさん、僕は」

エルヴィスは性別を訂正しようとして、ふとそこで悪戯心が芽生えた。穏便に済ませられるならいいだろう、というのは建前で完全に悪ふざけだ。エルヴィスが結んでいた髪を解くと、暗い中でも輝くような金髪が舞った。

「ごめんねおじさん、痛かった? おじさんたちがずっとその女の人に声掛けてるからつまんなくって。女と遊びたいんでしょ?」

声変わりが始まったばかりのエルヴィスの声は、少年のものにも、ハスキーな女性のものにも聴こえる。荒事になるよりはと、エルヴィスは唾を飲んで喉を鳴らし、なるべく滑らかに発声した。

「そんな連れない女に構うより、私にお酒の1杯でもご馳走してよ。1人じゃお店に入りにくいの、分かるでしょ?」

「へっ、あ、おお……」

暗くて分かりにくかったが近くでよく見ると実に美しい少女だ、勘違いしたまま男はつい怒りを忘れた。葡萄酒と麦酒の飲酒が許されるのは16歳からで、エルヴィスは現在15歳だが言われなければ分かるはずもない。

エルヴィスはカサネに目配せして、男たちを引き連れて大通りへと出て行った。登場から僅か1分程の出来事であった。カサネは視線を彷徨わせて、自身の後ろにいる女性を振り返った。

「どーしよお姉さん……」

「えっ? いえ、あの、どう……どうすればいいんでしょうね……?」

「あ、カサネさん」

再び聞き覚えのある声がカサネの耳に割り込んだ。アルヴィンの声だ。

「あんれ、どったのアルヴィン」

「いや、なんか女性の悲鳴みたいなのが聴こえたんで。こっちにエルヴィス来ませんでした?」

「来たよ。髪下ろしてマジエンジェル状態でおっさんたち連れてった」

「はい?」

エルヴィスの声よりは若干濁っているが、アルヴィンの声もカサネにはよく聴こえる。耳が積極的に聞き取っているのだ。カサネは諦め半分で確信した。

相当強く掴まれたのか、女性の腕は薄っすらと赤くなっている。カサネが見送りを提案したが、女性は遠慮して何度も頭を下げながら、人の多い大通りへと向かった。

数分後、エルヴィスは髪を結びながら戻ってきた。面倒臭そうに欠伸を零して、カサネとアルヴィンを見つけて駆け寄った。

「何してたんだお前」

「女の人がおじさんたちに絡まれてたから、助太刀のつもりで女の子のフリして遊びに誘ったんだ。適当なところで撒いてきたけど」

「本当に何してんだお前」

エルヴィスはやや掠れ気味の声で、不快そうに喉を鳴らした。ちょっと無理あるかなっておもったんだけどね、と苦笑しているが、外見だけならば少女にしか見えない。

「いくら外見がそれっぽくても、女のフリとか嫌じゃないのか。俺だったら自分がやるとこ想像しただけで鳥肌立つ」

「え、何言ってるの。使えるものなら使わないと」

「お前のその逞しいところは嫌いじゃないけど真顔やめて」

「それにどうせ1年後には背も高くなって筋肉バッキバキだから別に今が女の子ぽくってもどうでもいいし」

「それはそれで違和感がものすごい……真顔やめろって」

「ねえ、あのさ」

アルヴィンとエルヴィスの会話に割り込んだカサネは、2人に視線を向けられて目を伏せた。割り込んだはいいものの、どう切り出せばいいのか分からなかった。

「んーと、そのね」

「はい、なんでしょう」

「えっとさ、急になんだって思うかもだけどさ……私ね、2人とパーティ組みたいのかもしんない」

「えっ?」

アルヴィンはまったくもって分からなかった。話自体唐突であったし、変に手を出すなと言ってほとんど1人で仕事を終わらせてしまったカサネに、パーティを組む必要があるとは思えなかった。しかもエルヴィスに至っては実力を見ておらず、武器が弓ということしか分かっていない。

「違うな……組みたいってわけじゃないんだわ。組むべきなのかなーって」

「どうしてですか?」

「2人の声が聴こえやすいから」

「……それだけですか?」

「うん。最初は聴こえにくかったけど、1日でどんどん聴こえやすくなってる」

やはり理解し難く、アルヴィンは困惑した様子でエルヴィスに目をやった。しかしエルヴィスは深く考える様子もなく、どっちでも、と言った。

どちらにせよ射手のエルヴィスの仕事は変わらないのだが、それにしても薄情ではないかと、アルヴィンは分かりやすく顔を顰めた。

「俺はカサネさんと組めるなら正直嬉しいです。けど言っておきますが、今の俺はどうやっても足手纏いにしかなりません」

「つまり?」

「組みたいけど現状では組むわけにはいかない、そんな状態かなと」

「けどもうひとつ武器あるんでしょ、飛び道具だっけ? なんかルクフェルさんがチラッと言ってたけど」

適当に吐いてしまった嘘に早くも首を絞められかけて、アルヴィンは視線を泳がせた。カサネはアルヴィンのそんな様子を気に留める様子はなく、矢継ぎ早に続けた。

「そのもうひとつの武器って秘密にしなきゃいけないもんなの? なして?」

「ちょっと説明が難しいんですが……非現実的で強力過ぎるからです。これを知った人物に、殺人に利用されそうになったこともあります。要はいろいろ危険なんです」

「ふうん。私そんなことしそうな人間に見える?」

「いえ、見えません。見えませんけど……」

口籠ってしまったアルヴィンを見て、カサネは小さく溜息をついて2人の手を引いた。一瞬の表情がやけに大人びているように見えて、アルヴィンはそう言えば彼女は自分たちより2つ歳上だった、と気が付いた。かと思えば、カサネはまた子どもらしい笑みを見せた。

「食後の運動でもしよっか」

「へ?」
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